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仏教真理は人が生き抜くために釈迦が説き、先人によって伝えられたきた素晴らしいスピリチュアル・メッセージなのです。
悩み疲れた人々の松葉杖として機能し、私がカウンセリングにも取り入れております。 私が所属するサイトもよろしければ、ご訪問ください。 もし、あなたが何かにお悩みならば、霊視とカウンセリングで解決の道が開かれるかも知れません。 「heizoのスピリチャルに言わせてね」と 「黄月の幸せの散歩道」にもぜひ、お立ち寄りくださいね。 そして、お気軽に掲示板やコメントに感想などをお書きください。 heizo Jyusenの日記 [全50件]
人は誰しも孤独になれば不安と恐怖を感じるようになる。 原始仏典では孤独を以下のように伝えている。 「人はその運命のぎりぎりのところに置かれた場合に孤独になる。」 「そして、その孤独を自覚し、実情では人は人に執着し、迷っている。」 「人はその迷いを捨て去る努力が必要なのである。」 「人は人に縛られ、依存し、あるいは害われ、また害う。」中略 「人は多くの人を悩まし、最後は人を捨てて行く。」 「人はかくも孤独であるから、その孤独に徹せよ。」 これらは苦しく悩んでいる時には黙想して自分を内観せよ、つまり具体的な行動として座禅を示唆しているのである。 孤独は不安で苦しいことかも知れない。 しかし、その思いが強いほど自分は人に依存し、執着しているということにもなる。 原始仏典は自分を内観する座禅を勧めて、考え方を転換すれば孤独は自由のことであると説いているのである。 もし、孤独を感じているのならゆっくりこれまでの自分の人間関係を客観的に思い返してみましょう。 孤独とはそういう自分を省みる自由時間が与えられたということなのかも知れません。
先の衆院選で民主党が圧勝し、いよいよ政権交代が成されようとしている。 与党の敗因をマスコミやメディアが「風」だと評したので落選議員たちも強い「風」を感じた、「風」には逆らえなかったというようなことをコメントしている。 しかしながら、これはスピリチュアルにありがちな感性とその表現に通じるところがあり、本当にそう思っているのであれば問題点を見誤り、心が反省に至らないと思われる。 国民には低所得者が圧倒的に多く、また、構造改革とやらでそれを更に増やし、それらを引き継いできた以後の政権が多くの珍事、不祥事を起こして不信が募ったということ、また、長年に亘る政官業の馴れ合い、癒着によって真の改革が成されなかったことが最大の要因であると考えられる。 それらのことを曖昧無責任な「風」という表現で片付けていたら政党やその時の候補者に先はないだろう。 そして、もっと酷かったのは与党の大黒柱、エンジンだと主張していた政党である。 彼らは小選挙区で全敗した。 しかし、幹部の敗因のコメントでは活動中にそういう「風」はあまり感じなかったと言っていたが、それを聞いて自分は苦笑した。 そりゃそうに違いない、街頭演説では政党を支援する信者が大量に集まり、そこには会社を休み、家事を放って別の選挙地区から手弁当で集まってきて、まるで名誉会長の演説よろしく、「必勝!」、「ウォー!」と拍手喝采、皆が薄気味悪い満面の笑顔で連呼して答える。 そのような連中ばかりが候補者を囲むのだから世間の空気や風を感じれる訳がない。 この政党は長く与党にあることでその母体である宗教団体をボディガードしてきた。 逆に言えばボディガードするためだけに与党にあったということであろう。 圧力で言論を封じ、批判を封じてきたのである。 これからはそうはいかない、誹謗中傷はいけないが、正当な批判は受けるべきであろう。 私の友人も言っていたが、名誉会長存命の内にこれが起こったことが本当によかった。 正にスピリチュアルで言うならばお天道様が判断を下されたのである。 今後、与党となる民主党には確かに不安は大きい、しかしながら自分は変な宗教政党が与党から外れたということだけでも国民の利であると感じている。 憲法九条の矛盾に付いてはこれまでも議論になってきたが、今後は政治と宗教の問題に関わる憲法二十条の改正と切り込みにも着手して欲しいと希望する。 これまでの与党政権下の10年余りに延べ30万人もの人々が自死していることを忘れてはならない、前政権与党のカルマは増大なのである。
全ての人に与えられている基本的な霊的課題はカルマの清算である。 カルマを清算する方法とは人様に対して慈愛の心を持ち、奉仕することである。 今が孤独で苦しいという人は自分のことだけを考えすぎ、結果的に自分のことで精一杯になったために人様に対して純粋な気を向けることができず、もう一つのカルマの清算方法を無意識な内に選択している可能性がある。 それはただ自分が苦しく、不幸になり続けることである。 いずれにせよ、人はこの世に生まれてきた限りには必ず何らかの形でカルマを清算させられるということなのであろう。 それらの状況に翻弄されることなく、今の自分の状態を客観的に見ることが必要である。 奇跡の人で知られるヘレン・ケラーは苦悩の末にその身のハンデを神が与えた試練だと受け入れ、それを克服して見せることが同じハンデを持つ者を救うことになると認識し、それ以後の行動には常に慈愛と奉仕があった。 もし、自分がその無意識なるただ苦しく、不幸になるというカルマの清算を選択しているようならぜひ切り替えようではないか。 私はそのきっかけを与えられる存在になれれば幸せである。
スピリチュアルはもう今では旬ではなくなったと思われるが、それらでは一貫して人の生きる目的は気付きと学びのためであるように言われている。 確かにそれは間違いではないが、私は真の目的に付帯することではないかと考えている。 仏教を通して考えると万民に共通する生きる目的とはカルマの清算にあり、その過程で自分のことに気付き、同じ過ちを起こさぬように学んで行くことになる。 カルマを仏教に造詣の深かった故・志村武氏は著書に「人間の道徳的領域において働く進化と遺伝の理論」だと記しておられる。 カルマははっきりと人の目に見えるようなものではないが、自分がある程度の年齢になって冷静に心を落ち着けてみると何となくその意味を感じることができるはずだ。 このカルマは人の肉体に存在するのではなく、魂に刻まれているのである。 魂は永遠であるために、いわゆる前世からそれを引き継ぎ、更に来世にも引き継いで行くことになる。 しかしながら、この仏教のカルマという真理は人の運命論や人の努力を諦めさせたり、また、人生を放棄させるために釈迦が説いたのでは決してないはずだ。 貧苦や病苦に苛まれていたとしてもその原因が全てカルマにあるとも限らないのである。 釈迦の言いたかったことは人は生きていると様々な苦しみや哀しみに遭遇する。 もし、その原因が自分にあるとしたなら、それを以後は改善しなさい、いくら冷静に考えてもその原因に思い当たるところがなければ、それは過去世のカルマとして一旦、心の整理を着けなさいということではないだろうか。 そして、加えてその過去世のカルマを減らすために、今から善行を積めばいいということではないだろうか。 カルマ論は1つの経典に記されているのではないが、その1つを今回は紹介しよう。 原始仏典の中にミリンダ・パニャというミリンダ王という、時の王様と釈迦の問答が記された経典があり、その中に次のような一節がある。 「王に問う、例えばある男が灯火を持って屋根に上り、食事をした時にその灯火が、かや葺きの屋根を燃やし、その火がやがて家全体を燃やし、家の炎が村をも焼き尽くしたとしよう。」 「村人がその男を捕らえ、なぜ、おまえは村を焼いたのだと問い詰めると、その男は俺は村など焼いてはいない、俺が食事のために使った灯火と村を焼いた炎とは全く別のものだと答えた。」 「村人たちとその男が口論し、もし、王のところに相談に来たなら王はどちらの申し立てを支持なさるか。」 王は即座にこう答えた。 「尊氏よ、私は村人たちの言い分を支持します。」 釈迦はいかなる理由からかと王に問う。 「尊氏よ、たとえその男が何と言おうと村を焼いた火はその男が食事で用いた灯火に違いないからです。」 釈迦は王に説く。 「王よ、それと全く同じく人の形と名は死によって終わる。しかし、次の世にまた生まれ出る形、名は別のものであっても後者は前者から生じたものなのです。」 「それゆえに、人の悪業(悪いカルマ)というものは引き継がれ、それからは簡単にまぬがれないものなのです。」 もし自分の身に強い悪業が引き継がれ、それで苦しいと自分の心に整理を着けることができたならば、その後はただ、善行を積むことを考え、実行すればいいのだ。 清く、正しく生きていても、突然に貧苦や災難に苛まれるということが起こり得るのが人の一生なのである。 しかしながら、そういう人物はそういう不遇にあってもそれを深く気にかけず、人のために生きることを考える。 そうすることで、いつのまにかその苦しみを忘れることができるのだろう。 志村氏が言うように私にも釈迦がそうメッセージを残しているくれているような気がするのだ。
人には誰にでも願いというものがある。 願い、つまり願望というものが簡単に叶うならば苦労することはない。 願望とは必ず達成させるためだけにあるのではないと私は思う。 それを1つの目標として、あるいは方向性として取り組むことに本当の意味がある。 釈迦は出家して40年にも渡って次のように説いてきた。 「世の中にはあらゆる苦しみが満ち溢れている。しかし、どんな苦しみにも全ての元には我々の我が強いところに原因がある。人は誰でも欲が深く、自尊心を傷つけられては怒り、真相を知らずに愚痴っている。」 「結局はこれら三毒も我をはって、自分に執着するところから起こるものであり、苦しみをなくすためには何よりも自分にしがみつく心を徹底的に滅ぼさなくてはならない。」 そう釈迦は説き続けたのである。 強欲、この場合の怒り、そして、真相を知らない愚かさを「貧・瞋・痴」という心の三毒といい、これまでもこれがカルマの元ともなり不幸をもたらすとお話をしてきた。 人は知らずの内に自己に強く執着して行く。 自分の手法、考え方、行動、言動。 しかしながら、これにも良い場合と悪い場合がある。 それらを多くの人が快く思い、評価してくだされば問題はない。 お付き合いをしている中で何となくギスギスした感じやトゲトゲしく感じる人がある。 そういう感覚を多くの人が持てば新しい縁は離れて行く、縁する人が限られて行く、気が付けば孤独、つまり心の不幸になっているかも知れないのである。 釈迦はこの基本的な教えを人を苦から救おうと願望し、志半ばで涅槃に着いた。 このように人様のために尽くした願望の境涯を仏教では願生(がんしょう)という。 一方、自分の我、エゴに終始した願望を強く持って生きる境涯を業生(ごうしょう)という。 これは例え実現してもやがては必ず没する時がやってくるのである。
久々にブログを更新することができた。 もし、私のブログに関心を寄せて頂いている方がおられましたら、この場でお詫びします。 今日は格差社会の裏にというテーマでお話しをしたい。 数年前の改革?だとかで本当に職探しといえば派遣労働しかないというぐらい当たり前の世界になっている。 私は単純に雇用の拡大ではなく労働力の切り売りだと思っている。 特に多くの若い人たちがこの環境下にあると思われる。 その中に正規雇用では働けないという事情を持つ若者たちが存在する。 それを考えれば派遣などはありがたいのかも知れない。 その若者たちとはうつやパニック障害などになった人たちである。 それら全ての要因にAC(アダルトチルドレン)があるとは思えないが、社会人として会社に属する場合にはこれらの病気はひじょうに厄介である。 その状態にありながらで給与の保障や雇用の保障を得ることは容易ではない。 こういう病気になる人は生真面目で変に責任感が強く、周りへの迷惑を感じて自主退職や場合によってはそういうふうに会社に追い込まれるというケースがある。 精神疾患の治療には意外とお金が掛かり、退職するとたちまち生活が困窮する。 学校を出て会社に入り猛烈に頑張って、気が付いた時には心を病んでいるということは誰にでも起こりうる。 こういう人たちが体調を考え、治療しながらというと非正規雇用しかなくなる。 もちろん収入は激減し、その半分以上が治療費として消えることになる。 静養に専念したり、お金の掛かるカウンセリングやセラピーが受けられないのでなかなか完治しない。 それによって焦りが起こり、更に生活苦から悲観、不安が強くなりまた病因を作ることになる。 こういうスパイラルが低所得者層の何割かを形成していると私は感じる。 特定疾患の自立支援という制度もできているが情報が少なく、要領を得難い。 また、生活保護も意外に敷居が高く、考えるだけで病状が悪化する。 私も長く精神疾患を経験した。 同時に全てが徐々に壊れ、失われて行く恐怖と不安を経験してきた。 格差社会を問題にする政治家さんにはその裏でどういうことが具体的に起こっているのか、精神疾患の若年化などをよく調査して対応策を考えて欲しい。 今度の大阪府知事は子どもが笑う社会を作りたいと言った。 もちろん子どもが悲観するような社会は最悪だが、国の礎を支えるべき世代の多くが希望をなくし苦しんでいることも忘れないで欲しい。
児童虐待やネグレストの話をよく耳にする。 また、その一方で過度な子どもへの執着によるものなのか学校に「うちの子どもに掃除をさせるな」などと理不尽なクレームをつけるモンスター・ペアレンツというのも増えているようだ。 最近の親は極端に子に関心がないか、変にあり過ぎるかのどちらかのパターンしか存在していないのかとさへ思われる。 子どもの情緒を育むにはこれらは大きな問題である。 そして、これらは全て子どもをAC(アダルト・チルドレン)にしてしまう危険性、いや、かなりの確率でそうさせてしまうことに私は深く危惧している。 幼い子どもはやはり親には無抵抗である。 反抗期を向かえて親に何らかの抵抗をするようになったからと言っても、それは本当の自立ではない。 まだ情緒は育っておらず、年齢的に成人しても心は未熟なままで本当の愛を知らぬまま冷たい社会へと放り出される。 親に経済的余裕があったとしても心が常に自分のことで精一杯であれば子どもを育てることは難しい。 少子化問題に逆行するかも知れないが、あまり無理はして欲しくない。 そして、モンスターになってしまう親は子の人生と自分の人生を一緒に考え過ぎている。 自分の子であっても魂、運命、境涯は異なることを知らなければならない。 虐待やネグレストを受けた子どもは心に大きな傷を作る。 そして、成長する過程で親に徹底的に反抗するタイプと、それでも従順になるタイプにその子の性質で分かれる。 前者は社会からはみ出してしまう場合もあり、後者は大人や社会が信じられず、自分に自信が持てず、そして、自分を守るためだけに必死になり、人の機嫌と顔色を覗って生きるようになる。 両者に共通するのは求める愛に歪みがあり、愛し、愛されることをしがみつくことのように思い込んで生きることである。 しかしながら、実際の愛はそうではないので、その思い違いから時に精神疾患や人格障害を起こす場合もある。 全ての子がそうなってしまう訳ではないだろうが、私はこういうACの根を絶対に作って欲しくはないのだ。 そして、その子たちが大人になった時にそのしがみつきから暴力と泣きで恋人を抑圧したり、結婚すればDVともなり得るだろう。 また、子ができれば虐待、ネグレストと自分はそうありたくないと思いつつも恐ろしい連鎖が起こるのだ。 子どもの情緒を育むには親が身勝手を押し通してはならない。 そして、どうか子どものまだ純粋な心にACの根を植え付けないで欲しい。 現実を受け入れることのできないACは無意識から現実逃避をする。 現実逃避は自分の身を守る手段であり、本能でもある。 しかし、それが過ぎると危うい霊的な世界に足を踏み入れ、そして、低級の餌食になる例があることも忘れてはならない。 |一覧| |
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