|
テーマ:甚大災害に思う(71)
カテゴリ:大震災
港近くの町に出て、違和感を感じる光景が様々飛び込んできた。
別の記事でも書いたが、人間は自分の記憶や理解が及ばない状況になると目を背けて 更には瞬間的に違和感を感じる機能がある。 凄惨な事故や知らない生物、理解しがたい状況や形状のそれらを見るときに顔を顰(しか)めるのはそれだ。 私はこの日、何度となく違和感を感じた。 形状をとどめない巨大建造物は、まるで針金工作でつくったジオラマを壊すかの如く。 そして、本来海の中にあるべき船底が陸地に上がり、見事と行っても良いようにバランスをとって立っている船。 壊れた民家に目を向ければ、そこで思い出の品を探すのか復興に向けてなのか、 瓦礫を手に持って自宅を整理する老人の姿があった。 さすがにカメラを向けることははばかられたが挨拶を交わすこともできなかった。 表情がない老人から心の声が聞こえた気がする。 「何から手を付けて良いか、、でも、ここしかない、、少しでもここにいた証が、、」 昔大学の講義で聴いた覚えがある。 「人は死を恐れる。それは生に対する執着や痛みを伴う恐怖だけではなく、 生きている知人との別れの辛さだけでもない。 死の恐怖とは、今まで生きてきた自分の足跡が消えて亡くなることに対しての恐怖も 非常に強い。」 そんなフレーズを思い出しながら、ふと周囲を見ると朝方から時間が経過したせいか、 多くの地元住民が同じ行動をしていた。 そう、住む場所だけでなく、着の身着のまま出てきたために、お金も、カードも通帳も 何もないのだ。何もない状態で、更に住む家もないのだ。 ようやくその臨場感が状況理解に加速を付けた。 確かに、今この瞬間に全ての土地家屋も含めた全財産が無くなったら、どうするだろう。 等と考えていると、次のショッキングな光景が目に入ってきた。 このランドセルの主は無事なのだろうか、、、 無事であって欲しい。 生と死。そして、生だったとしてもその後の希望がもてないまま時間が経過する。 光と影が交錯するのではなく、闇と漆黒の交錯。 涙が出てくる情景。 この地域の人々は昼間はこうやって家のあった場所の整理。 夜になると避難所へ帰るという。 復興支援と口にするが、東京にいてテレビから流れる映像だけでは実感できない。 いや、復興支援と口にすることすらおこがましい惨状。 計画停電に愚痴を言い、不安を煽って買い占めする。 テレビを見ながら評論家気取りになっている場合ではない。 各地の復興とは長い長い時間がかかるものであり、その間、人々の希望を繋ぐことが 私たちが考えることなのではないだろうかと思った。 が、全てを理解すると更に分かったことがある。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2011年03月31日 13時43分26秒
コメント(0) | コメントを書く
[大震災] カテゴリの最新記事
|
|