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子育て終了した父親の独り言2013

子育て終了した父親の独り言2013

教育費をタダにせよ

「教育費をタダにせよ」

親の所得格差が生み出す教育格差は亡国への道

西野 弘 【プロフィール】 1956年4月生まれ。早稲田大学教育学部卒業。スウェーデン、ヨーテボリ大学に半年間留学。コンサルティング会社「プロシード」代表取締役。富山大学非常勤講師。エリクソンのコンサルタントはじめ、プロジェクトマネジメント、コールセンターマネジメント、ITサービスマネジメントなどを手掛ける。サムハル福祉事業団日本代表を務めるなど、スウェーデン企業、政府との関係が深い。ライフワークは教育と福祉。



 教育費が無料の国がある。鉛筆1本、ノート1冊までタダ。給食費もかからない。それどころか、16歳まで国から児童手当が支給されるし、高校に行けば卒業するまで児童手当の支給期間が延長される。うまくやりくりすれば、子どもの洋服代などの生活費を負担する必要もない。

 「義務教育は無償」。どこかの国の文部科学省に問い合わせても、きっとこう答えるに違いない。だが、この国の義務教育は文字通りの義務教育。親の所得に関係なく、高校まで学校に通うことができる。



子どもを産み、生きることに不安のない国

 もちろん、大学の授業料も無料である。手厚い奨学金制度があるため、学びたい人は親の所得に関係なく、意志と力で大学に進学できる。

 この国の名はスウェーデン。人口900万人。高福祉で知られる北欧の小国である。子育て、教育、失業給付、医療、介護、年金――。人生の様々なステージで手厚く支援するスウェーデンは、子どもを産み、生きることに不安のない国と言えるだろう。

 「教育費タダ」。これだけが、スウェーデンの教育の特徴ではない。主な特徴を、思いつくままに列挙してみよう。

1. 幼児教育を大切にしており、就学前教育が手厚い。
2. 日本の感覚では信じられないが、中学2年生まで成績表がない。さらに、塾や家庭教師というものは国のどこにも存在していない。それでも、教育全体のレベルは世界でもトップクラスである。
3. 英語をはじめとした外国語能力が全体的に高い。小学生や中学生でも普通に話せる。
4. 残業や部活動に忙殺される先生はほとんどいない。スポーツや趣味に参加したい生徒は、後述する地域の学習サークルに参加している。
5. 1クラスの生徒数が少ない。就学前教育では先生1人につき生徒は6人。小学校から高校を見ても、1クラス20人前後である。
6. 高校卒業後、すぐに大学に進学する学生はそれほど多くない。徴兵制度があるため、徴兵を済ませた後に、または企業に勤めた後、社会活動などを経験した後に大学に進学する人が多い。25歳以上で4年以上就職をして税金を支払った人だと、医学部のような特別な学部を除いて無条件(行く大学は高校の成績で決まる)で入学できる。
7. 教科書は個人の所有物ではない。数年間は先輩から後輩に引き継がれ、毎年配布されることはない。ちなみに、日本は2008年度、教科書だけで395億円の予算を計上している。
8. ICT(情報通信技術)の活用がとても盛ん。家でもほとんどパソコンを使用している。教員に対するICT教育も重点的に行っている。
9. 900万人の国民のうち、300万人が何らかの学習サークルなどの成人学習機関に参加している。学習サークルの運営は、約75%が税金で補助されている。

 ざっと思いついただけでこれだけのことが思い浮かぶ。スウェーデンの教育の特徴はまだまだあるが、私たちの住む国とは相当に違うことが分かってもらえるのではないだろうか。



子ども1人を大学まで進学させるのに1000万円かかる日本

 翻って、日本はどうか。子ども1人を大学まで進学させるためにかかる費用は、公立の学校に通ったとしても、1000万円を超えるコストが必要だと言われている。私立であれば、その倍は優にかかるだろう。日本の平均給与は約437万円(国税庁平成19年分民間給与実態統計調査結果より)。この中で、子どもの教育費を払い続けるのは至難の業と言っていい。

 事実、この10年で給食費も払えない家庭が増えた。母子家庭の中には、義務教育すら困難な子どもが増えている。今回の不況によって、その数はますます増えるだろう。親の所得によって、教育の格差がつく――。それが、この国の現状である。

 崩壊しているのは教育制度だけではない。年金や医療、介護、雇用など、日本の社会システムは様々なところに歪みが出ている。「子どもを産み、生きることに不安がない国」。冒頭でスウェーデンをこう評した。「社会の安心感」という点について、スウェーデンとはあまりに対照的な姿である。



制度を真似るだけでは安心感のある国にはならない

 スウェーデンとの出会いは34年前の1975年にさかのぼる。大学の卒業研究のために、スウェーデンとデンマークに留学したことが直接のきっかけだった。卒業研究は「北欧の教育」。そのため、留学期間中、老人ホームや学校、病院、アルコール中毒患者の施設などを訪問した。施設にいる人々の笑顔の多さが印象に残っている。

 この訪問で何よりも驚いたことは、学校での1クラスの生徒数の少なさ。そして、子どもたちに「スウェーデン人である前に地球人である」と教えていたことだ。地球に生を受けた人間として、私たちはどのような行動を取るべきなのか――。この視点を、小学生に教えていたのだ。この言葉は衝撃的だった。

 その後、ビジネスや教育プロジェクト、先日の「この国のゆくえ」で紹介したサムハルなどを通して、スウェーデンと深い関わりができた。ビジネスと福祉、教育を知る数少ない人間の1人と自負している。

 「高福祉高負担で社会を運営する」。それが、スウェーデンモデルと言われている。この10年、スウェーデンモデルは様々な形で日本に紹介されてきた。だが、国民負担率を上げ、同様の制度を導入すれば、同じように安心感のある国になるのだろうか――。恐らく、そうはならないだろう。



政府と国民との間の信頼とチェック・アンド・バランスが不可欠

 スウェーデンモデルとは、単なる高福祉高負担の社会システムではない。スウェーデン国民は、国家は父であり、大地は母と捉えている。国家と大地に暮らす国民は学習し、様々な義務を果たし、協力して社会を構築していく。私の理解では、スウェーデンモデルとはこのシステム全体のことを指している。

 このモデルを機能させるには、政府と国民の間の信頼とチェック・アンド・バランスが不可欠だ。だからだろう。スウェーデンには高度に発達した民主主義があり、19世紀の昔からオンブズマン制度が存在する。制度を入れたところで、この社会全体のシステムなくして機能はしない。

 世界が注目するこのモデルを、スウェーデンはどのように進化させてきたのだろうか。政治が要因なのか、宗教なのか、それとも産業力なのか――。そのことを自問してきた。そして、私なりに1つの結論に到達した。それは、教育である。

 高福祉高負担という国の方向性を決めているのはスウェーデン人そのもの。スウェーデンの民主主義である。それを考えると、国民がどのような教育を受けているか、どのように責任ある行動をしているか、それが国の根幹を作っていると言えるだろう。

 良い土壌には素晴らしい農作物が育つ。逆に言えば、痩せた土地には痩せた農作物しか育たない。ここで言う土壌とは国民のこと。この土壌を豊かにするのも、貧しくするのも教育だ。スウェーデンのセーフティーネットは肥沃な土壌に実った果実。土壌が痩せた今の日本に、同じ仕組みを入れても意味がない。

 それでは、スウェーデンは肥沃な土壌を作るために、どのような教育をしているのだろうか。以下、細かく見ていこう。



幼少期に知的好奇心を植えつける

 スウェーデンの特徴として、就学前教育の充実が挙げられる。共働き家庭がほとんどのため、幼い時から外の保育施設に預けられる子どもが多い。この保育施設での就学前教育を見ると、先生や保母1人に対して子ども6人と、かなり手厚く人員を配置している。


「スウェーデンモデル」の根幹にあるのは教育  もう1つ特徴的なのは、1歳から5歳の子どもを1つのグループにすること。様々な年齢の子どもたちが、大家族のような環境で活動を行う。その際、読み書きは基本的にあまり教えない。自然との触れ合いや人間への興味、グループ内での協調性、コミュニケーションなどを、遊びや野外活動を通して学習させる。

 特に、野外活動は相当に熱心な印象を受けた。真冬でも、雨が降っていても、外で活動しているのを何度か目にした。

 こうして考えると、この時期の教育は読み書き能力というよりも、日本でも注目されている人間として必要なスキル、いわば人間学を教えることを重視している。まさに今、EQ(心の知能指数)やSQ(社会性の知能指数)を幼児期から大切にしているのではないか。

 読み書きの方は学校に入学してから本格的に学ぶ。その頃になると、子どもたちはいろいろなことに興味を持ち始めているため、情報に渇望感を持ち始める。本などを自分から読みたいがために、読み書きは短期間で覚えていくという。子どもたちは幼少期に、知的好奇心をしっかりと植えつけられる。

 スウェーデンは生涯学習国家として広く知られている。学習サークルは3万以上、300万人が何らかの形で参加している。それも、幼少期の就学前教育と無縁ではないだろう。



生涯を通して学ぶ楽しさや学習がもたらす成果を共有

 さらに、学ぶことへの渇望は雇用のセーフティーネットにも有効に機能している。スウェーデンは転職のための手厚い職業教育制度を持っている。90年代前半の経済危機の際も、今後の拡大が期待されたICT関連に職業教育の重点を移した。

 この政策が機能したのも、スウェーデン人が学ぶことに対して、何の抵抗も持っていなかったからだ。「スウェーデンの国造りで教育は最も大切なこと。中でも、幼児教育の充実と成功が最も大切なことだ」。先日、駐日スウェーデン大使のステファン・ノレーン氏に会ったところ、やはりこう話していた。

 スウェーデン国民は幼児期から学ぶ楽しさや、学習がもたらす成果を共有している。生涯にわたって学ぶことが人生の最も大切なことの1つだと理解している。

 もちろん、スウェーデンにも落ちこぼれはいるし、いじめもある。非行や暴力などの問題も存在し、どこの学校も頭を悩ませている。実際、私が滞在していた70年代も自由尊重が行きすぎた結果、アルコールやたばこに始まる問題のある生徒が増えていた。だが、常に悩みながら、時代に合わせて変化してきた。

 「学ぶ」ということについて、スウェーデンと日本には差があるように感じる。



学びを楽しめない日本の学生

 数年前に東大の学生たちの前で講師を務めた時、「勉強を楽しいと思っている人」と尋ねたことがあった。すると、誰一人として、手を挙げた学生はいなかった。将来、日本を担うであろう最難関大学の学生が、人間の可能性を無限に広げる「学び」が好きでないという。この光景を見た時、日本の教育は基本的に何かが変わったのだ、と強く感じた。

 私自身、「勉強」とは「自ら勉めて強くなる」という意味と考えている。だが、日本の場合は「強いて勉めよ」。押しつけられたために、学びの面白さを忘れ、勉強が辛いだけのものになっているのではないか。「なぜ?」と考えなくなりつつあるのも、勉強が強いられたものになっていることと関係があるのではないか。

 スウェーデンの教育は問題解決型。とにかく子どもたちに考えさせる。それに対して、日本は教える側の先生が主役。常に解答を与える教育になっている。

 それを痛感した出来事があった。

 2000年の先進8カ国(G8)首脳会議が開催された際、旧郵政省の依頼でICTを活用した「アイランド・クエスト IN 沖縄&屋久島」というイベントを企画、運営した。ギネスブックに載っている冒険家チームを日本に招聘、屋久島と沖縄諸島に入って、手つかずの自然と長寿の秘密を探る探検をしてもらい、その様子をインターネットで子どもたちに追体験させる、というプロジェクトだった。

 この「アイランド・クエスト」。子どもたちは個人でも、学校単位でも、クラス単位でも参加できる仕組みにした。だからだろうか。インターネットによって国内5万人、海外5万人が参加した。この企画は、単なる探検隊のオンラインによる追跡体験ではなく、「プロジェクトベース型」という教育手法を広げる目的で、ICTを用いて本格的に実施した初めての教育プログラムだった。

 ところが、1週間が終わり、探検隊が去ると、事務局の電話が鳴りっぱなしになった。その電話の多くは学校の教師からだった。「長寿の秘密は何だったのか」。鳴りやまない電話を前に、私はこう感じた。日本の教師は解答を子どもたちに伝えることが最大の役割と思っているのではないか、と。

 「プロジェクトベース」とは、それぞれの過程で、それぞれの子どもが自ら調べ、議論し、発見すること。それが、教育であると欧米の国々は理解している。だが、日本の教師は答えを教えることが最大の関心事になっていた。誰が教育現場の主人公か、改めて感じた瞬間だった。



1クラスの子どもの数を少なくし落ちこぼれを作らない

 「学ぶ楽しみ」のほかに、スウェーデンが重視していることは、落ちこぼれを作らない教育を徹底していることだ。端的に言うと、1クラス当たりの子どもの数が少ない。スウェーデンの場合は20人前後だろう。これだけ少ないと、教師もきめ細かい対応ができる。

 プロシードの代表として、学校や企業で様々な教育をした経験で言うと、大人だろうが、子どもだろうが、教育効果を上げられる最適な定員は15~20人と実感している。これは教育の話ではないが、戦争の時、部隊の生命を守りながら戦う最小単位は12~15人と元軍人の方に聞いた。

 学ぶ側も20人程度だと、教師の質問の頻度が増え、緊張感が増す。神経を集中して聞く必要もある。最近では、4~5人でのグループワークが増えているが、教師の目が届くグループは4つぐらいが限界だろう。教育は1人の人を育てるという大切な行為。1人の先生が生徒をきめ細かく指導する人数として、30人を超える今の数が適正とは思えない。

 公立学校の1クラスの生徒数は多く、少人数クラスや個別指導の成果をうたう塾の広告が大々的に流れる――。考えれば考えるほど、日本は不思議な国である。

 スウェーデンと日本を比較して思うことはほかにもある。


GDPに占める日本の教育投資はスウェーデンの半分程度に過ぎない 
 98年以降、ICTを小中学校の教育現場で活用するためのプロジェクトにかかわってきた。全国の学校を数多く訪問したが、その時に驚いたのは教師の高齢化である。小学校の平均年齢は42歳弱。だが、50歳以上の先生が30%以上を占める学校は少なくない。小学校1年生から見れば、おじいちゃん、おばあちゃんのようなものだろう。

 最近はさらに進んでおり、最近の学校の職員室は私たちの時代とは大きく風景が変わっている。文部科学省は経験豊かな教師の増加で教育の質を担保できると言うが、それはまず不可能ではないだろうか。



ICTに投資しても価値を理解できず使いこなせない

 時代が急速に変化している今、未来を担う子どもたちが置かれている社会はあまりに変貌している。50歳を超える教師が社会の変化についていき、子どもたちを指導できるとは思えない。私は今年53歳になる。とてもではないが、元気いっぱいの小学生を相手に、様々な活動はできないし、ICTの急速な変化についていきながら活用するのも難しい面が多い。

 政府は学校現場のICTに多くの投資をしてきた。だが、その道具がうまく使えないだけでなく、その道具の価値を理解できていない教師も存在している。まさに使えない設備が学校にたまっていると言っていいだろう。

 私はある県の依頼で教師のICT研修をしたことがある。そこには、夏の暑い中、全く学ぶ気のない顔が並んでいた。思わず先生方に、「先生方もやる気のない生徒には日頃、ご苦労されていることでしょう。私も二度と、依頼を引き受けたくない。そう思うような顔を先生方がしている」と話した。現実を見れば、ほとんどの教師はICTを活用できるようにならないだろう。

 もちろん、すべての教師がそうではない。周囲の理解がない中、子どもにICTを利用した教育を実践している教師が大勢いることも知っている。新しい道具には新しい教育手法が必要。だが、それを確立しないまま、ただ「ICTを使え」と言うのでは現場の先生もかわいそうだ。

 適切な人員と良質な教師、それにICTを組み合わせれば、教育の質は高まる。だが、日本は逆の方向を向いている。



意志ある者は無償で教育を受けられるようにすべき

 自民党と公明党は景気対策として公共事業を上積みしている。西松建設の違法献金事件を見ても分かるように、その幾ばくかは政治家に環流しているのだろう。「献金源」と考えれば、献金の金額が格段に少ない教育界は政治家にとっておいしい業界ではない。産業界にとっても、教育界への投資は目先の競争力には関係がなかった。政官業のトライアングルにすれば、教育は重要な分野ではなかったのだろう。

 80年代以降のリーダーは、立身出世や経済的利得に夢中になり、教育は興味の対象から外れた。自分の子どもが卒業した後の学校は塀に囲まれたただの建物になってしまった。それが、教育を“象牙の塔”にしてしまった一因だろう。最近、経済人が学校の教壇に立つケースが増えた。喜ばしいことではあるし、今後も立ち続けてほしいが、それだけでは今の教育は変わらない。

 既に、日本の教育は根幹が崩れている。文部科学省や教育委員会、教師の視点ではなく、国を支える子どもたちの視点から再構築すべきだ。それとともに、教育の無償化と制度の改革を進めなければならない。

 大きな駅の前には必ずと言っていいほど、学習塾や予備校の看板、消費者金融の事務所がある。現実の日本では、進学をしたくても、金銭的な問題で塾や予備校に通えない子どもたちは進学をあきらめ、低所得の不安定な職に就くことになる。そして、消費者金融のお世話になっていく。駅前には、日本の歪みの構図が象徴的に表れている、と感じるのは私だけではないだろう。

 親の所得や環境によって、教育格差が生まれることは許されない。教育は国家の投資としては最も重要なもの。スウェーデンで見たように、意志ある者は無償で教育を受けられるようにすべきだ。そして、落ちこぼれが生まれないように、きめ細かい対応ができる体制にすべきだ。

 だが、現実を見ると、逆方向に向かっている。GDP(国内総生産)に対する教育投資。スウェーデンは6.5%なのに対して、日本は3.5%に過ぎない。日本は経済協力開発機構(OECD)の中で最下位である。政治がどの分野に国の未来を考えているか。その差だろう。

 財源をどうするか、という問題は残るが、財源も捻出しようと思えば可能だ。第1に、教員の給与や年金は他の職種に比べて優遇されている。特に、教師の場合は共働きが多く、45歳を過ぎると、世帯収入は1600万円超。退職金も2人を足せば、6000万円程度になる。退職時に1億円の現金がある教師も少なくないと聞いている。給与削減の余地はあるだろう。

 給与論議に必ず出てくるのが、教師は忙しいという話。ならば、1クラスの定員を減らし1人の教師の稼働も減らし、教育の質も上がる施策をすべきだろう。



公立学校の教員ボーナスなどの算出には疑問も

 さらに、ある県職員に聞いて知ったことだが、公立学校の教員のボーナスや退職金の算出方法。時間外手当に相当する調整額(基本給の4%)を加算した金額が算定のベースになっている。残業代がない代わりに、先の調整額を支払うことは理解できるが、ボーナスや退職金の算定に調整額を含めることは普通に考えておかしい。民間企業ではあり得ないことだ。

 この算定は「国立及び公立の義務教育諸学校等の教育職員の給与等に関する特別措置法」の第3条第3項1号で義務づけられている。早期に、見直すべきだろう。5~6年前からこの制度の廃止も検討されてはいるが、いまだに見直されていない。

 もちろん、それだけでは財源が足りないだろう。新たな財源として、「教育平等税」ではないが、目的税を新設し、未来の人財に投資してはどうだろうか。消費税はこの10年間で180兆円以上の税収があるものの、教育に十分な予算が回っているとは言い難い。これとは違う、国として未来に投資をしているという、実感のある税の新設である。官僚が無駄遣いしないように、今以上の監視が必要になるのは言うまでもないが、教育にカネを振り向ける1つの方法だと思う。

 併せて、奨学金や就学ローンなどの制度の拡充やプログラムの多様化を推進する必要もあるだろう。

 教育はすぐに結果が出るものではない。子どもたちが大人になり、社会に出るようになって初めて、効果が分かる。日本の教育はバブル経済を経て、大きく変わってしまった。学ぶ楽しみを忘れ、学ぶ意義を失っている。それでこの国には未来がない。景気対策や経済対策は喫緊の課題だ。だが、危機の今だからこそ、将来に向けて種を蒔くべきではないか。教育からの国家再生。今ならまだ間に合う。



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