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テーマ:塾の先生のページ(7656)
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猫ギター先生のこのブログに全く賛成。 人間の本性、本質はピンチのとき、緊急事態のときに表れる。私は大手塾に勤めていたころ、学生バイトの若い女性の先生にこう言っていたものだ。 「ええか、男を見定めるときはな、緊急事態のときのそいつの行動を必ずチェックすることやで。大体男なんて気のある女の子には優しいもんだ。でもエマージェンシーのときのそいつの行動がそいつの本性やで。だまされたらあかんで。けっこう人に責任なすったり、言い逃れしたりするヤツって多いねんで。」 まあ、ただのお節介のおっさんのセリフであるが、私の周りの女の子はけっこう参考にしていたようである。「あれから先生の言わはったこと無意識にチェックしてしまいます~」なんていう子が多かった。 ところで、齢四十にして思うことだが、若いときの自分から見るととてもじゃないが、許せなかったはずのことをやっているという人も世の中には多い。 その人の20歳のときの「思い」や「理想」や「夢」を聞いていた。共に語り、共に泣き、共に笑ったりした時間を共有した。ある意味、そいつの親よりもそいつのことを理解した部分もある。 年を重ね、時間を過ごすうちにそいつが変質していくのを見る。そいつが「歌を忘れたカナリア」になり、「ロックの魂を忘れたギター弾き」になっていくのを目の当たりにする。それは辛いことだ。 そんなことを問いつめれば、百も二百も自らの正当性を語るだろう。あるいは「仕方なかったんだよ」と弁明するかもしれない。余計に落胆するのは嫌だから、こちらも沈黙を決め込む。 気がつけば「変質」したそいつがそこにいる。何故そんなことになるのか。それは静かにやってくる「危機」に無防備過ぎたためか。あるいは「自分自身が試されている」ことに無自覚だったか、あるいは「自分自身」が脆弱だったためか。 私は若いおねえちゃんもできたら落胆させたくはないが、何より昔の自分を落胆させたくはない。タイムマシンが存在して25歳の自分が40歳の自分を見たならば、若い俺に「やるじゃん、俺」と言わせたい。「成長」はいいが、「変質」はしたくないのだ。 もちろん妻と子を守るためなら、「変質」することを厭わぬときが来るやもしれない。妻と子のためならちっぽけなプライドは捨てなければならぬ。しかし「歌を忘れた」ことを、妻や子を簡単に言い訳にしてはならない。 今日の自分は25歳の自分を裏切ってはいない。そう信じている。 自分たちの本質が露わになる、そういう「時」を私たちは迎えている。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
May 6, 2006 02:11:58 PM
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