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テーマ:旅のあれこれ(9925)
カテゴリ:会津若松
~天寧寺~
御霊廟を後にしてどうしてもお参りしたかった萱野権兵衛さんの墓所へ ああ、やっとこられました 日暮れ時でこんな見えづらいデジですが「報国院殿公道了忠居士」とあります 奥様と仲良く並んでおりました 東京のお墓へは行ったのですがどうしてもここまで来たかったです 近くには郡長正の墓所も 郡長正は会津藩家老、萱野権兵衛の次男。 郡家へ養子に入り、明治3年(1870)に優秀だった為豊津小笠原藩(福岡県)の育徳館に留学しました。 ある日母への手紙に食べ物が口に合わないと書いたところ後に母より届いた戒めの手紙を落としてしまい、拾った小笠原藩士の子弟に大衆の面前で笑われてしまいます。 長正は会津武士の屈辱をはらそうと藩対抗剣道大会で完勝、その後切腹して果てました。 時に16歳の若さでした…。 というのが一般的に知られている話ですが実は真相は違うらしい。 まず会津藩士が食事のコトで文句など言うはずがない、ということ。 藩風からして質素だもんね。 そして当時はそんなに郵便事情が良かったとは思えないという事。 では真相は何かというと会津少年郡長正、自刃の真相に詳しく載ってるようです。 長正はりっぱな武士であった。と言うお話。 そして今回もう一箇所 こちらもせうるさんの案内で行きました ~伊東家墓所~ 伊東祐順(すけより) 会津藩士。号は寛堂。 文政9年(1826)~明治4年(1871)4月15日 公用人として文久2年(1862)容保候に従い上洛。 戊辰戦争時は家老梶原平馬らと共に米沢藩へ赴き会津藩の謝罪条件について相談し、庄内藩へも使いをした。 開城後大沢村に閉居して子弟を教育したが明治2年(1869)秋、喜徳公の侍講(君主に仕えて学問を講義するひと)として東京へ召しだされる。 明治4年(1871)心臓病の為急逝。46歳 「聡明院英俊智達居士」 次男悌次郎は白虎隊士中二番隊士で飯盛山で自刃。15歳。 実父俊吾は西軍が城下に攻め入った8月23日に甲賀町口で戦死している。73歳。 伊東悌次郎 安政元年(1854)~明治元年(1868)8月22日 祐順の次男。白虎隊士中二番隊。 大柄だった為年齢を偽って白虎隊士となる。 戸ノ口原から後退するとき負傷した池上新太郎を助けて遅れる。 飯盛山に着き自決した同僚の姿を見て遅れじと自刃。享年15歳。 隣家が砲術師範山本覚馬の家だった為、八重子から銃の指南を受けていてかなりの腕前だったらしい。 戦後、井深茂太郎の遺族が占いで死地を探し当てた際、茂太郎の遺骸と共に見つかったという。 板札に名前が書いてあったので分かったんだそうだ 遺族は遺骸をそのまま飯盛山の地へ留め遺髪のみを持ち帰って葬った。 白虎隊はね~。思うだけで泣けちゃいます。 最も多感で正義感も強かっただろうコドモタチが絶望の中で自刃して逝ってしまったのかと思うと…。 でも会津といえば白虎隊を避けては通れません。しっかりと勉強しなくてはね。 来年山Pもやることだしネ… 田中家墓所 続いてせうるさんが案内してくれたのは会津藩家老田中家の墓所。 田中土佐(玄清はるきよ)…文政3年(1820)~慶応4年(1868)8月23日。享年49歳 容保候に京都守護職の命が下ったとき西郷頼母と共に最後まで反対したが、容保候がこれを受けると先発して上洛。 容保候の上洛の準備と情報収集に尽力した。 慶応元年(1865)病の為会津に帰国したが翌年復職して上洛。 鳥羽伏見の戦いにも出陣。 西軍が城下に侵入した8月23日、家老の神保内蔵助と共に土屋一庵の屋敷で自刃。 法名は「精徹院殿忠亮玄清居士」 ちなみにこの方、土方さんたちが浪士組として文久3年(1863)に上洛、残留を決めた時公用方として横山主税とともに面会した方デス(会津藩庁記録) その時の記録では芹沢鴨 新見錦 近藤勇 根岸友山 山南啓介 佐伯又三郎 土方歳蔵 沖田宗司 井上源三郎 平山五郎 野口健次 平間重助 永倉新八 斎藤一 原田左之助 藤堂平助 家里次郎 遠藤丈庵 殿内義雄 粕谷新五郎 上城順之助 鈴木長蔵 阿比留栄三郎 ここには斎藤一の名前があるんだよね… しかし墓所は見つけたけれど、どれがどの方やら探しきれず。 次回の宿題だなぁ そしてここまできたらやっぱり行っちゃう土方さんが建てた近藤さんの墓所。 日が傾いちゃったので影がついて上手く撮れません 隣には土方さんの碑が建ってます ←→ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2006/10/09 09:41:19 PM
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