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pastorsroom 東広島市


私は、東広島市にあるキリスト教会の牧師です。
よかったら教会のホームページもごらんください。
また、ユースセルのプログもごらんください。


また、たいへん申し訳ないのですが、
コメントにお答えできないことも多々あると思います。
どうぞお許し下さい。


a pastor on the way [全365件]

2012.06.01楽天プロフィール Add to Google XML

ハンナの祈り
[ 日曜日礼拝 メッセージ ]  


20120603 「祈り(ハンナの祈りから)」   1サムエル1:1-20 
 
                         
暑くなってきました。
この暑い中、近くから遠くから、みなさま神様のみ前に集まって来られました。
神様が豊かに、みなさまを祝福してくださることでしょう。
祝福の主である神さまに感謝をいたします。

さて、今日は6月最初の主の日ですので、子どもと大人がいっしょに礼拝をいたします。
そして教会学校の聖書箇所を通して、神様を礼拝したいと願っています。
今日も「お祈り」がテーマです。
サムエルのお母さんハンナさんの祈りを通して今日は、ごいっしょに三つのことを考えたいと思っています。
一つ目は、祈りは神さまとの会話であるということ。
二つ目は、祈りの時には心を開く必要があるということ。
三つ目は、祈りの時には神様が祈りを聞いてくださったと確信をもてるまでは祈り続けるということ。
この三つです。

これが、サムエルさんです。(絵⇒)
男の子です。髪の毛が長いのは、神さまに献げられたナジル人だからです。
先週、教会学校でサムソンのお話を聞きましたが、サムソンも
髪の毛が長かったですよね。
この絵は、サムエルが家族から離れて、祭司エリの家に住んで
修行をしていた時の様子です。
サムエルは後に、有名な預言者になります。
サムエルは、お母さんの祈りを通して、神様から与えられた人でした。
そのお話をしたいと思います。

■一人ぼっちのハンナ
ダビデが誕生するよりも100年ほど前、エルサレムの北の地方に、エルカナという男の人が住んでいました。
彼には、ハンナという奥さんがいました。
ハンナにはなかなか子どもが与えられませんでした。
当時は、今よりもずっと子どもが必要な社会でした。
どうしても子どもが欲しいと思ったエルカナはもう一人奥さんを迎えました。ペニンナという人です。
ペニンナにはたくさんの子どもが与えられました。
ペニンナは子どもができないハンナをいじめました。「ハンナ。神さまはあんたのことを嫌っておられるのよ。だから、あんたが子どもを欲しいと祈っても、神様はあんたには子どもをくださらないのよ。」
ハンナはとても心を痛めていました。
一年に一度、ハンナが最も心を痛める日がありました。
それは神さまを礼拝するために、シロという町に家族そろって行く日でした。当時、シロには神殿があって、そこに契約の箱が置かれていたのです。
エルカナもペニンナもペニンナの子どもたちも、その旅をとても楽しみにしていました。でもハンナは、その賑やかな家族の中で一人ぼっちだと感じていました。

■誰もわかってくれなくても、神さまはわかってくださる
もしハンナがわがまま人だったら、エルカナに対して、「私はシロには行きません。寂しい思いをするばかりだし、ペニンナにいじめられるのも嫌だから…」ということができたかもしれません。
私が学生だった時、教会に通っていた青年が突然、礼拝に来なくなりました。
その子の家に訪ねていって「どうしたの?」と聞くと、「礼拝に行くと、Cさんに会っちゃうから。あの人とは会いたくないんだ。」って答えるんです。
私はその子に「君にとって神さまを礼拝するのはそんなに小さなことだったのか!」と言って喧嘩をしてしまったことがありました。
そんな私も、ある時機、長く礼拝を休んでいたことがあったので、何も言えませんが。
もしハンナさんがその日、礼拝のためにシロに行かなかったとしたら、預言者サムエルは生まれていなかったことでしょう。

さて、話を元に戻します。
ハンナはその日、家族といっしょにシロに旅行しました。
礼拝が終わってから、神殿のそばで、家族みんなで食事をしていました。たくさんの家族で食事をしているのに、ハンナは悲しみのあまり、食事も喉に通りません。
ハンナの心は痛みました。
ハンナは神殿に行きました。
そしてそこで泣きながら祈り始めました。
大きな声を上げて祈ることさえできず、ハンナは心の中で激しく祈り続けました。
その様子を見ていた神殿の祭司エリは、ハンナが声を出していなかったので、酒に酔っていると誤解してハンナに言いました。「いつまで酔っているのか。目を覚まして、早く家に帰りなさい。」
ハンナは答えて言いました。「いいえ、祭司さま。私は心に悩みのある女でございます。ぶどう酒も、お酒も飲んではおりません。私は主の前に、私の心を注ぎ出していたのです。」
ハンナの祈りも最初は辛い祈りであったかもしれません。
「なぜですか?」「神様は酷すぎます。」「神様、私はとても寂しいです。こんなことなら、わたしの命をとってください。」・・・そのように祈っていたのかもしれません。
とにかく、ハンナは心を全部開いて、神様に思いの全てをぶつけました。
ハンナは泣きながら、祈りを通して、神様に話し続けました。
その間に、ハンナの思いはだんだんと変えられていったのです。
ハンナの顔は最後には全く変わっていました。

■祈りは神様だけとの親しい交わり
ハンナが悲しく、辛い思いをしていた時、夫のエルカナもハンナに優しい言葉を言ってくれましたが、それはハンナの慰めにはなりませんでした。
祭司エリもハンナの心を理解してあげる事ができませんでした。
誰も自分の悲しみを理解してくれない。…私たちは人生の中で、そのような経験をすることがありますね。
自分の心を理解してくれるのは神様だけだ…人は気づく必要があります。
イエス様も言われているではありませんか…「あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。(マタイ6:6)」

私も夜中に電話を受け取ることがあります。そして長いお話を聞くことがあります。
そういうことも必要なのだと思います。
でも、結局、人は神さまの前に行って、神様の前で癒されるのだと思います。
どんな人も、神さまと二人っきりになる必要があります。
人は人の気持ちを理解できない。でも神さまは理解してくださるのです。
祈りを通して、その神さまとお話できる、それは最大の祝福です。
祈りとは神さまとだけの親しい交わりなのです。

■心を開くこと
さて、今日、ごいっしょに考えたい二つ目のことです。
神さまと親しくお話する時に、注意することです。
それは、祈りの時には心を開く必要があるということです。
聖書には、「ハンナは主の前に、心を注ぎ出していた」と書かれています。(15)
「心を注ぎ出す祈り」ってどんな祈りだと思いますか?
心を全部開いて、神様にお話ししていたのです。

神様にお祈りする時には、「心を開こう」と努力する必要があると思います。
なぜなら、いつもは私たちの心は、普通は少ししか開いていないからです。
心の戸は錆び付いてしまっていて全部開くためには努力しなければなりません。
夏に、窓という窓を全部開けることがあるでしょう。
窓を全部開くと、風が、気持ちよく、家の中を吹き通ってゆきますね。
そのように、心をあけて、神さまと本当の気持ちでお話する必要があります。
神さまはあなたを罰せず、あなたの気持ちも受け止めてくださいますよ。
神さまを信頼して、心を開いてお話ください。

■確信が来るまで祈り続けること
さて、今日、ごいっしょに考えたい三つ目のこと。
それは、神さまにお祈りをする時に、注意してほしいことの一つです。
それは、神さまがお祈りを聞いてくださったと確信を持つ事ができるようになるまで、祈り続けるということです。
少しだけ祈って、あきらめてしまってはいけません。
イエス様は、「祈り続けなさい」と言われたでしょ?
私たちが祈り始めた時、神さまは私たちの祈りに耳を傾けてくださいます。
しつこく祈れば神様が聞いてくださるというのではありません。神様は、すぐに聞いて下さっています。
でも、私たちには、祈りが聞かれたという確信が必要です。
そうでないと、その人は、次から、祈ることをやめてしまうからです。それでは、祈りという最大の祝福を失ってしまう事になります。
神さまのためではなく、私たちのために、祈りが聞かれたという確信が必要なのです。

ハンナは、心をあけて、泣きながら、必死に祈りました。その祈りを神さまは聞いてくださったと思いました。するとハンナの心の中に変化が生まれました。
18節には、「ハンナの顔はもはや以前のようではなかった」と書かれています。
つまり、ハンナの顔は希望に輝いたのでした。
後は、ハンナは、その祈りが実現するのを感謝しつつ待つばかりでした。
そしてその通り、神さまはハンナに男の子をくださったのです。
それが、サムエルでした。
祈りによって誕生した子でした。


お祈りは、神さまとの親しい交わりです。
その時には、心を全開にします。
また、確信が来るまで祈るのです。
感謝してお祈りさせていただきます。

東広島 
緑の牧場キリスト教会

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Japan Baptist Convention
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最終更新日時 2012.06.01 22:11:57


Prayer (from Hannah's Prayer)
[ 日曜日礼拝 メッセージ ]  

20120603 Prayer (from Hannah's Prayer) 1 Samuel 1:1-20)

It is getting hot.
In the midst of this heat, from near and far, you have come and gathered here before God.
I believe that God will bless each you greatly.
We give our thanks to God who is the Lord of all blessings.
Since it is the first Sunday in June, the children and adults will worship God together.
I want us to think about the Sunday School text for today and worship God.
Today’s theme is "Prayer".
I would like you to consider three things about the Hannah's prayer, the mother of Samuel.
・The first point is "prayer is a conversation with God".
・The second point is "you need to open your heart when you pray".
・The third point is "you don't give up praying until you know that God has heard your prayer".
These are the three points today.
(Picture-) Look at the picture of Samuel.
He is a boy. Because he is a Nazarite, he has the
long hair. Last Sunday you heard
the story of Samson. He also had long hair.
This picture is a about the time in which Samuel was separated from his family and began living in the priest Eli’s house.
Samuel became a famous prophet.
Because God answered his mother's prayers, Samuel was given by his mother and dedicated to God.
I would like to tell you that story.


There was a man named Elkanah who lived in an area north of Jerusalem. He lived there about 100 years before David was born.
Elkanah had a wife called Hannah.
For a long time, Hannah could not have a child.
In those days, it was a culture which children were needed more than today.
Elkanah wanted children, and he had another wife. Her name was Peninnah.
Peninnah had many children.
Peninnah picked on Hannah and said, "Hannah. God hates you. Even if you pray for a child,
God will not give you a child."
Hannah was deeply-distressed.
Once a year, there was a time in which Hannah was grieved the most.
It was the day when Elkanah’s family went to Shiloh together to worship God. At that time, there was a tabernacle in Shiloh and the Ark of Covenant was placed there.
Elkanah, Peninnah, and their children were looking forward to the trip. But Hannah felt very much alone at that time.


If Hannah was selfish, she might say to Elkanah, "I won't go to Shiloh with you. It only makes me feel alone and I don't like Peninnah."
When I was a student, a young man stopped coming to worship.
I went to his home and asked, "What is the matter?" He answered, "When I go to church, I Miss C is there."
I said to him, "Is worshiping God such a small thing for you?"
When I was a student, I stopped going to church for 2 or three months.
If Hannah had not gone to Shiloh to worship that day, the prophet Samuel would not have been born.

Now, to get back to the story.
Hannah went to Shiloh with her family.
After they finished worshiping, they had a meal with all those gathered at the tabernacle.
Because Hannah was sad, she could not eat.
She heart was broken.
Hannah went to the tabernacle.
While crying, she prayed.
She wept quietly and was earnestly praying.
Since Hannah was not praying out loud, so when Eli the priest looked at her, he said, "How long are you going to stay drunk? Put away your wine."
Hannah answered and said, "Not so, my lord, I am a woman who is deeply troubled. I have not been drinking wine or beer; I was pouring out my soul to the Lord."
Possibly Hannah's prayer was painful at first.
"Why?" "God, You are too hard" "I am so alone. Please take my life."

Anyhow, Hannah completely opened up her heart to God.
While crying, Hannah prayed and continued talking to God.
Hannah's prayer changed gradually.
Finally Hannah's face completely changed.


When Hannah was deeply distressed, her husband Elkanah spoke gently to her. But he could not comfort her.
The priest Eli did not understand her either.
"Nobody understands my sadness." Everyone feels like this at different times in their lives.
It is only God who understands your feelings. ? Everyone needs to know this.
Jesus also says, "But when you pray, go into your room, close the door and pray to your Father, who is unseen. Then your Father, who sees what is done in secret, will reward you." (Matthew 6:6)
I can get a telephone call in the middle of the night. It may also be a long talk.
As a pastor this is something that is expected.
Everyone can come before God and be healed.
Every person needs to have a time with God.
No one can completely understand your feelings. Only God can.
You can talk with God through prayer. It is the greatest of blessings.
Prayer is how we have an intimate fellowship with God.


Now, the second point.
It is something you should notice when you pray.
It means that you need to open your heart when you pray.
The Bible says, "I was pouring out my soul to the Lord." (15)
What kind of prayer do you think, "pouring out my soul to the Lord" is?
She opened her heart and began talking to God.
I think that it is necessary "To open your heart" when praying to God.
We don't often open our heart fully to God.
The door to your heart is rusted so that you have to do strive to open it.
In summer, you may open all the windows in your house.
When you do, wind blows and passes along the inside of your house, and you can feel good.
Like this, you need to open your heart completely to God and speak to Him.

God will not punish you and He will respond to your feelings whenever you speak to him.
Please trust God and open your heart and talk to Him.


Now, the third point.
It is something you should notice when you pray.
It is that you don't give up praying until you have a firm belief that God has heard your prayer.
Do not give up praying after only praying a few times.
Jesus says, "Continue praying."
When you begin praying, God will listen to you.
It is not that He will hear you if you pray persistently. God always listen to you.
But, you need to have a firm belief that your prayer was heard.
Otherwise, the next time you will stop praying. Then, you will lose the greatest blessing.
Not for God but for you, you need a firm belief that your prayer was heard.

Hannah cried, opened her heart, and prayed earnestly. And, she knew that her prayer reached God. Hannah’s heart was changed.
Verse 18 says, "her face was no longer downcast."
In other words, Hannah's face shone with hope.
Hannah waited for fulfillment of her prayer.
And just like that, God gave her a boy.
It was Samuel.
He was a child born because of prayer.


A prayer is an intimate fellowship with God.
Then, you need to open your heart and pray earnestly.
And, you need to pray until you have a firm belief that your prayer has been heard.
Let us pray.

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最終更新日時 2012.06.01 21:58:34

2012.05.26

御心が天になるごとく地にもなりますように
[ 日曜日礼拝 メッセージ ]  

20120527
主の祈り(4):「御心が天になるごとく地にもなりますように」
   

20120527    主の祈り(4):「御心が天になるごとく地にもなりますように」   

ペンテコステおめでとう
今日はペンテコステです。
教会のお誕生日です。
神さまが、教会をこの世に誕生させてくださいました。
親が子どもの誕生を喜ぶように、神さまは教会の誕生を喜ばれたと思います。
赤ちゃんに命が吹き込まれるようにして、教会にも神様の命の霊、聖霊が吹き込まれました。
私たちの教会にも聖霊が吹き込まれているのです。
今も、ペンテコステの祝福が続いていることに感謝をいたします。
さて今日も主の祈りから祈りについて学んでゆきたいと思います。

今日は、その「主の祈り」のシリーズの第4回目です。
イエスさまは、「主の祈り」を私たちに下さいました。
主の祈りは、毎日、私たちが神様との深い交わりを受けるために祈る時につかう「祈りのプログラム」です。
イエスさまは、主の祈りの中の1つの項目として、「御心が天で行われるように地でも行われますように」と祈りなさい、と言われました。
御心といいますのは、神様のご意志やお考え、思いや計画のことです。
「地」といいますのは、私たちの住んでいるこの世界です。
神様のお考えや思いや計画が、天で行われるように、この私たちの間でも行われますように、という願いを祈るのです。

神様のみ心と人の意志 …どういう関係にあるの?
まずみなさんとご一緒に考えたいのは、神様のみ心と、私たち人の意志とはどういう関係にあるのか?ということです。
神様のご意志と私たちの意志とはどういう関わりがあるのでしょうか?

まずこの世界の中には、神様のご意志によって既に決められたということがあります。
たとえば、この宇宙の法則は、神様が決められました。
私たちは、地球の自転を変えることができません。
さまざまな自然の法則も変えることができません。
それは、神様が私たちを守り、私たちを祝福するために造って下さったものですね。
宇宙の法則において、神様の御心は、この地上に完全に反映されています。
また私たちは、食べることで喜び、食べることで力を得、食べることで生きて行くことができる、ということも神様が造って下さった法則です。
私たちの身の回りのさまざまなことにおいて、神様は私たちを守り、祝福するために、あらかじめ法則や決まりを定めてくださいました。
法則も決まりも何もなかったら、大変なことになります。まず生きてゆけません。

神様は私たちのために生きる場所を備えてくださった、その上で、「御心が天で行われるように地でも行われますように、と祈りなさい」と言われました。
ここには、私たちの自由と責任があります。
この祈りの言葉から、私たちは2つのことがわかります。
一つは、神様のみ心が完全に地で行われないことがあるということです。
もしこの地上で神様のみ心が完全に行われているのでしたら、このように祈る必要はないわけです。
私たちは罪人なので、神様のみ心を知りながら、それに逆らうことさえできます。
神様のみ心は、互いに愛し合うことだということを知りつつも、そうしない、そうできないこともあります。

もう一つわかることは、それでも神様のみ心が地上で行われる可能性は十分にある、ということです。
イエスさまがそのように祈りなさい、といわれたのですから、神様の御心が、私たちの周りで行われる可能性は十分にあると信じていいと思います。


私たちには自由な意志を与えられています。
しかし、「この状況においては神様のみ心に従うしかない」、そういう局面に出会うことがあるでしょう。
「今、私はイエスさまを受け入れるしかない。そうしなければ私は人生を失ってしまう。」そういう局面があるでしょう。
そんな時に、間違った手を打つなら、ひどい回り道をすることになってしまうのです。
神様は、私たちを意志をもった者として造られました。
神様は、私たちの運命を決めてはおられません。
私たちは自由な意志をもっています。
しかし、先ほどごいっしょに考えたように、神様はそのご意志によって、私たちを守り祝福するために、宇宙の法則やさまざまな法則を造られました。
私たちはその法則に逆らうことはできません。
万有引力の法則は、私たちを守っています。私たちは、その力によって地上に立つことができ、生活ができます。
しかし万有引力の法則に逆らって、高いところから空に向かって飛び上がるなら、けがをすることになるのです。
ですから自由だからといって、その自由に生きる時、神様のみ心を考えの中に入れておく必要があると思います。
また、神様は私たちそれぞれの人生の大事な局面なおいて、私たちを導き助けようとされます。
そんな時に、私たちは、「御心が天で行われるように地でも行われますように」と祈る必要があると思います。

神さまがご意志を貫かれる時
神様は決定的な局面において、そのご意志を貫かれることがあります。
イエスさまによる人類の救いの出来事はその例です。
アダムには、自由が与えられていましたが、彼は、神様に逆らい、罪を犯しました。
しかし、神様は人類を罪と死から救い出すために、イエスさまを通して救いを成就されました。
それは神様のみ心であったのです。
神様は、決定的な局面において、そのご意志を貫かれたのです。
神様の愛は深く、神様の憐れみは深く、その慈しみは永遠なのです。

神様のみ心に従う (イエスさまの場合)
さて、イエスさまは、「御心が天で行われるように地でも行われますように」と祈りなさいと教えて下さったのですが、イエスさまの場合をご一緒に見ておきたいと思います。
十字架に架けられる少し前、イエスさまはゲッセマネに行って祈られました。
そこは、イエスさまがよく祈られた庭園でした。
そこでイエスさまは、1時間、2時間と必死に祈られました。
「わが父よ。どうしても飲まずにはすまされない杯でしたら、どうぞみ心のとおりをなさって下さい。」
イエスさまは、父のみ心に従われました。
イエスさまは、自分から、積極的に、神様のご意志に従われたのでした。
そして、「時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されるのです。立ちなさい。さあ、行くのです。」といって、立ち上がられたのです。

み心を求めて
神様のみ心の多くは聖書に表わされていて、よくわかると思います。
ただ、本当に苦しいことにあった時、思わず、「神さま。どうしてですか?」と言ってしまったりするのです。
でも、それでも、後から冷静に考えると、自分でその答えを知っていることも多くあったりいたします。
ただ、進路を決定する時…就職や結婚や転職などの場合は、御心がわからず、しばらくの間、祈り求めてゆくこともあると思います。
あるいは、神様のみ手に委ねて、どちらかを選択せざるを得ないときもあります。
それはあり、と思います。
神さまは全てをよしとしてくださる…それが神様のみ心なのですから、一生懸命祈って決めたら、前に進んでもだいじょうぶとおもっていて良いと思います。

さて、毎日の祈りのなかで主の祈りをプログラムとして祈られる時、「御心が天で行なわれるとおり、地にもなりますように」という祈りのところに来た時には、一日のスケジュールを考えながら、神様の御心が御心がなるようにと祈っていただきたいと思います。

また、私たちはいろいろな条件の中で生きて行きます。
時には、思わぬ病気や苦しみにあうこともあります。
その中で、神様のみ心を思いながら、自分の誠実な心を選び取ってゆくことも必要だと思います。
ヴィクター・フランクルという人はこのように言いました。
「人間の自由というのは、諸条件からの自由ではなくて、これら諸条件に村して自分のあり方を決めていく自由である」と。

いろいろな状況の中で、神様のみ心を思いながら、失望ではなく希望を、挫折ではなく勇気を、諦めではなく信頼を、選び取る事は私たちができることであり、神様のみ心の中にあることです。

イエスさまは、「み心のままになさってください」と祈られました。
「御心が天になるごとく、地にもなりますように」…私たちは、そう祈ると共に、神様のみ心が地になるように励むことができるし、励んでゆきたいと思います。
神様のみ心を求めてその実現のために励んでまいりましょう。
お祈りいたします。

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最終更新日時 2012.05.27 07:54:33

The Lord's Prayer 4
[ 日曜日礼拝 メッセージ ]  



20120527 
Today is the Pentecost.
It is a birthday of the church.
God gave birth to Church in the world.
God regarded birth of the church like parents may be pleased with their child's birth.

As the life was inspired in the baby, God’s spirit was also blown into the church.
The Holy Spirit is blown into our church, too.
I thank to God for His blessing of Pentecost.
Now, I wish to learn about a prayer from the Lord’s prayer also today.

Today is the fourth in the series, "The Lord’s Prayer".
Jesus taught us "The Lord’s prayer"
"The Lord’s Prayer" is a program for our prayers which we can use everyday in order to create a good relationship with God.
It says in The Lord’s Prayer, "may your will be done on earth as it is in heaven"
"Your will" means God’s will, His thought and His plan.
"Earth" means this world that we live in.
We pray that God’s will, thought and plan might be done amongst us.

What I want us to think about first is "what kinds of relationships between God's will and man's will are there?"
What kinds of relationships are there between God’s will and our will?
What do you think?

First, there are things which God has set in this world.
For example, God established the laws of the universe.
We cannot change the earth’s rotation.
Do you think you can do it?
You can't, can you.
We cannot change natural laws, either.
They are made by God to safeguard us and bless us.
In regards to universal laws, God’s will is perfectly reflected.
God also made a law which says, "we take pleasure in eating, we gain strength through eating, and we live by eating.
It is God’s will.
God gives this world enough food.
If we divide it fairly, everyone in the world can eat without hunger.
We eat and live.
Concerning this point, God’s will is reflected perfectly on this earth.
God decided when and where we would be born and who our parents would be. We can do nothing about it.
God decided these in order to bless each of us.
God made many laws in order to safeguard and bless us.
But Jesus said, "may your will be done on earth as it is in heaven"

From these words, we can know two things.
One is that there are cases in which God’s will is not done on this earth.
It is true. If God’s will was always done, there would be no need to pray.
Because we are sinners, while we think we know God's will, we can disobey God's will.
Though I may know that I must make God’s will first, I still can disobey it.
Then, God’s will does is not done on this earth.
Though I know that God’s will is to love everyone, I am unable to love everyone.
Then, God’s will is not done on this earth.

Another thing we can know from this verse, is that there are enough possibility to do God’s will on this earth.
For this reason, Jesus commanded us to pray. It is enough for God’s will to be done on this earth.

We may compare the relationship between God’s will and man’s will with the pieces of shogi.
The pieces can move freely.
They have free will.
But there are laws to move by.
Kaku can move diagonally but not straight.
In some cases, is forced to move a certain way.
In the situation, if I do not move, I will lose.

We also have free will.
But there are cases in which "I must obey God."
There are cases in which "I must accept Jesus now. If I do not, I will lose my life."
So, if you make a mistake in such cases, you must go a long way round.
God does not want to move us like a robot.
God made each of us with free will, and He loves us.
God does not decide our fate.
We have free will.
But in order to safeguard and bless us, God made some universal laws.
We can not disobey them.
The law of gravitation is for us. It safeguards us. By it, we can stand on the earth and live.
But if we disobey the law of gravitation, and if we fly up from a high place, we will be hurt.
In each one's life, there are special cases in which God wants to lead and save us.
In these instances, we must pray "may your will be done on earth as it is in heaven"

In important cases, God inserts His will.
Salvation through Jesus is such an instance.
God put the cross of Jesus and His resurrection in the center of history.
It is God’s will that everyone should be saved through the cross of Jesus and His resurrection.
Adam disobeyed God thus committing sin.
Adam had freedom to commit sin.
But God had completed salvation through Jesus in order for us to be saved from sin and death.
It was God’s will.
In a decisive case, God inserts His will.
God’s love is deep and God’s will is strong.
God’s mercy is deep and His love is eternal.

Now, Jesus said, "may your will be done on earth as it is in heaven". Let us see such an instance.
A little before Jesus was crucified, Jesus went to Gethsemane to pray.
Jesus prayed there often.
There, Jesus prayed for more than two hours.
"Father, if this cup of suffering cannot be taken away unless I drink it, your will be done."
Jesus obeyed Father’s will.
Jesus earnestly obeyed Father’s will.
And He said, "The hour has come for the Son of Man to be handed over to the power of sinners.
Get up, let us go." And He stood.
Some Christian may say,
"I am waiting for God’s will. But a clear answer doesn't come. So I can do nothing. "
But when a man says this, God’s will may already have been accomplished .
Because of a lack of courage in deciding, he does nothing.

Victor Francle said,
"Man's freedom is a freedom not from various conditions but a freedom to decide his own attitude against the various conditions."
We live in several conditions.
Sometimes, we get ill or we meet with misfortune.
It may be important for us to struggle in such conditions.
But even when you cannot do it, you have the freedom to decide how you accept the conditions.
You can cry "God! Why?" when you are in pain, but also you can accept it as God’s question to you and can obey Him.
Jesus prayed, "your will be done"
Also He said, "The hour has come. Get up, let us go"
When we pray, "may your will be done on earth as it is in heaven", let us obey His will.
Let us pray.



最終更新日時 2012.05.26 16:53:33

2012.05.20

主の祈り(3) 「み国を来たらせたまえ」
[ 日曜日礼拝 メッセージ ]  

20120520   主の祈り(3) 「み国を来たらせたまえ」      マタイ6:10a

今日は、主の祈りのシリーズ三回目です。
主の祈りは、イエス様がこのように祈りなさいと教えてくださった祈りのプログラムです。
私たちはいつでもどこでも自由に祈ることができますが、一日のうちで特別に時間をとって祈るときにはこのプログラムに沿って祈るととても祈りやすいと思います。
そして今日は、「み国を来たらせたまえ」ということについてご一緒に考えてみましょう。
これは原文では、「あなたの国よ、来たれ」という強い言葉で書かれています。
「み国」というのは、「神の国」のことです。
イエス様は、しばしば「神の国の譬え話」をされましたね。
神の国という事柄は、イエス様の教えの中でも大切なものだったのです。

■神の国=神さまのご支配(神の愛・救い・祝福・ご臨在)
「国」と言いますと領土を思い浮かべますが、聖書でいう神の国は領土のことではありません。
「神様の支配」を意味しています。
神様の支配。つまり、神様の愛・救い・祝福、神様のご臨在のことなのです。
神様と神の子どもというような関係が結ばれているところ。祝福が注がれるところ、そこが神の国です。
人が罪赦され、神様に愛されるという関係が実現しているところ、それを神の国と言うのです。

■イエス様の神の国(見えない現実の永遠の国)≠律法学者たちの神の国(見える国)
イスラエルの宗教家たちも、神の国の実現を望んでいました。
イエス様もまた、神の国を述べ伝えられました。
しかし、イスラエルの宗教家たちが待ち望んでいた神の国とは、この地上の国だったのです。
彼らは、イスラエルの王国が再建され、イスラエルの国が独立し、繁栄し、昔のダビデ王やソロモン王の時代のような強大な国家が実現することを願っていて、それを神の国と考えていたのです。
しかし、イエス様は、神様と人との関係が義しく結ばれることを望んでおられたのです。
目に見えるいつかは滅んでしまう国ではなく、目に見えない現実の永遠の国です。

■神の国…イエス様によって与えられた父子の絆から拡がりネットワークが生まれる
それは、神様と私たちとの、イエス様によって与えられた父と子という強い絆に結ばれている関係です。
私たちがそのような関係を結ぶことができるようにと、イエス様は来てくださり、十字架にかけられて死に、復活してくださったのです。
ですから、イエス様とイスラエルの宗教家とは、「神の国」の捉え方がまったく違っていたのです。
そのため、イエス様はイスラエルの宗教家たちから迫害を受けました。
イエス様が言われる「神の国」は、この世界がよくなってやがてユートピアが実現するものというようなものではありませんでした。
イエス様は、神の国は、この世の国とは質的に違うと言われたのです。
この世界が変化して神の国になるのではありません。
この世界とはちがって全く新しい世界が造られるのです。
神の国は、全く別の世界です。しかし、その神の国は、イエス様を通して、イエス様によって、この世界の中に入り込んで来ているのです。
たとえば、イエス様は、ルカの福音書11:20で、「わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたに来ているのです。」と言われました。
神の指というのは、神の力という意味です。
また、マルコ福音書1:15では、イエス様は、「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」と言われました。
これは、「神の国は、この世界に接し、侵入し始めている」という意味です。
イエス様によって、神の国はこの世界に入って来たのです。
また、ルカによる福音書17:20,21にはこう書かれています。
「さて、神の国はいつ来るのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。『そら、ここにある。』とか、『あそこにある。』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」
イエス様によって、神の国…神の愛と救いと祝福はこの世界の中に入り込んで現実を生み出しているのです。
イエス様によって神の国は存在するのです。
ですから、イエス様を受け入れることはすなわち、神の国に入るということでもあるのです。
イエス様を信じるものは、神の国に入っているのです。

■神の国を求める私たちの具体的なとりなしの祈り
イエス様は、「み国を来たらせたまえ」と祈りなさいと言われました。
ですから、私たちは、神様の国がいろいろな人々にくるように祈るのです。
家庭に神の国が…神の愛と赦しと祝福が来るようにと祈るのです。
友人の上に神の国が来るように祈るのです。
教会の上に、神の国が来るように祈るのです。
働きの上に、神の国が来るように祈るのです。
そして東広島に、広島県に、日本に、世界に神の国が来るようにと祈るのです。
私たちは、毎日、神の国が来るように、具体的に祈りたいとおもいます。
このような祈りのことを、私たちは「とりなしの祈り」といいます。
私たちは「とりなしの祈り」ができるだけではなく、それをしなさいと命じられています。
イエス様は、教会のことを「祭司」と言われました。
私たちは祭司です。
旧約聖書での祭司の務めは、神様の贖罪所の前で民のために「とりなしの祈り」をすることでした。
私たちは、神様と人々との間に立って、人々の救いのために祈り、働くのです。
私たちが、家族のため、友達のため、教会のためにとりなしの祈りを祈る時、そこにはすばらしいことが起こるのです。

■とりなしの祈りの具体例(1)
以前、鈴木秀子さんというカトリックのシスターのことをご紹介したことがございます。
とりなしの祈りの例として、またご紹介させていただきたいと思います。
鈴木さんは臨死体験をされました。
1977年の頃、鈴木さんはシスターとして大学で教鞭をとっておられました。
学校の御用で奈良の修道院に宿泊した時、夜中に急な階段から転がり落ちてしまいました。
胸の骨を折って意識を失ってしまったのですがその時、鈴木さんは自分が宙に浮かんでいて、もう一人の倒れている自分の姿を見るという経験をされました。
そして鈴木さんは一瞬のうちに高さの極みにまで飛翔し、今までに見たことのないような美しい光に包み込まれます。
そこは一面、光の世界だったそうです。
神様の光の中で調和を感じていた時、「これこそが至福なのだ。私は完全に自由にされたのだ」と幸せを感じられたそうです。
五感も思考もすべてが生き生きと冴えわたり、全てが最高の状態に保たれていました。
命と光の主に、わたしはすべてを知られ、理解され、受け入れられ、赦され、完全に愛しぬかれていると感じられたそうです。
その時です。鈴木さんは神様の声を聞きました。「地上に戻ったとき、最も大切なのは、知ることと愛すること。その二つだけだ。」と。
彼女は、階段から落ちた鈴木さんの体の側で心配しながら祈る他のシスターたちの祈りの答えとして再び地上に戻されたのでした。

■とりなしの祈りの具体例(2)
もう一つ、とりなしの祈りの例をあげましょう。
出エジプトの時代です。
ある時、アマレク人は、イスラエル人をおそいました。(出エ17:8)
戦いが始まりました。
そのとき、モーセはどうしたでしょうか?
モーセとアロンは、その戦いが行われているそばの丘に上りました。
そして祈り始めたのです。
モーセが手を上げているときは、イスラエルが優勢になりました。
しかし、手を降ろしているときは、アマレクが優勢になったのです。
だんだんモーセの手が重くなりました。
すると人々は石を取ってモーセの足もとに置きました。モーセはその上に腰掛けました。
アロンとフルは、ひとりはこちら側、ひとりはあちら側から、モーセの手をささえ、日が沈むまで、モーセは手を挙げて祈り続けたのです。
その結果、イスラエルはアマレクを打ち破ったのです。
神様は、モーセに命じられました。「このことを記録として、書き物に書きしるし、ヨシュアに読んで聞かせよ。」
あなたや私が、人々のために祈るときすばらしいことがおこるのです。

■とりなしの祈りの具体例(3) と 祈りへのお誘い
私たちの今年度の目標は、「祈り合う教会になろう」ということです。
具体的に、夜の9時か11時に祈りを会わせようと言っています。
私も妻もその時間を大切にしています。

希望者には、毎朝、「今日の糧」を発信しています。
その中に、「朝か・夜9時か・11時に祈りを合わせましょう*もし挫折しても、新しく三日坊主を続けましょうね。あなたのために祈っています」と書いています。
先日、ある方からメールをいただきました。
そこには、「三日坊主を始めました」って書かれてあったんです。
これは何かが始まる、と思いました。とても嬉しく思いました。
神の国のネットワークってこのような事だろうと思います。

ある方は、分級礼拝の時に、夫婦でヤベツの祈りを祈っていると教えてくださいました。
しかも、ヤベツの祈りの中に、教会に繋がる方々の名前を入れて、祝福を祈っておられるというのです。
神の国は確実に表わされていると思います。
みなさん、どうぞいっしょに祈ってくださいね。
そして主のみ業が起こされるのを共に感謝してゆきましょう。

お祈りいたします。

東広島 
緑の牧場キリスト教会

日本バプテスト連盟 
緑の牧場キリスト教会 
日曜礼拝メッセージ
Japan Baptist Convention
Green Pasture International Christian Church
http://midori.church.jp





最終更新日時 2012.05.20 18:27:33

2012.05.15

The Lord's Prayer 2
[ 日曜日礼拝 メッセージ ]  

20120513 “May your holy name be honored” Mt6:9


Good morning.
Our goal for this year is, “We will become a church praying for each other”.
For the goal, we are learning about prayer from our Lord Jesus.
Today is the second of the Lord’s Prayer.

■1.
In the message, Jesus taught many things about prayer.
We can pray on any time and everywhere.
However, not as doing, it is also important for us to decide a prayer time to have a close relationship with God.
For the time, Jesus taught “the Lord’s prayer” as the program of prayer.
Last time, we together thought about “Our Father in heaven”.
We thought about “heaven”, ”our” and ”Father”.
And we thought about how wonderful our Father is.
Our Father loves us.
He is God who wants to fill us with His blessing.
We are sinners but God made us His children by Jesus’ cross and resurrection.
So as a child of God, you can call to God friendly.
“My Father in heaven ?” ...”My son!”
“My Father in heaven ?”...”My daughter!” We can pray like this.

■2.
“The Lord’s prayer ” starts from Praise.
“Our Father in heaven: May your holy name be honored;”
Confirm that how wonderful our God is, and pray.
“My God. You are God of perfect love. I praise you. “
“My God. You created everything.”
“My God. You know everything and you can do all. For You, there is nothing impossible.”
“My God. You love us. You forgave us and saved us and made us your children by the only Son Jesus”
From the Confirmation that God is wonderful God, and from the thanksgiving, the Lord’s prayer starts.

■3.
We pray “May your holy name be honored”. But what is “honored”?
The word “honor” is “to make holy” in original meaning.
“Holy” means “distinguish ”or divide” originally .
It is not clean or pure.
“To make God’s name be honored” is “to make God holy”
It is that we worship only God.

■4.
Not to make God holy is that to mix God with the other things.
The Israelites failed and failed about this things.
In Lev.22:32, God said, “Do not bring disgrace on my holy name”.
But when we read the Lev we know that they mixed God with the other things.
Not to make God holy is that , for example, not to believe in God but to trust in human or things or money or authority or business.
It is that not to put God the highest and biggest valuable but to do the others.
Or it is to believe God in order to obtain own happiness.
We have always temptation in our minds that we don’t make God holy.
Then, if we don’t repent, we would spend the life regretting it.
We have to put the highest and biggest valuable on God.
We have to believe in God absolutely.
We want us to make God the first for us.

■5.
Now, this time, when I investigate the Bible I found out an interesting thing.
“May your holy name be honored”...This is written in passive mode as you know.
Why?
Why isn’t it, “We may be able to honor Your name”?

I guess that what is the Subject of this sentence?
At first, I thought that we do honor God’s holy name.
It may be true.

But in the Old Testament, there are places that God honors His holy name by Himself.
I quote from two places from the Old Testament.
Isaiah 29:23”When you see the children that I will give you, then you will acknowledge that I am the holy God of Israel. You will honor me and stand in awe of me.”
When the people see the work God does, they will honor God’s holly.
Ez36:23,”When I demonstrate to the nations the holiness of my great name―the name you disgraced among them―then they will know that I am the Lord. I, the Sovereign Lord, have spoken. I will use you to show the nations that I am holy.”
God demonstrates the holiness of Himself. Then people will know that God is the Lord.
Then, when did God show us that He is the holiness?
The time when God created the universe? It is true.
The time when the Exodus? It also true.
The times when God protected the Israelites? I think it also true.
However, there was the time when God showed Himself to us clearly.
It is the time when Jesus was alive on the earth.
And God has accomplished the greatest work in the history.
“They will know that God is the Lord”...God came to this world as Jesus Christ.
And He has saved us.
By Jesus Christ, God demonstrated himself holy God.
He made His name holy.

It is written in Ph 2:6ff ;
He always had the nature of God, /but he did not think that by force he should try to remain equal with God.
2:7 Instead of this, of his own free will he gave up all he had, /and took the nature of a servant. /He became like a human being /and appeared in human likeness.
2:8 He was humble and walked the path of obedience all the way to death― /his death on the cross.
Jesus loved and loved us and was crucified and forgave our sin and redeemed us as children of God and arose and is living now.
People know it.
As seeing His work, the name of God is honored.
God Himself made His name be honored.

■6.
Regardless we honor God or not, God is true God.
God’s name is always holy. It is not us to make God’s name holy.
But our wish is that “May God’s holy name be honored” So we pray.
Therefore this is not only a prayer to praise God but also
our prayer that “we want to have a worship- life -style ”

As to able to have such life, God gave us the status of children of God through Jesus’ cross and resurrection.
And He sent the Holy Spirit to us.
God Himself changes us to persons who can honor God.
“For the Spirit that God has given you does not make you slaves and cause you to be afraid; instead, the Spirit makes you God's children, and by the Spirit's power we cry out to God, "Father! my Father!"”

Let us praise God.
As remembering that God did so wonderful things through Jesus, let us praise.
And expecting how wonderful things will God do, let us praise.
Our Father in heaven: /May your holy name be honored;
Let us pray.

Higashihiroshima Midorinomakiba church
sermon




最終更新日時 2012.05.15 11:50:19

2012.05.13

主の祈り
[ 日曜日礼拝 メッセージ ]  

20120513   「主の祈り(2) み名があがめられますように」    マタイ6:9  

1.いつでも祈れる祈りと、親しい交わりのための主の祈り
おはようございます。(こんにちは)
私たちの今年の目標は、「祈り合う教会になる」ということです。
そのために祈りについてごいっしょにイエス様から学んでいます。
今日は主の祈りの二回目です。

イエス様は、そのメッセージの中で、祈りについても多くのことを教えて下さいました。
私たちは、いつでもどこでも祈ることができます。
しかし、何かをしながらではなく、一日の中のある時間帯を決めて、神様との親しい交わりの時間を過ごすこともまた大切です。
その祈りの時間のために、イエス様は「主の祈り」という祈りのプログラムを教えて下さいました。
前回は、「天にまします我らの父よ」ということについてご一緒に考えましたね。
「天」・「わたしたちの」・「父」、それぞれについて考えました。
そして、私たちの父なる神様はどんなにすばらしいお方であるか?ということについても考えました。
父なる神様は、私たちを愛しておられるお方です。
私たちを祝福で満たしたいと願っておられる神様なのです。
私たちは罪人でありながら、イエスキリストの十字架と復活によって神さまの子どもとされたのです。
ですから、私たちは神様の子どもとして、父なる神様に親しく呼びかけることができるのです。
「天のお父さま?」...「息子よ!」
「天のお父さま?」...「娘よ!」。そう祈ることができるのです。

2.讃美から始まる
祈りのプログラムである「主の祈り」は、讃美によって始まります。
「天にまします我らの父よ。願わくばみ名を崇めさせたまえ。」
神様がどんなに素晴らしい方であるか?を認めながら、感謝しながら祈るのです。
「神様、あなたは全き愛のお方です。あなたを讃美します。」
「神様、あなたは全てのものをお造りになられたお方です。」
「神様、あなたは全てをご存じで、全てのことをする事ができるお方です。あなたにとって、不可能なことは何一つありません。」
「神様、あなたは私たちを愛して下さいました。そして御子イエス様によって私たちを赦し、私たちを救って下さり、子どもにして下さって感謝します。」
まず、神様に感謝し、神様のすばらしさを認めることから、主の祈りのプログラムは始まるのです。



3.み名をあがめる
「み名があがめられますように」と祈りますが、み名を崇めるとはどういうことでしょうか?
この「あがめる」という言葉は、直訳しますと、「聖とする」、「聖める(きよめる)」という言葉です。
聖というのは~聖書の聖という言葉ですが~これはもともと「区別する」とか「取り分ける」という意味です。
きれいという意味での清いというのとは違っています。
「神様のみ名をあがめる」とは、「神様を聖とする」ということ。
それは、真実な神様だけを礼拝するということです。

4.神様を聖としないとは…
神様を聖としないとは…神様を他の様々なものと混同する、他のものと同列におくということです。
イスラエルの人々は、この事について幾度も失敗を繰り返しました。
レビ記22:32で神様は、「わたしの聖なる名を汚してはならない。」と言われました。
けれども、レビ記を読みますと、残念ながら彼らは他のものを神様と同列に置いてしまったことがわかります。
神様を聖としないとは…例えば、神様を信頼せず、人や物やお金や権力や仕事に頼ってしまうことです。
神様に最高最大の価値を認めず、他のものに最高の価値を置いてしまうことです。
また、自分の幸福を得るために神様を信じる、ということもそうですね。
神様を崇めない、神様を聖としない、そのような誘惑はいつも私たちの心にあります。
その時には、悔い改めなければ私たちは後になってきっと後悔することになるのです。
神様に最高、最大の価値を認め、
神様に絶対の信頼を置く。
神様を第一にする私たちでありたいと思います。

5.神様ご自身が、自らを聖なる方とされる
さて、今回、聖書を調べていましたら、おもしろいことが分かりました。
「み名があがめられますように」…これは受身形で書かれていますよね。
なぜでしょうか?
なぜ、「私たちがみ名を崇めることができますように」ではないのでしょうか?
この文の主語は何でしょうか?
最初は、「私たち」が、神様のみ名を崇めるのだと思いました。
確かにそのこともあると思います。
しかしながら興味深い事に、旧約聖書の中には、神様ご自身が神様のみ名を聖とされるということが表されているのです。
旧約聖書の中から2カ所、引用させていただきます。
イザヤ書29:23「…わたしの手のわざを見るとき、彼らは私の名を聖とし、ヤコブの聖なる方を聖とし、イスラエルの神を恐れるからだ。」
神様が起こされる業を見て、人々は神様を聖としてあがめる、というのです。
エゼキエル書36:23「わたしは、諸国の民の間で汚され、あなたがたが彼らの間で汚したわたしの偉大な名の聖なることを示す。わたしが彼らの目の前であなたがたのうちにわたしの聖なることを示すとき、諸国の民は、わたしが主であることを知ろう。」
神様ご自身が、ご自身の聖なることを示す。その時人々は神様こそ主なる神であることを知るというのです。
それでは、神さまがご自身が聖なる方であることを示されたのはどんな時だったでしょうか?
世界を造られた時…それもあります。
出エジプトの時…それもあるでしょう。
イスラエルを守られた時…それもあると思います。
でもご自身を明らかに示された時があります。
それはイエス様の時代です。
そして神様は、偉大な業を人類の歴史の中で成し遂げて下さいましたね。
「私が主であることを知ろう」…神様はイエスキリストとしてこの世界に来て下さいました。
そして、私たちを救ってくださったのです。
神さまはイエスキリストにおいて、ご自身が聖なる方であることを示されたのです。
ご自分のみ名を聖とされたのです。

ピリピ人への手紙2章6節以下にこう書かれています。
「6:キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、
7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
8 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです」。
イエスキリストは、私たちを愛し尽くされ、十字架に架かられ、私たちの罪を赦し、私たちを神の子として贖い、復活して今も生きておられるのです。
人類はそのことを知りました。
その救いの業をみて、神様のみ名が崇められているのです。
神様ご自身がそのみ名を聖とされたのです。


6.この祈りは、私たちの神様への態度を変えてゆく祈り
私たちがあがめるかどうかに関わらず神様は神様であることに変わりありません。
神様のみ名はもともと聖であって、私たちが聖とするのではありません。
ただ、私たちは「み名があがめられますように」ということが願いであり、それゆえに祈るのです。
ですから、これは神様を讃美する祈りですが、
「神様を心から神様として礼拝する生き方ができますように」という自分のための祈りでもあるのです。

私たちがそのように生きることかできるように、イエスキリストの十字架と復活を通して、神様は私たちの中に「神の子ども」としての身分を下さいました。
その証として聖霊さまを私たちの心の中に送って下さいました。
神様ご自身が私たちを、神様を崇めることができる者へと変えて下さるのです。
「あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。」(ロマ8:15)とあるとおりです。

私たちは神様を讃美しましょう。
神様がイエス様を通してどんなに素晴らしいことをして下さったか?を感謝しながら讃美するのです。
そして神様がどんなにすばらしいことをして下さるのか?期待しながら讃美するのです。
「天にましますわれらの父よ、ねがわくばみ名を崇めさせたまえ」
お祈りいたします。

東広島 
緑の牧場キリスト教会


日本バプテスト連盟 
緑の牧場キリスト教会 
日曜礼拝メッセージ
Japan Baptist Convention
Green Pasture International Christian Church
http://midori.church.jp


最終更新日時 2012.05.13 07:17:12

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