カテゴリ:天皇はどこから来たか
武烈天皇の享年には異説がある。記紀には享年が記載されていないが、扶桑略記・水鏡は18歳、帝王編年記・皇代記などは57歳、天書は61歳となっている。私としては18歳説をとるが、それはそれ以前の天皇との関連でもっとも合理的に見えるからである。 武烈天皇の父は仁賢天皇、母は雄略天皇の娘・春日大娘皇女である。仁賢天皇の父・市辺押磐皇子は、雄略天皇に殺されており、仁賢天皇も隠れていたのである。だから、少なくとも雄略天皇の崩御までは結婚をして子供を作るはずはない。雄略天皇の崩御は479年である。しかも武烈天皇は仁賢天皇の第六子だから、それより6年以上後だと考えるのが妥当だろう。そして武烈天皇の崩御が506年とされているから、20歳以下で崩御したことになる。したがって、上記の三説のうちでは18歳説しかあり得ない。 それでは、享年18歳説に従って武烈天皇がどんな生涯を送ったかを考えてみたい。 武烈天皇が488年に生まれたとして、皇太子になるのは494年であり、6歳の頃になる。そして、498年に10歳で影媛にふられる。武烈天皇がアプローチしたとき、影媛はすでに 影媛の年齢ははっきりしないが、ミドルティーンかハイティーンのお姉様だったに違いない。10歳の武烈天皇は、歌垣の場で彼女の袖をつかんで歩いたり止まったりという初々しい初デートだったに違いないのだが、横から鮪臣に「俺の女に手を出すな」とやられたら、まあかなりのショックなわけである。それからというもの、武烈天皇は女性不信というか人間不信に陥ってしまったに違いない。 天皇に即位するのはその翌年だから、盛んに悪いことをしていたというのも、失恋のトラウマによって思春期の精神的不安定が増大したからと考えられる。2年(500年)すなわち武烈天皇12歳で妊婦の腹を割き胎児を見たとか、3年すなわち13歳で人の生爪を剥いで芋を掘らせたとか、ほとんど残虐な少年犯罪である。そのほかにもたくさんの余罪があるが、8年すなわち18歳のときには、女を裸にして平板の上に座らせ、馬を面前に引き出して交接させた。かなり歪んだ性である。女の陰部をみて潤っている者は殺し、潤っていない者は召しあげて官婢とし、これを楽しみとした。完全に性格が歪んでる。(^^; そしてほとんど酒池肉林の世界になって死んでいくわけだが、そうやって一生を終えた少年の心は、ひどく荒んだものだったに違いない。 私としては以上のようなイメージで武烈天皇の生涯を考えているのだが、もし武烈天皇が60歳近くまで生きていたとしたら、もはや臣下たちに完全に愛想を尽かされ見放されてしまったのだろうと考えられる。「こんな天皇はイラネ!」で、代わりに継体天皇が担がれたことになる。 私のファンタジーでは武烈天皇は中央アジアあたりにいたので、他に天皇家の血筋を受け継ぐ男子もいないし、分家が日本にいるそうだからそっちへ行って仕えることにしようという段取りになったのだろうと思う。まだ生きていたにせよ亡くなったにせよ、武烈天皇の姉妹は分家を頼って日本にやって来たのである。 人気blogランキング ↑この記事が面白かった方、またはこのブログを応援してくれる方は、是非こちらをクリックしてください。 「p(^o^) 和の空間」の Window Shopping |
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