●俳人・上野章子



 一月十六日の朝日新聞の朝刊で上野章子氏がお亡くなりになられ
 た事を知った。前日十五日の夕刻、心不全、七九歳であった。
 昨年、章子氏の随筆集『佐介此頃』を読んで、俳誌「花鳥来」に
 読書案内の小文を書かせていただいたばかりで、章子氏を生き生
 きと身近に感じていたところであったので驚いた。同じ文を転載
 させていただく。

▼行間と向き合う『佐介此頃』上野章子著
                       あらきみほ

 『虚子の天地』(深見けん二著)を出版したときのこと。上野章
 子さんは、版元である私どもへ、直接ご注文のお電話をくださり、
 「句会のあとで配りたいので」と、荷の日時を指定なさった。
 その当日、「まだ着きませんが・・」とのお電話をいただいた。
 間に合うように宅急便で発送した旨のお返事をしたのだが、もし
 もの場合もあるので、「追跡調査をすぐにいたします」と答えた。
 上野章子さんは、「私も、同じ敷地に息子たちと住んでいるので、
 もしかしたらそちらに届いているかもしれません」と、おっしゃ
 ってくださり、すぐ後で、「届いておりました」と、また、ご自
 身でお電話をくださった。

 相手を責めるのではなくて、自分も先ず、振り返ってみる、これ
 は、なかなか出来ることではないと思った。

 私は、あの芭蕉と同じくらい遠くに感じている、あの高浜虚子の
 六女である上野章子さんと、お話しをしたことに感動し、このさ
 さやかなやりとりに又、感動していた。

 『佐介此頃』は、ケース入りで、上下巻の分冊となっていた。
 カット一つが箔押しされた、とてもシンプルな装丁である。
 このカットは夫泰が病院でお書きになった最後のものという。
 ページを開けると、白髪の上品な笑顔の章子氏のお写真と出逢っ
 た。この時、二年前の電話のお声とぴたっと重なった。

 読み進んでいくうちに、ふと見過ごしたり、やり過ごしたりする
 かも知れない、小さな心の動きの、エピソードがいっぱい詰まっ
 ている文章に、いつのまにか私の心も温かくなっていた。
 
 この書は、ホトトギスの有力俳人であり夫である、故上野泰氏の
 発刊した俳誌「春潮」を継いだ後、「佐介此頃」として書き溜め
 たもので、随筆集である。「佐介」は、章子氏の住んでいらっし
 ゃる地名の佐助でもあり、上野泰の第一句集『佐助』の名をいた
 だいたものとも思える。
 次のような事が、書かれている。
 
 昭和十一年、章子氏がまだ女学校の頃、父虚子とヨーロッパへ外
 遊したときのこと。

 昭和十七年、幼なじみの上野泰と結婚し、結婚後三日目に満州へ
 戻った軍人である泰を、追うように満州へ逢いに行き、そのまま
 共に暮らし始め、当時を思い出せば雪のように白く透きとおって
 いたという新婚生活のこと。

 昭和二十年、軍人である夫より一足先に、生後三か月のやせ細っ
 た長女美子を連れての母親として戦うような気持ちでの引揚げの
 旅。

 昭和四十七年、夫が亡くなる頃から、夫との思い出をなくさない
 ように、文は書き始められ、最初の頃は、読むのも辛いほど章子
 氏の悲しみが伝わってきた。

 やがて、泰氏を思う愛は変わらないのだが、泰氏をご自分の中へ
 取り込んで一つとなってしまったかのように、章子氏の文章は慈
 愛のあふれるものとなってゆく。

 上巻、下巻と合わせて五百ページを超える本であるが、少しも退
 屈しなかった。いつも父虚子、母いと、さらにホトトギスの俳人
 たちの大きな愛につつまれていた。兄弟姉妹は多く、なんとも美
 しい関係をつづけてこられてきた。姉の星野立子、高木晴子氏と
 の会話のやりとりは特に、はんなりとした、谷崎潤一郎の『細
 雪』の世界を思わせる。

 きっと、それぞれが俳句の世界を持っているからこそ、言葉使い
 の素敵な関係となっているのだろう。

 行間の多い文章は、すべてを言い尽くさない俳句に似ている。章
 子氏の文章は、人とも、庭の樹や花や草とも、犬や猫とも、また
 古い机や鏡とも心の交流は、同じくらい愛に満ちている。

  まだ、私は、心から納得出来てはいないが、「花鳥諷詠」は、
  よく生きて人生かけて到達できる、万物と自在に交流できる境
  地なのだろうかと考える。

 『佐介此頃』から、一文を紹介させていただくことにする。

   私もだから

 毎年頂く夕顔の苗を今年も頂いた。
 なよなよとした二つの苗を、私の小さい庭の垣に今年はさかせようと思
 った。
 咲いたのは朝顔であった。
 ワインカラーで白く縁どられ、直径十センチほどの花が日毎に花の数を
 増して行った。
 考えて見れば葉の形も例年のものとは違っていた。
 夕顔ではありません、私は朝顔です、と必死に咲いてくれているように
 私には見えて来た。
 私は朝顔があわれに思えて来た。
 毎朝その朝顔は私の朝食の相手になった。

 幼い頃、私は悲しい話を聞いたり、可哀相な本を読んだりするとすぐに
 涙をこぼした。
 大きくなって映画、芝居を見ても泣いた。
 結婚して生活に追われるようになってからはあまり泣かなくなった。
 病気がちの泰との生活に唯、一生懸命だったからかも知れない。
 しかし泰が亡くなり一人で十七年を経て来た。この頃また昔のように涙
 もろくなった。
 
 朝顔の花の大きさがこの頃だんだん小さくなった。
 色も褪せて来た。
 白い縁どりもなくなって来た。
 たった二つの苗から随分広く、のびのびとからんでいた片隅から、葉の
 色も黄色く枯れはじめた。
 
 ある人が私を鎌倉の駅で久しぶりに見かけたが随分髪が白くなった、と
 言っていたということを聞いた。

 今朝も朝顔の花は一段と小さく、色褪せているのが多くなった。
 夕べの雨のためか花びらの勢いもなかった。
 私は朝顔に、私もだから、と心の中で話し掛けた。

 何か涙が滲んで来たようであった。
                        (平成元年・十月)

▼略歴

  大正八年、鎌倉に生まれる。
  高濱虚子の六女。
  昭和十一年、フェリス女学校在学中の章子は父虚子と渡仏、ヨーロッ
   パを巡遊した。
  昭和十七年、虚子の俳句の弟子でもある上野泰と結婚。満州へ渡る。
  昭和二十年、終戦前に帰国、父母の疎開先の小諸に仮寓。
  昭和四十八年、夫上野泰の没後、俳誌「春潮」を受け継ぐ。
 
  句集『六女』『桜草』
  自註『上野章子集』
  随筆『子供達へ』『佐介此頃』

▼章子俳句

  福笹を置けば恵比寿も鯛も寝る
  蝶はまだ居りとんぼうはあきてをり

 『佐介此頃』より

  春愁や生まれし町に年重ね
  去年今年齢をしかと抱きをり

                  合掌      (み)



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