タンスのひきだしを整理していたら、隅っこから、筆箱がふたつ出てきた。ああ、ここにしまってたのか。
長女と二女、小学校時代の筆箱。
ふたりとも小学校の6年間、ひとつの筆箱を使いつづけたので、それは相当くたびれていたし、この先使うことはないとわかっていたが、捨てることができなかった。
こんどは、わたしの子ども時代のはなしだ。
わたしは、帖面でもほかの文房具でも、さいごまで使いきることのできない子どもだった。
新しい帖面を使いはじめるときには、わくわくした。
「さあ、さいごのページまで、使いきろう。字もていねいに書くぞ」
と、誓う。
それなのに……。
どうしても、それができなかった。帖面の半ばで「思っていたのとちがう」状態になる。つまり、急いで書くために字が乱れたり、勉強に飽きていたずら書きをしたり。
こうなると、もう帖面に対する興味がなくなり、そうなった帖面にひきずられて、勉強や宿題にも身が入らなくなる。
「よし、やりなおそう」
と、ある日決心する。
決心の裏付けとして、新しい帖面が必要になる。
「さあ、さいごのページまで、使いきろう。字もていねいに書くぞ」
その、くり返しだった。
果たせなかった自分の夢を、子どもに託すということは、思いもよらないことだ。子どもは子ども、わたしはわたしだ、とつねに思っている。
そう豪語する陰で、わたしは小さな夢を子どもに託したことがある。1冊の帖面、1つの筆箱を使いつづけるというのが、それ。
小学生になるとき、筆箱を手渡してやりながら、「ずっと使いつづけておくれね。できれば6年生まで」と、噛んで含めた。
その結果、長女と二女は、筆箱を使いきってくれたのだった。うれしかった。
現在、小学4年生の末の子どもも、筆箱4年めに突入。
「○ちゃんも、☆ちゃんも、しょっちゅう筆箱かえるんだよね。不思議」
とか言っている。
子どもたちが、たいして苦でもなさそうに、ひとつの筆箱を持ちつづけたり、1冊の帖面を使いきるのを眺めながら、わたしは、自分の子ども時代を思いだしてこそばゆくなる。
そうして……。
あの頃の分をとり返すためにも、モノをできるだけ長く使いたいと、思うのだ。
これが、なつかしい筆箱です。
末の子どもの、ただいま、活躍中の筆箱。
鉛筆は、手まわしの鉛筆けずりと「肥後守」を使って削っています。
短くなってきたら、サックを付けて……。
サックも付けられないほど小さくなった鉛筆は、桐の箱へ。
宝物のひとつです。