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カテゴリ:うふふ日記
ある日。
朝のうちに、わたし宛てにふたつ小包が届いた。ふたつはよく似た荷造りで、まるで……、まるできょうだいのようだ。わたしは、きょうだいを預かる心持ちだ。ひとりは北海道札幌市から、もうひとりは静岡県藤枝市からやってきた。 「よく来てくれたねえ」 ある日。 久しぶりに友だちに会う。Mちゃん。 長くわたしたちは同業だったが、Mちゃんは途中、占星術とタロット占いの勉強をはじめて、いまでは占い師でもある。 この日初めて、占い師のMちゃんの前に坐って「鑑定」してもらう。 「鑑(み)てほしいことはありますか?」 そう云われて考えたが、とくに思いつくことはなかったので、「わたしって、どんなでしょうか」と訊く。伝えたのは、生年月日のほか、生まれた場所と時間。 「一所けん命やってきたんだね。こうして読み解かせてもらうと、ふんちゃんが(ホロスコープの)チャートを使いきって、いまここにいるのがよくわかる」 このことばは、わたしを3年間くらい支えつづけるだろう。 Mちゃんが、貫禄(かんろく)のある、そしてすごく感じのいい占い師になっているのを見て、泣きそうになる。 ある日。 夜おそく帰ってきた長女を見たら、髪が短くなっていた。 「またわたしと、似たね。困ったね」 と、おかしな云い方をしながら、このあいだ届いた、きょうだいみたいなふたつの小包を思い出した、可笑しくなる。 「似てやしないでしょう。それに、似ていたって困ることはないでしょう」 と云う娘と、何となく、ちょっと踊る。 居間でくるくるまわって踊る。 ある日。 夕方、自転車の駐輪場で、「駐輪券」が見えなくなって、あわてる。 ちょっと前に「わたしの鞄のなかみはじつに落ちついたものである」と書いたのを思いだして、ひとり赤面す。でっかいトートバッグのなかに、頭と肩先を突っこむようにして、「駐輪券」を探す。 たっぷり3分探して、バッグについている中袋とバッグ本体とのあいだに落ちこんだ「それ」を発見した。 「あったー!」 と思わず叫ぶ。 叫んでしまいながら、何年か前、まだ自転車置き場が機械化されていなかった時代、係のおじさんにお世話になったことを思いだした。一度なんかは、自分がどこに自転車を停めたか忘れてしまい、いっしょに探してもらった。「何時ごろここへ停めにきたか思いだせれば、およその場所がわかる」とおじさんは云い、自転車はたちまちみつかったのだったなあ。 しみじみその時代をなつかしみながら、やっとのことで探し当てた「駐輪券」を機械に押しこんだ。 機械が云う。 「表示の金額をお支払いください」 「ね、券をなくしちゃったひとは、どうなるんですか?」 と訊く。 機械は答えない。 ある日。 このひと月、ほんとうに忙しかった。 なかなか手をつけられずに引き延ばしてきたことが、もうこれ以上は延ばせないところまできてしまった、抜き差しならぬ事態だった。まだ、10日あまり、これはつづくだろう。 仕事に励む一方、もひとつ励んだことがある。「抜き差しならぬ」事態というだけで日を送るのは口惜(くちお)しいし、そうでなくても、わたしが取り組んでいるのはじつにたのしい仕事である。その証しのためにも励みたかった、というわけだ。 さて、何を? 励んだと? このせわしなさのなか、わたしは平静でいたかった。 平静でいるのには、苦心も入用だった。すぐ焦りそうになるし、癇癪(かんしゃく!)を起こしそうになるからだ。みずから止めにかかったり、みずからを抱きとめたり。 けれど励んでいるうちに、「ある日」それは育てる感覚に変わった。すると、起きることがすべて、わたしを助けてくれているようにも思えてくるのだった。 小包のきょうだい。 左は、藤枝市からやってきてくれた新米 (友人の日曜農業)。 右は、札幌市からのゆりね(江別産)。 このきょうだいのおかげで、わたしは、 明るい気持ちでいられます。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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