「わからん。わからん。」
「こんなの習ってない。」
「これどうしたらいいん。
教えて。教えて。」
という声に対して
「『分からない。』
ってばかり言ってないで
ちょっとは自分で
考えてみたらどうなのよ。」
こういう会話は、よくされますし
自分もこういう状況に遭遇してきました。
宿題をしていない言い訳
かまってほしいときの言い訳
といった、愛情不足、承認不足を
訴えたものだったということも
もちろん多くありますが
分からないという子供の頭の中で
何がこの子には見えていて
何が見えていないのでしょうか?
「分からない」という子の
見えているものについては
『文章題のできる子』に書いたように
その子に絵を書かせたり
その子のカラダの使い方で
ある程度、分かってきます。
そして、『見えていないもの』ですが
誰しも、百%未知の状況では
当然、判断が遅くなり、鈍くなります。
逆に、百%分かっている状況なら
ストレスを感じることなく行動できます。
そして、そのときの状況判断が
正しければ正しいほど
より効率的に問題を解決できますよね。
だからこそ、分からない状況を少しずつ
より分かっている状況に近づけて
判断の精度を上げると
行動がしやすくなりますよね。
人は、知っているものしか解らないので
さっき教えたのに『分からない』とか
さっきとほぼ同じものなのに
『教えて』という場合には
その子は、さっきした体験が
『技』や『枠組み』といった
簡略化されたものとして
インプットされていなかったり
一つだけの法則で
一定の単元が進める
そんな風に考えていることが多いです。
何らかの概念や考え方を
自分なりに束ね、整理して
考えやすいもの
覚えやすいものにする
やったものを『技』という視点でみる
『技(フレームワーク)』という思考は
たくさんのことに応用できると思います。
技の組み合わせで
できていると捉えていくと
『どの技が知らないから
解らないと言っているのか?』
とその奥が見えてきますし
多くの問題に当たって、その技が増えることは
思考の引き出しが増えることになりますよね。
そして、どの技をマスターしていないから
『わからん。わからん。』
というかというところに視点を置くと
ソフトに優しく接することができ
その技の習得を繰り返すことで
自ら進んで学ぶ人、
主体的な人になってくる
そう思っています。