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カテゴリ:映画
「時に私たちは、自由のために闘わなければならない。」 1980年代初頭のポーランド、グダンスク。 レーニン造船所で電気工として働くレフ・ワレサ(ロベルト・ヴィェンツキェヴィチ)の家に、イタリアから女性ジャーナリスト、オリアナ・ファラチ(マリア・ロザリア・オマジオ)が取材に訪れる。 ワレサは、1970年12月の食料暴動の悲劇を語り始める……。 物価高騰の中、労働者の抗議行動を政府が武力鎮圧。 ワレサは両者に冷静になることを叫び、検挙された際、公安局に協力するという誓約書に署名を強いられる。 ワレサと妻ダヌタ(アグニェシュカ・グロホフスカ)は、アパートで質素な生活を送っていたが、この事件以降、歴史的転変期の真只中に深く関わり、ワレサは次第に類まれなカリスマ性と政治的感性を発揮していく。 恥ずかしながら、私はワレサという人をよく知らない。 しかし同じ時代を生きたものとして、知らないというのはいけないと思い映画で知ることにした。 ワレサが活躍した時代は、1970年代から1980年代。 私は、1970年の前半に結婚したが、その時には、洗濯機は全自動だった。 (当時は、全自動はまだ珍しかったけれど・・・。) しかし、ワレサの家の洗濯機の絞り機は、なんと手廻し!! ポーランドがいかに貧しい国だったかということが分かる。 ■ワレサの歴史■ *1980年8月、彼はレーニン造船所のストライキ指導部のトップに。 「連帯」委員長として自由と権利のために戦う反体制の象徴になる。 *1981年12月、戒厳令布告直後、ワレサは住宅から連れ去られ、1年間の軟禁生活を強いられる。 *1982年11月、ソ連のブレジネフ書記長が死去。 その直後、ワレサは軟禁から解放され、グダンスクで民衆の熱狂的な歓迎を受け、再び運動に身を投じていく。 *1983年10月、ノーベル平和賞を受賞、出国を許されないワレサに代わり、ダヌタがノルウェイで行われた授賞式に出席、スピーチを行った。 奥さん、美人。 *1989年、政権側と反体制である「連帯」、カトリック教会が参加した「円卓会議」で、ワレサたちは勝利する。 1989年11月9日、東西ベルリンの壁が崩壊。 その6日後、ワレサはアメリカ・ワシントンの米国議会に招かれ、スピーチを行う。 大統領なみの扱いを受けている。 彼のような指導者になるには、どうしたらいいのかとイタリアから女性ジャーナリストが聞くと 「腹をくくること」といっていた。 他には、 先見の明、ユーモアのセンス、何事にもこだわらない人柄と、バランス感覚、 人を魅了する演説などなど必要なことは多いだろう。 そしてなにより正義感!! 貧しいポーランドだけれど、人々は連帯してストライキをすることが出来た。 日本は、今、ストライキは、おろか組合すらない。 映画の中では、有名な「ワルシャワ労働歌」が流れなかったが、ストライキの時に歌わないのかな? ■ワルシャワ労働歌 VARSHAVIANKA ■ 【作詞】ヴァツワフ・シフィエンチツキ 【作曲】グルジシャノフスキー 【ロシア語訳詞】KRZHIZHANOVSKIJ GLEB MAKSIMILIANOVICH 【日本語訳詞】鹿地 亘 暴虐の雲 光をおおい 敵の嵐は 荒れくるう ひるまず進め 我らが友よ 敵の鉄鎖をうち砕け 自由の火柱輝かしく 頭上高く燃え立ちぬ 今や最後の闘いに 勝利の旗はひらめかん 起て はらからよ ゆけ闘いに 聖なる血にまみれよ 砦の上に我らが世界 築き固めよ勇ましく ■You tube■ ・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014.05.11 15:25:21
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