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私の【ほんとうにやりたいこと】への道過去の日記の内容をここにまとめました。------------------------------------------------------------ 私は高校時代、 「俺は理科系だろうな」と、 ただ、漠然とそう思う、何の目標もない男でした。 だから、あのことがなければ、私はきっと 関西で平凡なサラリーマンになっていたと思います。 あのこととは・・・ 高校卒業間際に、3人の祖父母がつぎつぎと入院しました。 母が看病をしていましたが、看病疲れで倒れました。 祖母は、私の卒業を待たずして亡くなりました。食道癌でした。 父方の祖父は胃ガン。母方の祖父は前立腺癌。 しかも、母方の祖父は痴呆を伴いました。 昼間は寝ているのですが、夜になると祖父ではなくなりました。 弟は中学3年、父は仕事を辞めるわけにはいきません。 当時、母方の祖父がいた病院は完全看護ではなかったので、 家政婦さんを雇うしかありませんでした。 しかし、そんなお金はありません。看病できるのは私だけでした。 私は昼間は高校へ通い、夜、病院で母方の祖父を看ました。 通っていた学校は進学校でしたので、大学受験はしました。 しかし、志望校には受かりませんでした。 浪人中、祖父の看病をしながら、少しずつ自分の目標が定まってきました。 私は、孫を孫と思わず話しかける、 祖父の話を聞いてあげました。 「あの~、病院の階段は極楽に通じとるのですか?」 「お爺ちゃんは、天国に行きたいんですか?」 「天国じゃのうて、極楽じゃよ」 ボケているのかいないのか、 よくわからないこともありましたが、 来る日も来る日も、祖父の話を聞いていました。 様々な出来事がありましたが、 その祖父も2年後に亡くなりました。 父方の祖父は、入退院を繰り返していました。 病状はよくなっていませんでした。 私は、当然のように医者になりたいという目標を掲げました。 しかし、私が高校を卒業した次の年から 共通一次試験がはじまっていました。 5教科7科目、国立の医学部しかねらえない私にとっては、 大きく立ちはだかる壁でした。 第一志望は国立の医学部。 第二志望は東京農大の現在の地域環境科学部としました。 どうして東京農大なのかは、多少曖昧なのですが、 演習林などの施設が東大に次ぐ充実度だったからだと記憶しています。 医者になるか山にこもるか、という選択でした。 結果は、第二志望しか合格できませんでした。 共通一次試験制度を導入した、当時の永井文部大臣を恨んだりもしましたが、 結果はすべて自らが生み出したものだと我に返りました。 仙人のような暮らしがしたい。 私は東京農大に通うことを決めました。 しかし、ふと魔が差したのです。 東京農大のある同じ小田急沿線に、映画の学校がありました。 私は本を読むことが好きでした。小学生の6年の時、図書クラブを作るほどでした。 そもそも、私が本好きになったのは、親戚のお兄ちゃんが、どっさりと本をくれたことがきっかけです。 児童文学全集や江戸川乱歩の少年探偵団シリーズ全集など、 様々なジャンルのものがありました。 しかし、一度も書いてみようなどとは思ったことがありませんでした。 私は、なぜかその映画の学校にも通ってみたいという衝動にかられました。 そこで、シナリオの勉強をしてみたい。 この思わぬ選択が、ライフワークへの道に通じていました。 私はその映画の学校に2年通うことにしました。 1年在学中、学院長がお亡くなりになり、後任に、作家の故遠藤周作さんが就任されました。 そして、遠藤先生の一番弟子のK氏に文章表現を2年学ばせて頂きました。 卒業後もお世話になっています。 また、脚本家の故大和屋竺氏に1年、シナリオについて教えて頂きました。 私は、物語を作るという作業やテクニックよりも以前に、 お二人の師匠に、人間とは何かを深く学ばせてもらったことが、 今の自分の身と血と骨と心になっていると思います。 そして、私は東京農大を中退しました。 山にこもろうという気持ちは消え失せていました。 女房との出会いも、この学校でした。 今から思うと、あの時ふと魔が差さなければ、女房とも娘とも息子とも、 現在の自分とも出会えなかったのです。 しかし、2年ほど女房とはつきあいましたが、分かれてしまいました。 卒業後、私は1年ほどアルバイト暮らしをしました。 そして、ある友人からTBSテレビの「クイズターピー」と言う番組で スタッフを募集していることを知り、試験を受けました。 80人ほど受験者はいたようですが、受かるのは一人。 試験中、こんな世界もあるんだなぁ、と 他人事のように感じたことを、今でも思い出します。 私は信じられませんでしたが、合格しました。 高校時代から、人間の暗い部分のみを見つめ、うまくかみ合っていない、やるせない思いが、 ようやくここで、人並みにたどり着いたという、そんな感じでした。 給料は低かったのですが、充実した新鮮な日々でした。 また、こんな世界があるんだなぁーという連続でもありました。 仕事は、クイズ問題の信憑性のチェックや作成、構成、雑用と何でもしました。 また、たくさんの構成作家さんにも出会いました。 私は構成作家への道をなんとなく考えるようになっていました。 そんな中、別れた彼女(現在の女房)とテレビ局の廊下で 何度か出くわしたりしました。彼女はドラマの美術の仕事をしていました。 ほぼ2年間、クイズダービーの仕事をさせてもらいながら、 私は次のことを考えていました。 それは、構成作家でこの業界で食っていくか、いなか・・・。 辛いこともありました。 私は元々明るい性格でした。 子ども時代は近所の子どもたちと一緒に遊んでいないと落ち着かないたちでした。 また、一人で遊んでいた記憶がありません。 しかし、私の性格は、看病していた時期の人間関係や、 そんな環境によって、次第に内向的になっていたのです。 感情を外に向けることへの違和感、罪悪感、うまく表現できませんが、 そんなものが後天的に身に付きかけていたのです。 そんな人間が、ポンと飛び込んだテレビ業界。 この業界には、そんな人間が安住する場所はありませんでした。 無理をして、私は表面的には明るく振る舞ったり、 その場の空気に合わせたりもしましたが、どこかでついて行けない自分がこう言いました。 「疲れるなぁ~。よけいなことにエネルギーをつこてるなぁ~。」 その当時の私は、そう考えることしか、 そう感じることしかまだできなかったのだと思います。 構成作家は十人十色。明るく軽く振る舞える人もいれば、 目だたない情熱家もおられます。 でも、あのときの私は、この業界ではストレスがたまると信じ込み、 この業界で仕事を探すことを断念したのです。 私がその業界にとどまらないことについて、まわりの人はもったいないと言いました。 なんと言っても「クイズダービー」の長い歴史の中で、 過去、私と同じ仕事をしておられた人は、だいたいが構成作家をしておられます。 私の前任者も現在売れている構成作家ですし、故景山民夫さんも大先輩です。 私が売れっ子の構成作家になれたかどうかは疑問ですし、才能があったかどうかも疑問です。 疑問と言うより、絶対に不可能だったと思います。 しかし、構成作家になれる、たぐいまれなチャンスだったことは確かです。 でも、私の直観はこうでした。 「何となくこの世界は、自分にあっていない、しっくりこないな」 私は、それに、正直に、従っただけなのです。 また、ものを書くとしたら「それは小説だろうな」という気持ちに、私自身が変わっていたからかも知れません。 自分の深く神聖なところに、それはポツンと置かれ、今も忘れてはいません。 手をつけるにはまだ早い、未熟な私には手に負えない。 でも書きたい。今は、死ぬまでにひとつ残せればと思っています。 そして、私は次のステップへと進みました。 それは、現在働いているグラフィックデザインの世界でした。何の経験もなく飛び込んだのです。 理由は単純です。本を読むことの次に、絵を描くことがすきだったからです。 私は30歳になっていました。 この年齢で、デザインの経験無しでの就職は致命的でした。 コピーライティングを売りこんだとしても、広告業界では完全なる未経験者でした。 そこで、私は求人広告に注目しました。求人広告の制作です。あのころの求人広告の需要は上り坂でした。 求人雑誌「Be-ing」の厚さは、今の倍以上あったと思います。 私は求人広告の代理店に絞って面接に出かけました。 そして、ある代理店に就職できたのです。 「Be-ing」や「とらばーゆ」の求人広告を作る日々が続きました。 5×5センチ四方の小さなスペースから2ページ見開きまでと、広告の枠は違いましたが、 デザインとコピーライティングの両方をこなしました。 デザインは、今ではすべてコンピュータで作成できますが、あのころはまだ切り貼りでした。 キャッチコピーをデザインするにしても、ワープロで印字して、それをコピー機で拡大縮小し、一字一字切って、 文字間隔を詰めてレイアウト用紙に貼っていく・・・という、 今では途方にくれそうな作業を、何の疑問もなくやっていました。 でも、すごく楽しかったのを覚えています。なぜなら結果がすぐに見える仕事だったからです。 それは、デザイン・コピーの善し悪しで、求人数が違うからです。 自分では会心のできだったのに、全く求人としての効果がなかったり、 こんなので大丈夫かいなと思っていたものが、 効果絶大で大勢の人を集めることができたりと、自分の成長度の確認にもなりました。 また、求人広告の合間に、会社案内のパンレットなどの仕事もこなしました。 そして、2年が経過しました。またまた、転機が訪れました。 私は、広告代理店時代に結婚しました。 あの映画の学校で出会った女房とです。 分かれていた時期も含めてですが、出会ってから12年が経過していました。 あのころ、今の仕事がライフワークだと思いこんでいました。 だから結婚する決意ができたのだと思います。 自分としては充実していた頃でした。 さて、転機とは、こうです。 勤めていた広告代理店の総務のT氏が独立する際、 一緒にやらないかと彼に誘われたのです。 彼は、つくばで広告企画デザインの会社を興す計画を立てていました。 私も、求人広告だけでは終わりたくないという気持ちがありましたので、 躊躇なく、次のステップにジャンプしました。 しかし、順風満帆にいかないものですね、人生は。 広告代理店時代の仕事とは違い、様々なジャンルの仕事を経験しました。 ブライダル関連が主でしたが、食品関連、回顧録、PRビデオの構成、 パチンコ屋のチラシ・ポスター、カブトムシの育て方テキスト、飲食店のメニュー、 そば屋の看板等など、種種雑多でした。 中でも印象に残っているのは、陸上競技で一世を風靡した、 中国の馬コーチ率いる馬軍団との仕事でした。 ひょんなことから馬軍団の所属する中国の体育学院とビジネス契約を結ぶことができたのです。 それは、陸上選手に限らず、全ての選手との契約でした。 クリアしなければいけない問題もありましたが、 たとえば、選手のCMへの出演依頼も、私がいた会社をとおさないといけないと言う、そんな契約です。 私も某大手スポーツメーカーと中国まで行き、体育学院の生徒たちと交流、取材をしたこともありました。 しかし、そこにきてドーピング問題が発覚したのです。 万事休すでした。出版の話、スポーツドリンクなどの商品化の話、テレビの特別番組の話、 様々な話がこれが理由でなくなりました。 ビッグビジネスの裾野から見上げた山は、確かに雄大で険しいものでしたが、 そこにいたこと、いられたことが貴重だったと、今、思ってなりません。 そして、その反動なのか、会社は少しずつ活力を失っていきました。 私の給与が1ヶ月遅れ、2ヶ月遅れ、ついに一銭も出なくなってしまったのです。 つくばの会社で働いているとき、私にある出会いがありました。 それは「算命学」という宿命学というか帝王学です。 源流は、約4000年前の中国大陸。 古代中国の人々は、人間を自然界の一部としてとらえ、 大自然の仕組みを分析することで、人間一人一人のことも理解できるのではないかと考えました。 それが万象学、風水学、算命学などの学問に発展したのです。 ですから算命学は、人間個人の過去・現在・未来のことはもちろん、社会の動向も予測することができます。 私はその手のことにあまり関心がありませんでしたが、 日本でも3本の指に入るという鑑定士に観てもらう機会に恵まれました。 今でもその方は、私のメンター的存在です。 鑑定中、少なくとも私の場合、過去・現在に関しては、全て見透かされているような思いでした。 「当たっています。」の一言でした。 私が鑑定士に言われたことで一番印象に残っているのは、 「あなたは福祉の仕事、人に心から奉仕する仕事が一番向いているんですがね」というものでした。 「そうですか、福祉関係ですか・・・」 私は「福祉」という言葉を心の隅に置きながら、転職する準備にかかりました。 もちろん、グラフィックデザイナー兼コピーライターの仕事を探しました。 30半ばの転職は厳しいものでしたが、 都内のあるデザイン・編集会社(現在の会社)に就職できました。 そこは、驚くほど忙しい会社でした。入社早々、大学の入学パンフの仕事を任されました。死にそうでした。 私の頭からは「福祉」という言葉が、消えかけてしまう程の忙しさでした。 いや、しばらく消えてしまうことになりました。 現在の会社に入社して約10年という月日がたちました。 その間に子どもたちが誕生しました。 長女が生まれたとき、私は彼女瞳の奥に、神様が見えたように思えました。 今もその気持ちは変わりませんし、今2歳の息子の瞳の奥にも、神様がすんでいると確信しています。 私の生き方は、この子どもたちによって変わりました。 子どもたちを育てていく内に、算命学で指摘された『福祉』という言葉を思い出させてくれました。 私は『福祉』という言葉に固定概念がありました。 体の不自由な人、身体に障害を持っている人、 つまり救済を求めている人たちのために既存の職業・業種につかなければ、 それは福祉を全うしたことにはならないという概念です。 しかし『福祉』とは『幸福』なのです。 私は自分なりに『福祉』=『幸福』なのだと考えてみました。 昨年「親子禅問答」というサイトを立ち上げたのは、そのスタートラインでした。 そして、しばらくしてから私のサイトが、ネット上のあるグループフォーラムに紹介されているのを知ったのです。 それは「親子禅問答」というサイトが『コーチング』の参考になりますよというものでした。 『コーチング』? 「なんじゃそれは。」が、私の第一声でした。 そして、それが、産声でした。 『コーチング』を簡潔に言うと、 「効果的な質問を駆使し、相手の目標達成を サポートし、行動へと促すコミュニケーションスキル」です。 また、コーチングを行うコーチとは、 「相手が必要とする答えを、教えてあげるのではなく、 すでに相手の中にあるという前提で、情熱をもって接し 心から耳を傾け、引き出すことに専念してくれる人」 なのです。 それにコーチとは、 コンサルタントやカウンセラーではありません。 医学で例えるならば、 コンサルタントは西洋医学の分野であり、コーチは東洋医学の範疇と言えます。 西洋医学は悪い部分を薬や手術で取りのぞく対処療法ですが、 東洋医学はもともと備わっている自己治癒力を引き出す、そんな感じです。 私は、これを子育てに利用できないかと模索する中で、 すでに実際、子育てコーチングなる分野があることを知りました。 そして、早速、私はその勉強をはじめたのです。 子どもは、大人になるための成長過程にあるため、 100%コーチングが機能するかというとそうではありません。 それは、コーチングとティーチングが必要だと言うことです。 しかし、この2つのバランスをしっかりと調節することによって、大きな効果は得られるのも事実なのです。 私は「コーチング」というコミュニケーションスキルに、 大いなる興味と期待と情熱を感じつつ、しかもワクワクする自分を発見しました。 コーチングしているときの自分、されているときの自分。 どのようにコーチングすればよいかと考えている自分、 コーチングされていて新たな自分を発見できた自分。 もしかしたら、私の天職は「コーチ」? そして再び、算命学で私の本質を確認したのです。 『福祉』というキーワードと『コーチ』との関係。 すると、過去に言われていたにもかかわらず、見落としていた重要な本質が、明らかになりました。 算命学で言う私の本質は、ほんの一部ですが、こんな感じです。 ◎何事に付けても奉仕的な精神世界を形成して、 長い時間をかけて人心を魅了し、引きつける能力を持っている。 ◎才能は、奉仕を旨とする世界で大きく伸長し、 人間同士の交流の中で活かされる。 ◎愛情、奉仕、財といったことに才能は発揮される。 ◎知恵や伝統を目的としたことにも才能は活かされ、 物事を人に教授したり、人を育てるなどの世界でも大いに活躍できる。 そして、何事においても個人的な意見の伝達を目的とすることに対して、それらは活かされる。 この個人的な意見の伝達とは、言い換えれば、直に人と接して行われる仕事のことをさします。 人によっては、直接的ではなく、間接的な仕事もあるわけです。 たとえば、小説家は、本という媒体を使って間接的に人に愛や喜びを与えていることになります。 ですから、私の場合、小説家になれるかどうか以前に、 小説家では満足できない、ワクワクしないということになります。 デザインの仕事もそうです。デザインというものを介して私を表現しているわけですから、 私の心・精神は満たされなかったということになります。 以上のように、私は25年という長い歳月を経て、 ようやく腑に落ちたのです。すとんと何かが収まった様な、 そんな爽快感でした。 そして、私のライフワークは何か、覚悟すべきことは何かが、はっきりと見えてきたのです。 私は、覚悟を決めました。 覚悟という言葉は、すごく重い。 さすがに2人の子どもと女房がいますので、重いわけです。 しかし、私は来年2005年3月から現職を辞して独立し、 ライフワークの第一歩を踏み出す覚悟を決めました。 私のライフワークは、コーチという私を介して、 人々に幸せになってもらうことです。 人々とは、大人も子どもも含めて全ての人間です。 そして、問題はコーチングというコミュニケーションスキルを介して何を実践していくかです。 コーチングで子育て・教育に貢献する、それも私にとってのライフワークのひとつです。 しかし、子育ての画期的な方法を提供できたとしても、 親自身に、心のゆとりや、仕事や生き方そのものにワクワク感がなければ、 子育てが重荷になったり、ストレスに感じたりしてしまいます。 まさに、かつての私が子育てをしていて感じたことです。 うまく親と子の歯車がかみ合わないという、そんな感じです。 ですから、子育ての方法論の一辺倒だと、片手落ちではないかと気づいたのです。 子どもの幸せと同時に、親御さんの幸せも実現する。 その2つが同時に実現できたら、こんなに幸せなことはありません。 私は、コーチングと算命学を融合した方法で、 お父さん・お母さん、 そして将来、お父さん・お母さんになられる方々に、 天職、ライフワーク、生きがいを見つけてもらうお手伝いをしていきたいと決心しました。 単なる目先の願望や希望の達成ではなく、 『あなたはこの世界に何をするために生まれてきたのか』 『あなたがこの世界に生まれてきたことの意味は何なのか』 『この世界はあなたに何を求めているのか』 を知り、それを実現しながら生きて欲しいと思っています。 時間と根気が必要かも知れませんが、 自分一人でもライフワークは探せるかもしれません。 しかし、実際、私が天職・ライフワークを求めて、 それを見い出すまでに費やした月日は、なんと20歳から45歳までの25年間です。 算命学に出会ってからもすでに10年が経過しています。 少なくとも10年前に、今の私のようなコーチに出会えていたならば、 もっと早くに今の自分がそこに存在したと思ってなりません。 そして、もし算命学がなければ、私はコーチを天職にする決心が、 いまだについていなかったと思います。 本当にこれで良いのかという疑いと不安にさいなまれながら、 何の確信もなく、怖々と残りの人生を送っていたに違いありません。 算命学では『子どもの運命は18歳までは親の責任』なのだそうです。 言い換えれば、親や回りの大人たちの育て方一つで、子どもの運命は変わるということです。 大人同様、算命学によって子どもの本質はわかります。 たとえば、 『この子はものを観る目が人と違う』というところが、算命学で出ていたとします。 そして、実際そうだったとします。 それを知らずにいると、この子は人と違うからおかしいと親は矯正しようとします。 学校でもいじめられる対象になるかも知れません。 しかし、前もってそれを知っていれば、子どもとの接し方は違ってきます。 観る目が人と違うという特質を活かせる【何か】を一緒に探してやれば、 思わぬ方向で開花する可能性もあります。 それ以上に、この子はこういう子どもなんだとわかっていることで、 お父さん、お母さんの動揺がなくなるのです。 これは、知っているのと知らないのとでは、大きな違いを産みます。 コーチングという比較的新しいコミュニケーションスキルと、 算命学という歴史ある人間学・運命学の知恵の結晶との組み合わせによって、 次世代を土台から育てていきたいと思っております。 お父さん、お母さんのため、そして子どもたちのために、 私はこれから生きていきます。 |