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義母の死 母の文(不死鳥はいまもなおより)昭和56年記 養母は生来勝気で我侭な人であったが、父の他界とともに、急に低下しはじめた心身の機能は老人ボケの症状を発し、症状も日増しに強くなっていった。 私は勤務と看護の両方で大変であった。 母の晩年は誰ひとり、親戚の人も訪ねててこ来ず、寂しい終末期であった。 心臓発作で二月の寒い朝逝った。 私は夫と結婚する事で、養家の後継者としての資格を降りたあと、両親の期待は孫である 私の長男克敏に跡継ぎの望みをかけていた。 長男は小学校の頃、祖父の願いで養家の姓を名乗らせたこともあったが、父親の遺族年金 給付のこともあり、また実の父の姓に戻した経過もある。 長男の成長に伴い、彼の気持ちはっきりしていた。可愛がってくれた祖父母ではあるが、その姓を継ぐ気は全くなかった。 ここで養家は廃嫡となり 養女である私に対する、義父親戚一同から憤怒と反感は大きかった。 当時は家の継続を重んじる時代であり、私は不義理呼ばわりされ、攻められその苦しさは食事も喉を通らない日々であった。 私は、今も養父母に対する親不孝を 申し分けないと思う気持ちで一杯である。
息子たちの進学 義父の死後受けた諸々の痛手から立ち直る暇もなく、息子たちの進学が待ち構えていた。 長男は自分で進学コースを決めていたが、家庭の経済状態を考えて 受け持ち教師には就職希望と書いた書類を提出していたようである。 驚いた担任の先生は、我が家に来て是非「お母さんもたいへんでしょうが。もったいない,是非彼を進学をさせてやってください」と頼みに来てくださった。 私は経済的にとても無理と思いながらもケセラセラで行こうと心に決め、「受けるだけ受けてみなさいと、長男に言い渡した。 長男が見事、東京学芸大学書道家に合格した時は、嬉しいやら困惑するやらであった。 その2年後、次男は高専の熊本電波高校に入学し、寮生活のため家を離れ、私は義母と二人暮らしとなり、仕送りの捻出に懸命の日が続いた。 その頃の私の給料は月12000円、息子二人への仕送りは月30000円ぐらいはかかった。息子のオーバーなど衣類もすべて質流れ品でまかなった。 少量だがまとめて来る、遺族扶養料を公益質屋にいれて低金利融資を受け、その月その月をなんとか過ごす毎日であった。 やけバナナ 母と私はいつも芋粥をすすり、職場での昼食は焼き芋でしのいだ。 今は高くなった焼き芋はその頃一番安い食べ物であった。 逆に今安くなっているバナナは、その頃は高値の花で私たち貧乏人にはめったに口にはいらない果物だった。 私は、金繰りに無我夢中の日々の中、やり場のない悲しみや焦燥感に陥ると、大決心をしてバナナを買って夢中で食べたものである。 ヤケ酒ではなく、やけバナナである。 甘いバナナが口に広がるときの満足感、優越感、解放感はその時の落ち込み状態を救ってくれた。 今もバナナを見ると、その頃の苦労を思い出す。 ![]() ・・・・・・・・・・・・・・ 道子のパソコン水彩画三昧
戦後「父の死、そして倒産」 父は、もちまえの侠気と見栄っ張りの性格が禍わいして、商売の方も外見はとかく派手にやっているようであったが、中味は決して楽ではなかった。 戦死した夫の初めての遺族公務扶助料5万円を、父は店のために手をこまねいて待っている状態であった。 とはいえ、実の子を持てなかった父にとって、二人の男孫の成長は唯一の生甲斐であり、将来にかける期待も大きいものだった。 よく「俺は100歳まで生きるぞ」と豪語していた父であったのに、突如襲ってきた「舞踏病」という難病に襲われ、65歳という若年であっけなく他界してしまった。 昭和30年9月26日の朝だった。 父の死により判明したことは、倒産寸前の自転車店の経営状態と150万円の借金であった。 当時としては大きな金額であった。 人吉市内では父の豪快な性格で繁盛していた自転車商店であったが、 上得意であった真向いの郵便局が新築転居して行ったあとは、すっかり商売はがた落ちとなってしまった。 最盛期に6人もいた男の店員は二人に減ってしまった。 母のほうは、父と結婚後、家で長い間 お針の先生をやっていて、お店のことにはいっさい関心のない人であった。 私はその頃、父の稼業を好きでもなかったし、自分たちの自立を考え 福祉事務所の母子相談員という職に非常勤の形で働いていた。 そこに父の死である。父の残した厄介な問題を一身に背負う運命が一挙におしよせてきたのである。 一時はこの始末をどこから、どう手をつけていいのか判らず、2階に駆け上がって大声で泣き明かしたことも幾夜かあった。 結局は家屋敷を抵当に入れることで、借金の返済処理を取り、店舗整理に当たっては、全商品の返品、その他で一応その処理は終わることになったが、その後の生活にも大きな負担となった。 現実の厳しさを身をもって体験させられ私は、初めてここで大人となり、徐々に生きる術を覚え、成長することができた気がする。 今振り返ってみると、よくぞ越した山坂であったとしみじみと思い出だす。 ![]() ・道子のパソコン水彩画三昧」/b>
義母の文 不死鳥はいまもなお 地を蹴りて 隼は空に征き遂に帰らず 南溟の虚空高く 雄魂は神と帰したり 己の死灰の中から甦がえり 飛び立つという不死鳥のように その英魂から生まれ 羽ばたく幾万の護国の隼の あることを信じよう 死せず 荒鷲は死せず この詩は夫の日記帳に記されてあった。 戦況日増しに苛烈となって、毎日飛び立って征く僚機の将兵たちも遂に帰らず、 悲痛な思いでこの詩を書いたのだろう。 そして、やがて夫も星雲告げる南溟の空へ逸る心を押さえ切れず、自ら戦地征きを乞い 勇躍飛び立って征ったまま、愛機とともに帰らぬ人となった。 世は悲しい死の現実を見ないままに、37年の歳月が流れ、平和日本の繁栄は目覚ましいばかりである。 その布石を敷いた英霊たちの死は尊く、その英魂は今もなお護国の神と化して、平和祖国を守り、不死鳥となった隼たちは靖国の森にその羽を鎮めながらも、霊魂の翼は悠久不変の羽ばたきを続けて行くに違いないと思う。 悠久平和のために、祖国日本と子子孫孫のために守れかしと祈ってやまない。 ・・・・・・ ![]() 人吉五日町の母の実家で 母27歳 長男克敏3歳1か月 弟1歳半 道子の文 ちなみに、私たち夫婦二人とも父をこの戦争で亡くした戦争遺児である。が、母と同じに靖国神社に父が祀られているとは思わない。思いは複雑である。 未亡人たちは戦死した夫はせめて英霊と祀ってもらわないと浮かばれないと思い、夫の死を称えること、「夫は国の礎になった。」と思うことで、それからの人生を生きて抜いてきたのであろう。 しかし、 私の母は、満州の民間人で召集され、ロシア兵に囲まれ玉砕した父のことを「お父さんの死は無駄死にだった」と言いはなち、靖国などに祭ってもらいたくないと言った。 今、私たち夫婦も思うところあり、靖国神社参拝をする気になれないでいる。 靖国には兵士を暗示にかけ、恍惚とさせ、戦地に担ぎ出す、うさんくささを感じる。 視野を広く持ち、近代史の観点から、この戦争を問い直し合わせて、自国以外のアジアの何百万人もの犠牲を考えると、美しい戦死と簡単にいえるのかと、その思いは複雑である。
戦死の状況 (中川大尉の手記より) ( 10月28日は義父の命日であった) 田端編隊は、更に下方の敵を追尾している。その上空にグラマン編隊がのしかかるように突っ「危ない離脱せよ」と電話機に怒鳴るが通じない。 敵は川村機の追尾態勢に入っている。 敵の一連射が火を吹く。 「危ない!」と叫ぶ。射撃しているときは、一番い被写体だ。 残念、川村機は白煙に包まれた。 吾にも新手グラマンが上空から突っ込んでくる。 こちらは離脱以外手がない。 垂直降下で雲中に突っ込む。 雲下で西へ無線通じず指揮できなくて残念だ。 この日の戦闘で川村中尉、柏沼少尉、清野軍曹、関曹長を失う。痛恨の限りだ。 10月28日、昨日の仇をと「レイテ」に敵を求めて一中隊,二中隊計8機、4000メートルで「オルタワ」上空に向う。 2機づつ4機のグラマン編隊南進中を前方下方に発見。一斉に後方より突っ込む。 田端編隊も別の編隊に突っ込んでいる。 吾もグラマンの戦闘隊に照準を合わせ、射距離を詰める。 13粍、20粍4門を発射.一条の黒煙をひく離脱時の敵を求め垂直攻撃に移る。 敵も必死だ。射距離に入るが急旋回する。 一連射急上昇に移る。 田端隊も追尾攻撃に入っている。 3撃後上昇しながら策敵する。 「いた」別の4機が1000メートル上空をこちらに向かっている。 2機は田端編隊に突っ込んでくる。 吾は急上昇旋回しながら急下降に移る。 田端編隊の後方にグラマンが射撃態勢に入っている。 「危ない。回避せよ」と叫べど、無線は全然だめだ。 田端機は白煙を出して「レイテ」の山中に突っ込んでいく残念だ。 いつの間にか敵はP38機が新手として戦斗加入している。 今日も、田端大尉、中園中尉、石橋少尉,帰らず無念。 ![]() ・・・・・・・・・・・ ・道子のパソコン水彩画三昧」/b>
飛行第200戦隊慨史(1部抜粋) ![]() 昭和19年10月12日 明飛200戦隊 出陣式 昭和19年1月12日、明野飛行師団で編成され、飛行機、飛行機操縦者は通常の2個戦隊分、80機を配当し、6個中隊編成という特異な戦闘隊であった。 戦闘隊には元24戦隊長の高橋武中佐が, 副戦隊帳には25戦隊長として中国戦線で名をはせた坂川敏雄少佐が任命された。 明野の精鋭をすぐった決戦部隊と期待され、飛行機(42線)も最優先で供給されたが、中隊長6名(、中川、田端、深見、宮丸、河野、桑原)のうち3名は他機種からお転科者で若干の幹部を除いて実践経験者はすくなかった。 小飛13期生、明野Z過程を終了したばかりの、航士57期生の未熟者も相当含まれていた。 しかも、編成直後に米軍のフリピン進攻が開始され、42戦の未修教育を終わるのがやっとで、戦隊としての訓練はほとんど行われないまま、フイリピン島進出を下命された。 そこで、戦隊の半分(第1~第4隊)を先行させることになり、10月10日、高橋戦隊長は約50機を率いて明野を出發したが、テスト飛行を省略したため、離陸直後に戻る機もあり、航空総攻撃の前日にあたる23日、ルソン島のポーラック基地に到着したのはたった12機にすぎなかった。 翌24日に35機が追及してきたので、25日午後、戦隊主力はネグロ島サラビア基地に前進し、第30戦闘飛行団長青木武少将(当時の明野飛行学校長)の指揮下に入った。 尚、後発隊(第5~第6隊)は佐川少佐が率いて、10月30日に21機でクラークに到着、主力に追及してサラビアへ前進していった。 富永四航軍司令官は二〇〇戦隊に大きな期待をかけ「皇戦隊・すめらお戦隊」と命名した。しかし、10月26日以降レイテ湾制空を中心とする戦隊の実績は期待にそうものではなかった。 すなわち、42戦隊の故障続発と飛行場不良による事故機が多く、10月末までに撃墜7に対して,11機が自爆未帰還となり、稼働機は9機にすぎない状況であった。 11月に入ってから、戦隊はネグロス島に展開した22戦隊と合流した。 レイテ制空,夕弾によるタクロバン飛行場の夜襲、バコロド地区の防空戦闘などに当たったが 兵力減少のため、天満用法にならざるを得ず。戦果が上がらないうえ、損害は多きかった
夫の戦死 (義母の手記・不死鳥はいまもなお より) あの日、飛び立っていった夫からはなんの連絡もなく、毎日子供を背負って伊勢神宮に日参しているうち師走をむかえる頃になった 不気味なB19の爆撃機が、明野の上空にその姿を見せ始め、人々の不安が日増しに濃くなっていった。 郷里の父がこのような事態を心配して、一刻も早くの帰郷を勧められ、夫の身を案じながらも明野を引き上げることにした。 年が明けて、春がきて、青葉の季節を迎えても、夫の消息は依然としてわからず、再三、問い合わせるが回答は決まって「未帰還」というだけの返事に焦燥の思いは日一日と深まっていった。 五月五日、戦争中とはいえ、父が孫たちのために、中庭に鯉のぼりを立て、ささやかな端午の節句を祝ってくれた。 孫の自慢話に目を細めながら「これで、父親さえ無事に帰ってきてくれたら」とつぶやく父の前に一枚のはがきが渡された。 「すぐるレイテの激戦地におかれては、去る12月28日、ご主人田端優中尉殿には名誉の御戦死・・」と淡々と書かれた数行の文字を、自分の目を疑いながら、幾度も読み返した。 どのくらいの時間が経ったのか、私は放心状態のまま、畳に座り込んでしまっていた。 父は庭先に立ち、空を仰ぎ、拳で涙をふいていたようである。母は黙り込んで部屋の片隅にうずくまっていた。 子供たちは気配を察してか、私の顔を覗き込んで、今にも泣きそうな顔をしていた。 涙が乾くまでにはかなりの時間が必要だったが、幼い子どもたちのために歯を喰いしばって立ち上がった。 長男3歳1か月、次男1歳6か月、最も父恋しいときであった。 荒海の 海の向こうに春遠く 母子出船の旅路やすかれ ![]() ・・・・・・ ・道子のパソコン水彩画三昧」/b>
いよいよ出撃 義母の文(不死鳥はいまもなお より) かねてこの日は覚悟はしていたものの、いつもの通りの時間に帰った来た夫から 「おい明日出発だぞ」と 出撃命令を聞かされた瞬間 私は思わずうつむいてしまった。 視力もまだ完治したとはいえないのに。しかし旺盛な責任感と刻々と戦雲せまる戦場に思いは飛び、わが身の障害などかまっておられず学生の特訓に意気を燃やしていた夫自らも出撃する事になったのだ。 出撃前日の夕食が終わると、夫はどんな心境であったのか、釣竿をさげ「ちょっと釣ってくる」と自転車で出て行った。 わたしは子供を寝かしつけたあと落ち着かない気持ちで夫の帰りを待った。 待てど待てど夫は帰らず、やっと夜明け前に獲物の小鯛を2匹さげて上機嫌で帰ってきた。私は夫の行動に半ば腹立ちさえ覚えた。 その後夫は悠々と睡眠をむさぼると朝食の膳についた。釣ってきた小鯛が朝食の膳を飾った。 いよいよ自宅を出るとき「子供を大事にしろ」「必ず帰ってくるからこの地を離れるな」と淡淡と言い残し出かけていった。 11時の出発を前に私も子供を背負って学校へ見送りにいった。 すでに校庭は見送りの人で一杯であった。すでに整列した飛行機はエンジンのうなりをあげていた。夫の姿を探すのが必死だった。学校方の好意で指された方向に夫らしい上半身が見えた。 航空眼鏡と首に巻いた白いマフラーが今も目に浮かぶ。いよいよ出発、夫の機が先頭で飛び立った。背のわが子に、「あれがお父ちゃんよ」と呼びかけた。 瞬く間に数10機が飛び立ち、見事な編隊を組みながら学校の上空を三回旋回して紺碧の空に向かって消えていった。 涙が後から後から流れた。大空に向かって手を合わせながら、自宅までの一直線を脱力状態で帰った。 昭和19年10月19日 快晴の日だった。 いたつきの身をも忘れてひたすらに 飛び立つ日をぞ 願いし君なり ![]() ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 道子のメインHP
明野飛行学校時代 義母の文(不死鳥はいまもなお より) 昭和18年年12月1日付きにて、三重県明野飛行学校へ転勤。飛行学校の周辺はその頃は「明野が原」とよばれ、一面のススキの原で、農家が何軒か点在していた。 住居は学校が用意してくれた 明野駅に近い雑貨屋の離れに住むことになった。その頃から戦局は日増しに楽観できない状態になっていた。 パイロットとしての夫の任務はいよいよ忙しくなり、学生たちの特訓は日毎夜毎展開され訓練中の事故もかなりでたようであった。その都度神経を痛め暗い表情で帰って来たものである。 食料事情もますます困難となる一方であった。まれに肉の配給があっても硬く石油臭いもので、なんとか疲れて帰ってくる夫にたんぱく質を食べさせようと、料理法に苦労したものである。 その頃は卵一個手に入れるも至難な時代だった。もうお金ではものが買えなくなっていた。 お百姓さまさまの時代だったので、農家一軒一軒に頭を下げ卵を求めた。その代償は物であった。実家が送ってくれたお茶、椎茸、衣類などが卵に変わった。子供を背負っての農家周りであったが、一生懸命で惨めさは感じなかった。 「目が見えない」 ある朝夫は朝食前に広げた朝刊を前に「おれは目がみえない」と突然叫んだ。わたしはただ事でないことを直感した。 しばらく学校を休むように勧めたが聞かず、迎えを頼み出勤していった。しかし学校長から自宅療養を命令された。 しばらく自宅から通院し療養したが気もそぞろであった、医者からも入院をすすめられたが、戦局のことを思いじっとしておられず学校勤務を再開した。医者の診断は栄養不足と心身の過労だろうということであった。 夫は一旦こうと決めたら、梃でも動かない強情な面があった、目はパイロットにとって致命傷なので、私は心配でならなかった。新聞は毎朝私が読んできかせた。 こんな体なのに夫は毎日飛行場に立って、学生達に「撃ちて止まん」の特訓をし、その心意気を自ら示していた。 そして、夫は航空本部へ自ら志願し、戦地派遣を望んだ。 夫の強靭な精神は軍人魂を発揮できたのではあったが、完全な体の状態ではなかったのにと悔しさは残り 、夫の短い人生を愛しくおもう。
長男克敏2歳 小郡での日々 義母の文(不死鳥はいまもなおより)
西部軍司令部兼務の便をはかって、福岡県浅倉郡小郡という町へ引っ越すことになった。住居は東京へ出て留守だという某工学博士の留守宅を借りることになった。 驚くばかりに広大な屋敷は、冠抜戸構えの門をくぐると玄関までの距離が100メートルもあった。その屋敷の中に小作人たちの畑が広がり、裏庭は鬱蒼と茂る大木の樹林で、昼間でも暗く不気味な雰囲気の屋敷であった。 その頃、日本国内の状況もだんだんと緊迫する中、日常の物資も緊急の波が押し寄せて来ていた。 そうした日常の心労と食料事情から私は急性肋膜炎を患ってしまった。夫は私の発病がわかると、病気に効くときいて、夜になって近所の泥田へでかけて、やがて前進泥んこの姿で1匹の鯉をつかまえて帰ってきた。 夫は直ちにその鯉の頭を切り落として、滴る生き血を杯に受け、その血を無理に私に飲ませてくれた。私は夫の厚意が涙のでるほどありがたくうれしかった。 しかし、田舎の両親の勧めで私はしばらく実家で療養することになった。 3ヶ月ほどして帰ると、夫の浮気が発覚。寝ていた長男を奪いあって派手な夫婦喧嘩を展開することになった。そのころの軍人は相当にもてたのである。結局、私自身の留守したことを悔い詫びることしかなかった。笑い話である。 夫の愛情に支えられ、私の健康をとり戻し、この年18年11月25日 一ヶ月早い早産で次男を出産した。小さい小さい赤子であった。 生憎、夫は佐賀に出張中で、当時私の家に寄宿して洋裁学校に通っていた夫の姪が、夜中、寒さのなか産婆さんを呼びに走ってくれたくれたことを、今も感謝している。 それから間もなく、2歳になった長男は人吉の実家の祖母に手をひかれ人吉で暮らすことになった。最初の男の孫は三浦家で育てると、なかば強引に連れていってしまった。 今思うと、1年後には父の戦死に遭うのであるから、そのままずっと親子4人で暮らすべきだったと、心が痛む。長男も次男も父の思い出はなにひとつない。 ・・・・・・・・・・・・道子のパソコン水彩画三昧 │<< 前のページへ │一覧 │ 一番上に戻る │ |