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  新 つれづれ日記     

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2009年06月28日
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母との別れ

私が1981年に「母の夢は果てなく明日に」を書いてから4年後母は亡くなった。75歳だった。

上京してからの母は弟の家を拠点とし、私の家にも来て一か月ぐらいすごすこともあった。
母がたまたま病院の一時帰宅で私の家に来ていた時、脳梗塞発作をおこし倒れた。

あきる野市の病院に緊急入院し、10日たらずで帰らぬ人となった。
偶然ではあったが私に最後を看させてくれたことを母に感謝する思いであった。
病室に、なるだけ家族が詰めているように病院から言われた。
夫や姑母、私の子どもたちもよく協力してくれた。

最晩年の3年間は東京近郊に住む弟夫婦が新築し2階に母の部屋を作って母を引き取ってくれた。
母の部屋はお天気のいい日は遠くに富士山の見える快適な部屋であった。
次男の弟夫婦が 同居に踏み切ってくれたことに感謝している。
若かった弟の嫁さんもそれなりに大変だったろうと思う。

長兄は長い外国勤務もあり母の面倒をみることはなかった。
しかし、母の長男に対する愛は特別であった。

気丈な母は兄が渡欧する時
「もしもお母さんに なにかあっても、わざわざ仕事をおいて帰国することはないよ」と言ったそうである。
しかし野口英世の母と同じように「帰ってけれ!帰ってけれ!」と本当は最後に兄に会いたかたのだとおもう。じっと我慢して言わなかったけれど。

兄は母に直接の孝行はしなかったけれど、世間的には出世をしたから、母を満足させ別の意味で親孝行したのではないだろうか。
兄は最後は文化庁派遣の日本国公使としてドイツ日本大使館に勤務し、ケルン日本文化会館の館長を勤めた。

弟も大手新聞社に勤め、定年退職後は自宅で税理士事務所を開いている。 母が懸命に育て、大学教育をした二人の息子は 母の期待に応えて努力し、東京で世界で仕事をし、頑張ったといえるのではないだろうか。


しかし、上京した母の最晩年が幸せだったといえば、それはそうでなかったと私は思う。
現実に年老いた母は、もう「夢は果てなく」というわけにはいかなかった。

気楽に方言で話す茶飲み友達もいず、ただの年老いた老婆になり、
築いてきた人生観や価値観や誇りをすこしずつ譲歩していかねばならなかった。
都会での生活は母にとってそれなりに大変だったと思う。


可愛い孫娘を自分の布団に抱き入れて眠るという至福の時や、
家族と囲む食卓の楽しさや、在京の人吉の親戚会に参加する楽しみも得た。
疎遠だった岐阜の実の妹とも時々会い交流するがこともできた。

しかし、今思うに、母は体さえ元気なら、誇り高く一人住まいを選ぶ人だったと思う。

とうとう肉体的、精神的限界が来て母は入院することが多くなった。私も五日市から川越の母の病室に車でよく通った。
夕方になり病院から我が家に急ぐ時のあの国道16号線の夕暮れの眺めを、今もベットの母の姿と共に切なく思い出す。

病院側から長い白髪を切れといわれて母が断髪を決心した日、
初めてオムツになった日、
「お母さは幾つ?」との問いに恥ずかしそうに「18になりました」と答えた日。
会えない兄のことを尋ねた日、ベットに正座し淋しげに一人ぼんやり窓を眺めていた日。
「美味しいウナギを少しだけ食べたい」と言った日
その時々の母の姿を愛しく切なく思いだす。

誇り高く毅然と自分の価値観を持っていた母、オシャレに心をくばり、美しい人だった。
100人の人の上にたち采配し、溌剌と仕事をこなした母、
そして『人にして貰うより、人にし与えることが好きだった母が、すこしずつ諦め、自分を納得させていった過程は、見ている私にも辛く切ないものであった。

母は人間が老いていくことの現実と悲しさを私に全部見せてくれた。
いつか私にも来るであろう老いの姿を。

最後の発作の日「病院にはもう入れないでくれ」とわたしにすがった母だったのに・・

あのとき母の願いを聞き入れ、最期を自宅で看取ってやれなかったかと、今も後悔する。

何故 もっと母に優しくしてやれなかったか。 
何故「そうだ、そうだ」と母のいいぶんを認めてやれなかたか。
母の「こうしたい」「ああしたい」という切なる思いを真剣に聞いてやらなかったか。
母の誇りをもっと守ってやれなかったか。
自分のゆとりのなさ、人間としての未熟さが私を苛む。

母はなくなる数年前から夫の母と相談して共に昭和医大への「白菊会」に入会し献体を決めていた。
弟の家での葬式のあと、昭和医大の立派な霊柩車が母を迎えにきた。
車が走り出すと、私は10mほど車を追って走った。とうとう母は行ってしまった。
母は見事に人生を生き抜いたと思う。

亡くなって一年ぐらいは、電車や街角で母に似た人に会うと、追いかけて話しかけたい衝動にかられ、母はもういないのだと涙があふれた。
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しかし一方、母からの解放感は私の気分を楽にした。
介護の大変さや母に時間を取られることへの物理的な解放感ではなく、精神的な母の存在の重さからの解放感である。
母のトラウマは私にとってそれほど重いものであった。

母は喜んでくれるか。母は認めてくれるか。
母は悲しまないか。母は怒らないか。母は寂しいのではないか。
という思いがいつも私から離れなかった。
母はいつも一人暮らしだったから、いつも母のことが気になった。
皆で夕餉を囲むとき、母は今頃一人で何を食べているだろうかと思い。
子供の成長に嬉しいことがあると直ぐ母に知らせたいと思った。

母のいない今、もう母を気にしなくていい。
私の人生や生き方で、母を悲しませることはもうのないのだという不思議な解放感であった。

母は病室で手をにぎり「私は娘を産んでいてよかったよ。娘はやっぱりいいね、ありがとう。あんたはわたしのお母さんだよ。こんどは何時来てくれる?といいながらも、子供たちが待っているから早くお帰り」と言った。
20年経った今も母のその言葉が私を温かくしてくれる。

母から解放され、7年後夫の母からも解放されてから一年
私と夫は中国人に日本語を教えるため中国に渡り約8年を過ごした。

生前母は「もう一度お父さんのいる中国に行きたい。中国残留孤児を育ててくださった中国の人にお礼もしたい」と言っていたから。


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最終更新日  2012年11月04日 08時58分40秒
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