|
|
|
|
| ホーム | 日記 | プロフィール | オークション | 掲示板 | ブックマーク | お買い物一覧 |
|
明日のことは明日自らが思い悩む。 その日の苦労は、その日だけで十分である。」 it will have enough worries of its own. マタイ6:34 [全2959件]
ネットで「パスカル」を検索しできる限り読んでみた。 参考になったが、心にふれるものはそんなに多くない。 パスカルの知的部分に関心が行き キリスト教信仰の深さをたどらないから。 書籍など帯などに「天才」という言葉が踊っているが そんなに重要ではない。 そんなふうに人の気を引いても仕方ない。 パスカルは数学者、科学者としてスタートしたが、 彼の超繊細な心は、それで納められない。 パスカルの人間への洞察は怜悧、それは あまりにも冷徹で時に悪寒を催すほどである。 人間への冷めた目、突き放した言葉は いったいこの人はそこに自分を含めているのだろうかと 疑問に思う。 そしてパスカルはあらゆる懐疑を克服した。 ただ一人の人によって。 ゴルゴダの丘に顔を向け 静かにそこに歩むキリストの姿に 彼は心奪われる。 彼はどうしてキリストに心を奪われたか。 キリストは彼にとってどんな方か。 『パンセ』の後半にはそのことが 克明に書かれている。 この地上を歩いたたった一人の人が こんなにも悩める天才の心を動かしたなんて! パスカルは全部暗唱するまで聖書を繰り返し読んだという。 彼の愛唱聖句は詩編119:84 「あなたの僕が長らえる日々はどれほどでしょう。 わたしを迫害するものに対して いつあなたは裁きをしてくださるのでしょう。」 なぁんだ。ボクならその前の節の方がイイ。 「わたしは煙にすすけた革袋のようになっても あなたの掟を決して忘れません。」
人間に対する疑い。 神の元に行けば解決する。 パスカルの精神は神の元で安らった。 だから自分のように悩んでいる人間を 神の元に連れて行きたいと願い。 『パンセ』をしたため始めた。 パスカルを「護教家」と呼ぶのは皮相的すぎる。 「だれかをその美しさのゆえに愛している者は、 その人を愛しているのだろうか。 いな。 なぜなら、その人を殺さずにその美しさを殺すであろう天然痘は、 彼がもはやその人を愛さないようにするだろうからである。」 パスカルはこのように人の愛に疑いを持つ。 「だから人は、決して人そのものを愛するのではなく、 その性質だけを愛しているのである。」 「人は、だれをもその借り物の性質のゆえにしか 愛さないからである」(323) そしてパスカルはキリストの無償の愛に触れたとき、 感動し、感嘆し、真理を見いだし、これに生きることを願う。 ボクもそうだった。 ボクが若き日に救いを求めた道筋と変わらない。
パスカルを繙いて面白いのは パスカルの心が 2つの世界を行き来しているからです。 マクロとミクロ 科学の世界と精神の世界 1と無限 人間に当てはめ 神の作品としての高価な人間 神に背いて汚れに染まった人間 どちらかに偏らないように パスカルは苦心しています。 「人間は考える葦である」との有名な言葉(347) これはつまりはどちらかに偏らないように よく考えなさい、と言う意味なのです。
老いることは 朽ちること。 その先に肉体の完全な滅びがある。 命のどん詰まりの先に 新しい命とか 永遠とかを信じる人と それを信じない人と 生き方に違いが出るだろうか、と パスカルは問いまた思索した。 パスカルは肉体の痛みと共に生きた人でもある。 40歳にならずに神様のもとに帰った。
「オレオレ詐欺」の被害が依然として高水準という。 報道される度にため息がでる。 そんな高額を よくまぁすぐに準備できるものだ と。
フランスの思想家、科学者ブレーズ・パスカルは 彼の思想、断章をまとめた著書『パンセ』の中で 「賭の必要性について」という項を著している。 わかりやすく繙くとこうだ。 神を信じる、信じないというのは「賭」だ。 キミはどちらにキミ自身の人生を賭けるかね? 賭だから誤ることもあるだろう。 正しい方を選ぶことに越したことはないのだが。 神が存在する方に賭けてそれに生きてみる。 それが正しい道だったなら万々歳だろう? 生まれてよかった、正しい道を選んだ、良い人生だったと回想できる。 しかるに誤った場合は? いいや誤ったとしたって、たいした実害はない。 それでも神に従って品行方正の生涯を送れたと 満足できることはある。 それに反して 神はいない方に賭をして 神がいない道を最後まで生きてみたまえ。 それで誤った場合はどうなる? 天国も地獄も意に反して実在していたとしたら? 地獄に行かなければならないキミ自身を想像してみたまえ。
以前友人から 「すごい交流サイトが出来た」 と勧められてボクも一員となった。 色々な人がボクが写っている写真を貼ってくれた。 このブログ記事も貼れることがわかって貼ってみた。 とたんに訪問者が増えた。 でも何となく・・・ わずらわしくなった。
「立春」の前日は「節分」 冬と春が分かれる日ということ。 本来は「立夏」「立秋」「立冬」も その前日を「節分」と呼んだらしい。 明日は 「春が来た、春が来た・・・ 山に来た、里に来た 野にも来た」 と謳おう。
気がつけば2月。 顔を上げると 日が伸びていることに 気づく。 外はまだ寒く 日足だけが先に春となるのだ。 そう「光の春」 それが2月なのだ。 あのときの2月 ボクたちは婚約中で 東京と三島から 手紙をやりとりしていた。 「2月はすぐに終わるので 『天使のつばさ』(伝道新聞)を早く配ってしまいましょう」 妻はそう手紙にしたためた35年前。 そこには結婚式の日を目前にした 期待がこぼれ落ちていた。 ボクたちも年を取ったねぇ。 あの時のときめいた気分に立ち戻り ボクたちの人生の仕上げとしようね。 |一覧| |