子どもだって人間として生きてる
最近聞いた話です。生まれて6年までは、どうやら全員該当することだそうです。この年はコロコロ言うことの変わる 到底、本人の意思とは言えない 大人次第で、どうにでも変えさせることのできる 本人の意思は無視して良い無視すべきである存在 いちいち取り上げる必要は無い 嫌がることがあってもどうせすぐにコロコロ変わる 周囲の大人が言い含めて変えさせることができる 到底、本人の意思とは言えない 傷つくことがあっても 子どもだからなんとも無い 子どもだからたいしたこと無い 子どもだからどうにでもなる 国家の代弁者が言いました。 具体的に名前も挙げられますが、それに賛同する親もいます。私は、子どもって、そういう存在だとは思いません。 小さくても、大人が本人の意思を無視したり、 無理に嫌がることをしたり、 傷つくことをやっても構わない、 そういう存在だとは思いません。 おやつで釣って、公園から家に帰ろうということを コロコロ変わると言うのでしょうか。(私は、おやつでは釣りませんが) 今泣いた子が、気分転換にとおやつで機嫌を直したら コロコロ変わると言うのでしょうか。(私は、おやつでは釣りませんが。本質と違うことに摩り替えはしたくありません) 変えやすい子、変えやすい場面はあるのかもしれません。 いつまでも悲しい気持ちを持ち続けても可哀相なので、気分転換は必要だと思います。根本的な解決が一番ではあります。しかしながら、原因を取り除くことが困難で、年単位で、同じ思いを持ち続けていても、 子どもはコロコロ変わる周囲の大人次第で、どうにでも変わってしまう単にそう片付けて、気にかけてやらなくて構わない存在でしょうか。 周囲の大人が、子どもだから解らないだろうって、 嘘をつくことを教え込んだり、 あの人には内緒だよ といい含めた時、子どもがその通りにしたら、 子どもなんて、どうせそんなもんさ となるのだろうか。 それを以って、周囲の大人次第でどうにでもなるというのだろうか。 さて、そう考えて簡単に終わりにして良い とは思いませんが。子どもでも一人の人間だとは、この頃の世間はあまり考えることなく、 子どもだからね、小さいからね、 と、一人の人と見なさないような言い方があります。 一例を考えてみると、いちいち反応はしませんが、 公共場面では、子どもにも大人のようにマナーが求められる。 騒いだり、行儀よくしないと、周囲の大人は眉をひそめて非難する。 ある誰かの都合の良いように当てはめたい時、 大人同様のマナーなど求めても、できっこしない小さな子として扱われる。 それを続けて話して、自分の矛盾があるにも関わらず、 正当化する。 現象は、国家という権力であり、国家という構成員である人々皆の中にあります。 全員とは言いませんが、おかしいと気がつかないほうが、 生き易い、ということに、そろそろ大人は気がついているかもしれません。 人は考えなくなった。 自分で考えなくなった。 無意識にも意識的にも、世間という、あるような、無いようなものに 同調しようとして考えなくなった。 同調すれば、生き易い 同調すれば何でも正義 考えると矛盾が見えてきて、自分が苦しくなる。 考えることで、自分は何も得しない。 もっともっと考えたら、良い解決が出来るのだろうか。 何を求めてどこへ行き、何をしたら良いか どこも行かないで良いのか、何もしなくて良いのか それは違う気がする 私の魂を、どうしてやったら良いか、方向を見失いそうです。そんな気もするけど、根本では見失わないのを私は知っています。誰も知らなくても、天が知る、地が知る、自分が知るそれに恥じることは謹んで生きて行きたいと思います。人に求めるものではないけど、あまりに破廉恥だと思います。子どもでも一人の人間です。生まれたからには、尊重され生きる権利があります。そうは思いせんか?