336617 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

明日に架ける橋 Bridge Over Troubled Water    ケン高倉☆彡

明日に架ける橋 Bridge Over Troubled Water ケン高倉☆彡

三章

初めは、栃木から来たヨソ者が始めた活動写真小屋で、それもその土地には、芝居小屋しかなく始めての活動写真小屋だったので、町の人々は、画面に移る人が動いてるのを見て動揺もあり、予想以上に人は入らず、「源一郎」と栃木から追いかけてきた弟「定治」は、チンドン屋をしながら客寄せをしました。祖父を知っている方の話では、「あの頃にしては、とても、カッコいい(粋の在る)チンドン屋だった。」と、語ってくれました。でも、その頃、傍では、チンドン屋などは、偏見の目で見られていました。皆さんチンドン屋を漢字でどう書くか知っている人は少ないと思うのですが、ご存知でしょうか。チンドン屋とは、『珍問屋』と書くそうです。字の如く、珍しい商売屋と書くのです。
その時代でもチンドン屋は珍しい商売だったので、偏見の目で見る人たちも多かったのです。
でも、祖父は、自分の子供達が「チンドン屋の子供」と馬鹿にされていた時、「いつかは、馬鹿にした人たちを見返してやる。」と言う硬い意志と『言いたい人には言わせておけ解ってくれる人は解ってくれる』と自分に言い聞かせながら、チンドン屋を恥じず、その頃、普通女学校などいけない時代でしたが、「源一郎」は、小さいながら手伝いをしていた娘達をその頃「誰でもみんなは行けないと言う女学校へ絶対行かせてやる。」と、男の意地を持ったのです。それと同時に「それが一緒に住まなかった子供たちへのせめてもの罪滅ぼし」とも思っていました。
そして、戦中『暗い世の中で、娯楽を必要としている人々の為、芝居や活動写真を通して明るい世の中になってほしい。』と言う思いを募らせ、その為に人にも笑われながらもチンドン屋までやって活動写真で夢と希望を多くの人たちに分け与えたいと、無我夢中になり働いたのです。
自分がピエロのように笑われる事で、『笑われたっていいじゃないか戦争で暗くなった多くの人が笑顔を取り戻してくれるなら』祖父は、そんな思いで一杯だったのではないでしょうか。自分の家族を犠牲にしてまで『多くの人たちに笑顔を』と必死に働いたのです。

芝居小屋を始めた頃の事です。看板を大八車に載せ、重い思いをしながら大八車を引いていた時、その大八車を押してくれた人など居たなら、必ず、みかんやりんごなどを1個でもお礼だと言い、渡さなければ気がすまない、そんな祖父でした。しかし、ある日の事、お礼をしたくても、お金が無くてお礼が出来ない事がありました。その頃、唯一、日立で名の知れた卸問屋がありました。日立でお金を貸して貰えそうな所と言ったならそこしか無かったのです。祖父は、そこでお金を借りてまで、手伝ってくれた人に御礼をしたのです。とても、義理人情に篤く感謝の気持ちを忘れない人でした。
 
昭和6年、活動写真が映画と呼ばれ始め、「月形龍之助」が人気を浴び、のらくろ二等卒(田河水泡)の漫画がブームになり始めた頃、素人演芸大会もピークを迎えていました。そんな中、四女「正子」が誕生しました。その年、その女子供たちが行くことになる日立私立助川高等家政女学校(現・明秀学園)が開校した年でもありました。また、満州事変勃発した年でもあり、東北、北海道が、地方冷害により、大凶作になり、娘の身売りが急増していた年でもありました。

活動写真が、映画と呼ばれるようになったのは、その次の年の「満州行進曲」や「東京音頭」また、ヨーヨーが大流行したトーキー時代と呼ばれた昭和7,8年頃です。

   ※「トーキー」とは、今まで無声映画でしたが、音声映画になった時の事を「トーキー」と言います。1952年に放映されたジーン・ケリーの『雨にうたえば』で紹介しています

レコードに俳優の声を吹き込み映画の女優俳優達の口に合わせてその女優俳優達の声が始めて世間に知られはじめ、今まで声など聞こえないから善いと思ってた女優俳優達にとって大変な事で、この頃、声優学校がとても流行しました。声を出すのが苦手な女優俳優達の声はその本人以外の人の声で吹き替えされた事もあり、その為、声と口の動きとがずれると言う事も良く有りました。


昭和9年、東京に地下鉄が通り始めた年、大正12年に駆け落ちをして日立にきた時、ふたりの間に初めて出来た「政夫」を亡くしてからというもの長い間女の子にしか恵まれませんでしたが、二人の間に念願の男の子が誕生したのです。大正時代、栃木から逃げる様にして日立へ着てしまったので、本当は、長男だった「政夫」の戸籍届を出す事が出来なかった為、12年ぶりに生れてきた男の子を長男として、戸籍に入れました。
この年、漫才ブームで、三代目三遊亭金馬が人気を集め、吉本興業で特選漫才大会を模様した年でもありました。男の子が出来るのを待ち焦がれていた「源一郎」は、息子の名前をどういう名前にして良いか解らずお寺のお坊さんにつけて貰い「壮直」と書き、「ソウチ」と名付けました。わたしの父の誕生です。この年、南満州鉄道に特急アジア号運転が開始し、日中戦争が勃発し、日立に常陸セメント(株)の工事が完成した年でもありました。上4人の姉は、初めての男子の誕生に皆喜び、とても可愛がりました。この年洋画が見られるようになり、チャップリンの「街の灯」「にんじん」などが上映されていました。

その次の年の昭和10年、もんぺ姿の「もんぺ」(現代の土木作業ズボンはもんぺをデザインしてあります)が出来た年、大工を営んでいた正妻「かん」の父の「甚蔵」が、駆け落ちをして行ってしまった娘達の事を案じながら、栃木の地で静かに永遠の眠りにつきました。その頃、無声映画からトーキー時代に入り、映画館では、「国定忠治」「雪之丞変化」などが上映され、今まで無声映画しか見られなかった人々は、誰が喋ってるのか?映画の画面から声が出るのを見てとても不思議がり驚いた事でしょう。
その為、この年、松竹映画館の弁士と楽士全員解雇され、祖父の弟の杵鞭も終わりを告げたのです。

+また、この年、文藝社で芥川賞・直木35賞を設定した年でもありました。この年の芥川賞は、石川達三の「蒼亡民」直木賞は、川口松太郎の「鶴八鶴次郎」が受賞しました。

>>>
戻る


© Rakuten Group, Inc.