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Prayer Hills Church 滑川一麦教会

Prayer Hills Church 滑川一麦教会

☆11月

11/28「全てを支配されている方、全能なる主」

 
「イエスは言われた。『なぜこわがるのか。信仰の薄い者たちだ。』それから、起き上がって、風と湖をしかりつけられると、大なぎになった。人々は驚いてこう言った。『風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。』」(マタイ8:26、27)


 弟子たちはイエス様に「なぜこわがるのか。信仰の薄い者たちだ。」と言われました。確かにイエス様を救い主、メシアと信じる信仰はありました。しかし、イエス様が本当の意味でどのようなお方かまだまだわかっていなかったのです。目に見えるもの、見えないもの、世界の全てを支配しているということがわからなかったのです。イエス様は風や湖のみならず、ありとあらゆるものをお造りになられたお方です。私達は全ての領域でイエス様におまかせするべきです。ところが多くの場合はこう言うのです。「イエス様、今私は苦しいので助けて下さい。でも罪、罪とは言わないで下さい。私が必要な時だけ来て下さい。それ以外はこなくてもいいです。私は自分のしたいことがありますので、そのことについては何も言わないで下さい。」私達は全てにおいて主に支配していただくべきです。主はそのことを喜ばれるのです。

pansy




11/21「『つまずき』を与えるとは」

 
「この小さい者たちのひとりに、つまずきを与えるようであったら、そんな者は石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。」(ルカ17:2)


 教会でいう「つまずきを与える」という意味の多くは、相手が嫌な思いになって教会にこなくなったとか、たとえ教会にきていても、気分が悪い時を過ごしている、という意味で使っていることが多いように思います。しかし聖書がいう本当の「つまずきを与える」という意味はそうではなくて、人に罪を犯させようと誘惑すること、そして人から祝福を奪い取ってしまうこと、という意味なのです。そういう意味であるなら、たとえ人が嫌な思いをしたとしても、言うべきことは言わなければならないのです。ですから、キリストに従うということが、実は私達が普通使っている「つまずきを与える」ということにもなりえるのです。表面的な人間関係が壊れるのを恐れて、当然言うべきことを言わなかったとしたら、実はそれこそ相手をイエス様から遠ざけていることであり、すなわち、つまずきを与えていることになるのです。あなたは人間関係がきまずくなることを恐れて言うべきことを言わなかったということはないでしょうか。これは親子関係の間にも言えることです。ようするに、つまずきを与えないことが重要なのです。 

pansy



11/14「人の歓心と神の歓心」

 
「いま私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。いや。神に、でしょう。あるいはまた、人の歓心を買おうと努めているのでしょうか。もし私がいまなお人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません。」(ガラテヤ1:10)


私達がもし人の歓心を買おうとしたら、相手の顔色を見、自分のために気に入られようとします。しかし、神の歓心を買おうとするならば、神の目を意識し、そして神を愛するようになります。神に従い、神のために喜んで御心を行うようになるのです。人の歓心を買おうとすることと、神の歓心を買おうとすることと、それほどの違いがあるのです。神はいつも私達一人一人のことを深く愛し、思いをとめてくださっています。私達もいつもいつもイエス・キリスト様のことを思い、自分を喜ばす事より、神を喜ばすことに焦点を当てて行くべきでしょう。そして、主の前に出て、「するべきこととをしただけです。役に立たないしもべです。」と主に言った時に、主はあなたに言われます。「よくやった。忠実なしもべだ。あなたはわずかなものに忠実であったから、私はあなたに多くのものをまかせよう」神のことをいつも思いましょう。

pansy



11/7「エギング(イカ釣り)の楽しみ」

 
「愛する皆さん。あなたの人生は、多くの困難と誘惑に満ちていますか。そうであれば喜びなさい。行く道の険しさは、忍耐を養う良いチャンスとなるからです。忍耐力を十分に養いなさい。さまざまな問題が持ち上がった時、そこから逃げ出そうと、もがいてはいけません。忍耐力が十分身につけば、完全に成長した、どんなことにもビクともしない、ねばり強い性格の持ち主になれるでしょう。」(ヤコブ1:2~4 リビング)


「忍耐」という言葉は聖書の中に41回出てきます。旧約聖書に2回、新約聖書に39回です。聖書がいう「忍耐」とは、ただ、じっと辛抱するということではありません。そうではなくて、1.希望を持って耐えること 2.真実な主を見上げて耐えること 3.確信を投げ捨てないで耐えること、このような意味があると思います。ようするに重要なことは、主どのようなお方かを知るということなのです。希望とは主そのものです。また真実とは主そのものです。そして、主からの確信こそ重要であるということなのです。そしてこの「忍耐」の訓練を通して、私達は主に近づくことが出来るのです。肉によって生きるのではなくて、御霊によって生きるということです。ハレルヤ!

pansy


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