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2009/10/26
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大国主命に神聖な神殿を壊され、旧伊勢国(筑紫国)を奪われた猿田彦5世らは

二手に分かれて亡命移動しましたが、その一隊(約600人)は、日本海沿いに北上して

山陰地方の島根県に至り、同族ガド族の先遺隊であった鉄鐸・銅鐸文化の蘇民将来のクニ

牛頭天王(スサノオノ命)のユダヤ系ガド族とイッサカル族の連合移民団リーダー【出雲王朝】

へ参入しました。

青シンプル.JPG

次に、別働隊の遺民は瀬戸内海を東遷し、中国・四国・近畿にやって来て

各地に彼らのコロニーを作りました。彼らのうち、紀州・熊野に約300人が移動して伊国を建て

志摩半島に約300人が移動して新伊勢国(伊雑宮・伊勢神宮の元宮)を建てました。

さらに、奈良大和に約1300人が移動して鮭文化圏を整え、東テイ国(纏向遺跡が中心)を

建てています。なお、旧伊勢国の日代宮(太陽神殿)を建てたのは猿田彦2世であり

高句麗と同盟して大国主命や東表国と戦って敗れ、出雲に亡命したのは5代目でした。

また、志摩半島に新しい伊勢国を建てたのは6代目でした。

この時、猿田彦の別働隊(ガド族・イッサカル族・ゼブルン族等)は、瀬戸内海を東遷した途中

周防灘の徳山湾(遠石八幡宮の地)にコロニーを作りました。さらに、一行は楊井水道の

大畠瀬戸に至り、旧伊勢の日代宮(御神体は八咫鏡)を遷社して大畠・大久保の地、柳井市に

【天照神社】を建てました。また、瀬戸の浜辺に【磯の神】を祀る石上神社を建て、その元宮

として旧い周芳神社(柳井市日積の諏訪神社)が再建されましたが、この天照大神(内宮)の

神霊は、のちに志摩半島の伊雑宮(伊佐和宮)に遷社されています。さらに、旧伊勢国グループ

は、東遷の途中、瀬戸内海沿いの各地に、旧伊勢国遺民の一部ずつ割いてコロニーを作り

香川県の森広遺跡・奈良県三輪山の日代宮遺跡・大阪府の利倉遺跡と池上遺跡に

鉄鐸・銅鐸遺跡を残しています。

青シンプル.JPG

ガド族と連合していたイッサカル族は、三輪山を中心に定着しました。

筑紫の三輪(福岡県朝倉郡三輪町)から移ってきた三輪氏などであり、彼らが祭祀を担いました。

なお、纏向の太田地区などには大田氏系の先祖も居住しました。

同じく連合していたゼブルン族は、葛城などに定着しました(葛城氏など)

5代目猿田彦の弟の系列が建国した東テイ国(奈良)と地方との交通・交易の状況は、

東テイ国(当時の奈良盆地・鮭文化の国)の出土品によって東海・北陸・山陰・河内・吉備・

関東・近江・瀬戸内海・播磨・紀伊と交易がされていたことが解っています。

東テイ国は鉄鐸・銅鐸文化で、水と火の祭りが三輪山を中心に行われていました。

三輪山は、縄文・弥生時代から旧い御神体で、本殿がありません。縄文港川人や

弥生苗族人の蛇信仰に彩られた【鉄と水稲】文化を育む聖山です。 

東テイ国最後の王は【日本書紀】の兄宇迦斯(エウカシ)のモデルとして登場しています。

いわゆる【神武東征】の敵役としてでてくる人物です。

真相は、213年、高句麗から渡来した神武らによって筑紫の委奴国が滅ぼされた後

イスラエル北朝系大国主命の長男らが20年かけて奈良盆地に亡命して、

230年頃、ユダヤ南朝系東テイ国のガド族らを67年ぶりに攻撃し、

今度は根絶やしにしようとして徹底的に攻撃した、それを【神武東征】神話にする替えて

【日本書紀】の【兄宇迦斯(エウカシ)退治物語】としたと考えられます。

ビーだま.gif

204年、燕王・公孫度(大物主命)崩御。長男康(事代主命)が即位し

205年には燕王・公孫康が楽浪郡南部を分割し、帯方郡(漢山ソウル)を設置しました。

209年、高句麗の山上王(延優)が長兄発岐と対立し、延優は丸都城に新国を建てました。

そのため、発岐は別行動をとって自身の王国を建てましたが翌年、発岐王は新たに立志。

高句麗出征軍として南下していったため、後に、その長子が涓奴部遺民を率いて新国と

合流し、高句麗本国を強化したといいます。

210年、発岐は立志して倭名を五瀬命と名乗り、東扶余のウガヤ王である52代ケイ須と

共に【北倭】(東夷諸族の残留兵団)を率いて南下を始め、九州博多に上陸して橋頭堡を

築きました。これを【記紀】は【神武東征】の始まりとしています。

この時、扶余王ケイ須(神武)と同盟していた公孫康もチャム人(胡人)を率いて九州へ渡来し

奴国(阿多半島)及び日向西都原(宮崎県)に投馬国を建てました。

この三豪族は、同盟して、東表国の領地内に築いた橋頭堡を守るためと、

併せて約50年前(163年)に旧伊勢国を追われた猿田彦らの仇を討つため、大国主命(シメオン族)

たちの委奴国を攻めました。210年、神武は橋頭堡から攻め込み、同時に公孫康は南方の

有明海から上陸し、相呼応して委奴国を挟み撃ちしました。

ビーだま.gif

神武らに敗れたシメオン族の土師氏らは博多湾志賀島から乗船して出雲へ逃れ

先住していた猿田彦らのガド族及びイッサカル族を駆逐して新しい出雲王朝を建てました。

土師氏らは新しい四本柱の大社を建て、その祭神を大国主命とし、併せて八百万の

神々(ユダヤ12部族の神々+倭王たちの氏神)を祀りました。

この時、約半世紀前の163年以後、出雲に六本柱の出雲大社を建てていた猿田彦のガド族らは、

213年、再度シメオン族に追われたためイッサカル族を伴って中国・四国・近畿・諏訪の各地に

移り居住しました。その後、彼らは志摩半島に先住していたゼブルン族と協定して三重県の地

に新伊勢国を建てています。委奴国にいた別のユダヤ人(シメオン族・レビ族・ルベン族)及び

苗族らの遺民は急遽博多から乗船して瀬戸内海を東遷しましたが、その途中、一行のうち

500人は古周芳の徳山湾(ガド族の旧伊勢社跡)に滞留して、秦人たちの分国を建てました。

そのため、この地に先住していたガド族たちは、簡単に追い払われてしまいました。

すなわち、このあと豊の国(大分県)から宇佐八幡宮の神霊を奉じて亡命してきた東表国の

エブス人(宇佐氏・中臣氏)の約2000人とヒッタイト人蘇我氏の約1000人が一団となって

渡海し、徳山湾の旧伊勢社跡に合流して、遠石八幡宮(宇佐八幡の分霊を祀る旧石清水八幡宮)

を建てました。彼らに相協力して古周芳の徳山湾一帯及び大畠瀬戸の石上神社の領域(楊井水

道)を占領し秦王国の分国(周芳国)を建てたのです。この時、古周芳の諏訪神社(柳井市日積)

【たたえ祭】(大畠瀬戸を渡海する神事)が猿田彦一族の亡命とともにオロッコ人・縄文人の故郷

信濃の諏訪神社(古上社)へと伝承されていきました。それが今日まで伝わる長野県諏訪神社

上社・下社の【たたえ祭】のルーツとされます。すなわち、大畠瀬戸の荒い海が穏やかに湛え

られたとき、対岸の纏向日代宮(大島町の大多満根神社)へ御供物船が渡御されていました。

その神事はガド族やゼブルン族が直伝したものでした。

この旧い神事と地名は、石神神社(大畠町のシカミ)遷移して天理市の石上神社(布都御魂剣や

七支刀などの神宝を祀る大社)に至り、さらに石神(シャクガミ/信濃の諏訪神社)→石神井(練馬

区)へと東遷し、伝承されていきました。






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最終更新日  2009/10/27 09:23:48 AM


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