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2010/09/01
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日本列島の金属文化について、BC3世紀以降に青銅と鉄がほぼ同時に入って

きたといわれますが、実際は、BC7世紀に北九州に製鉄所があったことが

遺跡により判明しています。この遺跡からは多量のトーテツ文青銅器の破片があり

鉄滓の量から、殷周の鉄器すべてこの地で作る能力がありました。

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バビロン史は、最古の海人としてディルムン、マガン、メルッハをあげていますが

ディルムンはバハレーン島のことで、マガンはオマーンのことです。

聖書はタルシシ船の目的地としてマガン、プント、オッフルなどの地をあげていますが

マガンはアラビアのオマーンだけでなく、メコン河、バンチェン、オケオ、マレー半島などを

含む地域も指していたようです。またプントは後のオッフルといわれ、ソマリアにあり後に

ソマリアを支配したイエメンのサバ国を指したらしい。オッフルには遠隔地に多くの同名の

植民市があり、北九州の豊国地方にできた製鉄基地、東表国もアビシニア(エチオピア)と

オッフル(プント)の九州植民市でした。

ダビデが建国した当時、エルサレムを支配していたエブス人は

エジプトから撤退した、かつてのヒクソスで、ヒクソスになる以前は、アビシニア人でした。

アビシニアとは元来【混血者】の意味で、日本のエビス(エミシ)もアビシニア人の意味でありました。

ビーだま.gif
 

今の雲南の仮族やメコン流域のクメール族などの先祖が、シャキイ族に従って

前七世紀にカルデア人と共にシナ大陸に入って東胡といい、その国々を韓(河南省)といい、

また中山国(河北省)といいました。

韓はアレクサンダーに従属したバビロン軍に吸収されてのちに奇子朝鮮となります。

その中には、沖縄から上陸して大扶余と混じたシャキィ族とナーガ族もありました。

シャキイ族は朝鮮の昔氏になり、ナーガ族は朴氏になり、さらに那嘉、中曾根氏などになりました。

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BC530年頃になると、時運傾き、ウラルトゥ辰国扶余箕子朝鮮連合の主力・箕子朝鮮

二分し、一はキンメリ(匈奴刀漫部)と連合し、一はイラン高地のアケメネス・ペルシアに混じ

秦の滅亡後、秦人と共に辰国に戻り、この人々が後に【倭の五王】のである秦族になるのです。

さて、ペルシアはメディアやエアムに臣従していましたが、箕子朝鮮の一部が入った後、益々強化し、

エラムもまた強大になりました。

箕子朝鮮の中の倭人はカルデア人(サカ族・ニギハヤヒ)を中心とする南セム族でしたが、

バクトリア南部のシースタン(サカスターン)地域では既にサカ族の名になっていて、

この地のサカ族は、ペルシアのキュロスのとき降服して、ヒスタスペスの支配を受け、

後ペルシア王統が乱れたとき、ヒスタスペスの子がダリウス一世となっています。

【アメニギ】氏王家が朴氏、これと同盟したサカ族が昔氏、ともに箕子朝鮮の金氏と同盟したのです。

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サカ族はBC130年頃、傭兵となってパルティアを支援しましたが、後しばしばこれに背き、そのため

パルティアのフラアーテス2世やアルタバーヌス2世が戦死しました。

箕子朝鮮は遂にバルハシ湖を以って境界とし、マラカンドの地を譲って東遷しました。

高句麗は朴・昔・金の三族を沖縄に追放し、この人々が狗奴国となって大隈を占拠して

日向を本拠とする邪馬壱国 を攻撃した

2~3世紀の倭の大乱(神武建国)が一段落したあと、4世紀中葉、ウガヤ王朝の後裔

扶余王依羅(近肖古王)が、邪馬壱国狗奴国(東表国)を合併して百済国(旧多羅)を建て

朝鮮南部の弁辰諸国と九州の倭国を支配する【倭の大王】祟神天皇になりました。

その孫の景行(百済の辰斯王)も倭の大王となりました。降って百済王久爾辛の娘、仁徳が

駕洛第七代吹希王に嫁いで倭の大王(女王)となり、駕洛と百済の複合王家から倭の大王が選ばれ

るようになりました。 これが所謂5世紀の倭の五王時代でありました。

この後、新羅と安羅の挟み撃ちに遭い駕洛(金官加羅)が滅んで王家が新羅に投降したため、再び

安羅(邪馬壱国 )王家から倭の大王が共立され、安羅(本国は九州)の王であった継体(大伴談)

安閑(大伴金村)宣化(大伴歌)が大王(天皇)になりました。

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北九州東部を豊日別というのは東表国のことをいいます。

後に、この国は朝鮮史の駕洛国または金官国になりました。

王姓は金氏、または中臣氏であり、新羅の金姓王朝または蘇我氏は、この分派です。

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狗邪韓国(東表国)が邪馬壱国との戦いの結果、

天の王朝(九州の東表国・エビス王)から朝鮮半島の南部、辰韓の地に飛地(分国)を作って

金官加羅を建てたのは3世紀中頃だったと考えられます。

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金官加羅の初代王は首露王です。そして王妃はインド16王朝時代のアユダ国、別名

コーサラ国の王女でした。コーサラ国は古代フェニキア人のインドに於ける植民地でした。

4世紀中頃、首露王の曾孫、末仇と奈勿父子の時代に、辰韓12国中の自分たちの分家

領地・斯盧国を独立させて【新羅国】を建て、奈勿尼師今(なこつにしこん)が

第17代新羅王として即位しました。

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【三国遺事】によれば金官加羅は弁辰12国のうち最大の国家でしたが、10代仇衝王の時に

新羅と争って敗れ、王族は降伏して新羅の重臣となりました。

即ち、562年9月、新羅真興王の軍が攻めてきたとき、安羅国(金官加羅の本国、九州)

の軍勢が駕洛国(金官加羅)の背後を襲ったといいます。

つまり金官加羅は、新羅と安羅に挟み撃ちされて滅んだのです。

新羅は第23代、法興王の頃から征服王朝の性格を備えはじめ、次の真興王の時代には

全盛期を迎えていました。さらにインド伝来の固有信仰から発達した【花郎集団】が

その宗教的な団結心を基盤にして、新羅軍事力の中核をなすようになるのもこの王代からです。

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奈勿王4世の孫、異斯夫は兵部令として新羅全軍を指揮するようになると、さらに領土拡張に

努め、常に第一線の武将として活躍しました。彼は各地の交通の要衝を眼下に見下ろす高台の

地に見事な【朝鮮式山城】を築城して戦いを有利に進めたといわれています。

この【朝鮮式山城】は、中世のモンゴル侵入や近世の豊臣秀吉侵入に際し、その地方・地方の

農民軍が立てこもり、時の王朝軍が戦う意欲を失った後も、自立した義兵闘争をこの山城に

よって展開した城です。南朝鮮には現在なお百を越える山城があって、見事な城壁(石垣)

や遺跡を残しています。日本でも同じく、7世紀の白村江の戦い以後につくられたと思われる

【非常の祭の逃げ城】としての【朝鮮山城】が西日本各地に21ヵ所も存在しており、新羅および

百済文化の名残を留めています






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最終更新日  2010/09/02 03:29:31 PM


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