テーマ:日本人のルーツ(527)
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日本列島の金属文化について、BC3世紀以降に青銅と鉄がほぼ同時に入って バビロン史は、最古の海人としてディルムン、マガン、メルッハをあげていますが ダビデが建国した当時、エルサレムを支配していたエブス人は 今の雲南の仮族やメコン流域のクメール族などの先祖が、シャキイ族に従って 前七世紀にカルデア人と共にシナ大陸に入って東胡といい、その国々を韓(河南省)といい、 また中山国(河北省)といいました。 韓はアレクサンダーに従属したバビロン軍に吸収されてのちに奇子朝鮮となります。 その中には、沖縄から上陸して大扶余と混じたシャキィ族とナーガ族もありました。 シャキイ族は朝鮮の昔氏になり、ナーガ族は朴氏になり、さらに那嘉、中曾根氏などになりました。 BC530年頃になると、時運傾き、ウラルトゥの辰国・扶余・箕子朝鮮連合の主力・箕子朝鮮は
るようになりました。 これが所謂5世紀の倭の五王時代でありました。 安閑(大伴金村)宣化(大伴歌)が大王(天皇)になりました。 北九州東部を豊日別というのは東表国のことをいいます。 後に、この国は朝鮮史の駕洛国または金官国になりました。 王姓は金氏、または中臣氏であり、新羅の金姓王朝または蘇我氏は、この分派です。 狗邪韓国(東表国)が邪馬壱国との戦いの結果、 天の王朝(九州の東表国・エビス王)から朝鮮半島の南部、辰韓の地に飛地(分国)を作って 金官加羅を建てたのは3世紀中頃だったと考えられます。 金官加羅の初代王は首露王です。そして王妃はインド16王朝時代のアユダ国、別名 コーサラ国の王女でした。コーサラ国は古代フェニキア人のインドに於ける植民地でした。 4世紀中頃、首露王の曾孫、末仇と奈勿父子の時代に、辰韓12国中の自分たちの分家 領地・斯盧国を独立させて【新羅国】を建て、奈勿尼師今(なこつにしこん)が 第17代新羅王として即位しました。 【三国遺事】によれば金官加羅は弁辰12国のうち最大の国家でしたが、10代仇衝王の時に 新羅と争って敗れ、王族は降伏して新羅の重臣となりました。 即ち、562年9月、新羅真興王の軍が攻めてきたとき、安羅国(金官加羅の本国、九州) の軍勢が駕洛国(金官加羅)の背後を襲ったといいます。 つまり金官加羅は、新羅と安羅に挟み撃ちされて滅んだのです。 新羅は第23代、法興王の頃から征服王朝の性格を備えはじめ、次の真興王の時代には 全盛期を迎えていました。さらにインド伝来の固有信仰から発達した【花郎集団】が その宗教的な団結心を基盤にして、新羅軍事力の中核をなすようになるのもこの王代からです。 奈勿王4世の孫、異斯夫は兵部令として新羅全軍を指揮するようになると、さらに領土拡張に 努め、常に第一線の武将として活躍しました。彼は各地の交通の要衝を眼下に見下ろす高台の 地に見事な【朝鮮式山城】を築城して戦いを有利に進めたといわれています。 この【朝鮮式山城】は、中世のモンゴル侵入や近世の豊臣秀吉侵入に際し、その地方・地方の 農民軍が立てこもり、時の王朝軍が戦う意欲を失った後も、自立した義兵闘争をこの山城に よって展開した城です。南朝鮮には現在なお百を越える山城があって、見事な城壁(石垣) や遺跡を残しています。日本でも同じく、7世紀の白村江の戦い以後につくられたと思われる 【非常の祭の逃げ城】としての【朝鮮山城】が西日本各地に21ヵ所も存在しており、新羅および 百済文化の名残を留めています お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2010/09/02 03:29:31 PM
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