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2011/06/18
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「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」 葉隠の記述の中で特に有名な一節ですが

死を美化したわけではなく、心構えを述べたものと理解しています。

命を懸け本気で勝負する気構えは、一心岩をも通す勢いで奇跡を起こすと信じています。

刀.JPG 

明治維新で夜が明けて、訪日した外国人の残した見聞録には日本人の美しい魂を賛美する

書物が少なくありません。

暮らし方も生き方もシンプルで一本気、そのような精神性は古代から続いているようです。

倭人の中心になって渡来してきた国史ニギハヤヒノ命である穢人について中国の「通典」穢伝は

穢人はその性質が慎み深く誠実で、貪欲なところが少なく、恥というものを知っている。

と記しています。

ニギハヤヒ軍団は王族がクシャトリアで、従属する倭人はチュルク人です。 

クシャトリアであるニギハヤヒの命はヤードゥ族の子孫であるサカ族の王で、

インドに残留したその一族から釈迦如来が生まれました。

またニギハヤヒの穢族は、ウルのカルデア人のことです。

ビーだま.gif

BC1530年、ヒッタイトがハムラビ王朝を倒した後、カッシート人王朝ができたため、

バビロニアを 【カルドウニアシス】と呼び後世【カルデア】と呼びました。

ウンマ王ルーガルザグギシとグート人の王シャルラクに始まり、バビロニアのカッシート王朝と

なり、さらにそのカッシート人がバンヂャップに入って後期ヴェーダ時代に、インド十六王朝の

なかのクル国になった後、カルデア人の子孫のプール族と合体してガンガ流域に移り、

ベトナムの文郎国を経て中国大陸の河南省に移民したのがニギハヤヒの穢人です。

BC1000年紀のインドは、ガンジス流域を中心にして十六王朝があって

カッシート人を中心とする月神王朝と

アラビア海の海商を中心とする日神王朝系に分かれていました。

月神王統は、カッシート人の亡命者が主流なので

中国史の大月氏と同じルーツから二分したものです。

月神王統の諸国からマガダ国が次第に頭角を表して、ついにインドに統一王朝を建てましたが

マガダ国力を支えたのは、この地のインド最大の製鉄地域でした。

マガダの製鉄はヴォラテイアという漂白の民によってなされていたといいますが

彼らは、サカ族系であったといいます。

また東の方、メナム河の流域に、ドバラヴァティというモン族の国家があり

吐火羅あるいは堕羅と書かれ、モン族は自らタラインと称していました。

この吐火羅人は、月氏系ですが、この月氏は、中国史の月氏ではなく

インドから入った月神王朝、すなわちカッシート人の子孫のクル族のことです。

インドネシアで発見された銅鼓には月氏の絵があって、これはインドの月氏で

あったようです。

すなわち、インドに入ったカッシート人とサカ族は、それぞれクル国とプール国を

たてて合流し、のちにメナム流域のモン族を支配した吐火羅国をたて

さらにベトナムで文郎国をたてた後、阿南省の南陽に植民して製鉄基地をたてたということです。

マガダの都は、ガヤで、中国では、これを伽耶と書き、これが朝鮮の駕洛諸国の語源になった

らしい。十六王朝の時代に、サカ族は、アショカ国をたて、コーサラ国では釈迦を生み

さらに、マガダ国の製鉄部族になりました。このサカ族がニギハヤヒのことです。

インドで釈迦が出現したのは、純血アーリアンのバラモン教に対して

混血アーリアンのための宗教が必要だったからですが、やがてカースト差別の復活と

いう潮流に呑み込まれて釈迦の理想はバラモン教の復活によって滅びたといいます。

ビーだま.gif

ニギハヤヒ系月氏はインドに入ってカルデア人と混血した海ルートのカッシート。

チベット系月氏は、シルクロードを経由した陸ルートの同じくカッシート。

同族です。この辺を解明すると古代の歴史が面白くなります。

カッシート、月氏とは何者ぞ。とても心魅かれます。

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サカ族は、おそらく、スキタイ族のアルギッパイオイ人であり、アッカドの末裔です。

ポンティコンの実を食用とする根の国(ウラルトゥ)一族といわれます。

この民族は神聖視されているので彼らに危害を加える者は誰もなく武器の類は一切所有しない。

近隣の住民の争いを調停するのも彼らであるし、彼らを頼って避難してきたものは何人によって

も危害を加えられることはない。と、ヘロドトスも記しました。

彼らニギハヤヒの軍団は、アラビア海の時代はシュメール人の一派のヤードゥや

マラ族で、インドでシャカ族になって雲南へやって来ました。そしてワ族やナーガ族を

引き連れて満州でウラルトゥ+月氏の扶余前期王朝と合体し、その庶子 が王位を奪って

扶余後期王朝をたて東明王と称し日本に来てニギハヤヒになったということです。

扶余は前期も後期も共に製鉄部族で同盟していたのでした。

中国史料【通典】扶余伝には

扶余王の埋葬には金鏤玉衣を用いている。中略・・扶余人の性質は勇敢にして

慎み深く人情に厚い。ほかの種族の地への侵略などはしない。・・・と、記します。

ビーだま.gif

扶余国家は、初め【伯族(ウラルトゥ)】によって建国され

後に【穢国(ニギハヤヒ)】と合体しましたが、ともにその一部は九州に渡来して

【ウラルトゥ】から【ウガヤ王朝】、【穢国】からニギハヤヒ王朝が成立したのです。

やがてウガヤ王朝後裔の神武はニギハヤヒ一族を破って吸収し邪馬壱国をたて

最後まで神武と戦った狗奴国のナガスネ彦も東北に逃れ、荒吐族、後の阿部一族の

祖になります。【三国史記】によれば新羅の朴氏の祖はナガスネ彦の祖と一致しています。

それはアッサム高地からマレー海峡に散在するシナ・チベット語族のナーガ族です。

そのナーガ族を率いてきたのが、ニギハヤヒです。

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最後に日本にやって来たニギハヤヒの一族は青い目の人々もいたらしい。

平安時代から村はずれに天部、余部という部落があって、後の被差別部落のルーツ

といわれますが、元来は天の王朝の人々の部落でした。新羅人の奈良王朝を破って

百済人が平安王朝を建てた時、その圧制のもとで家を捨てた人々がこの地に次々と

入っていったといいます。山形県の余目も最果ての余部と考えられ、ここには青い目の人

が多いそうです。あらゆる文化が辺境にと逃れるように、天部の純粋の形態は東北地方に

残ったのではないか。天の王朝一族は、ニギハヤヒ族の他、東表国・金官国の中臣族、公孫氏

邪馬壱国の大伴氏などもありますが、このなかにも青い目の人々がいたと考えられます。

ビーだま.gif

10世紀中期、突如として、律令制を揺るがすような大騒動が持ち上がります。

クシャトリアであった平将門の一族が下総北部を地盤として

935年以来、同じクシャトリアのマラ族である平国香・平貞盛・平良兼・平良正らと

領土を奪い合う合戦を繰り返していましたが、自ら【親皇】と称し新しい国家を造るべく

関東地方独立を図り武力による【関東国家】の建設を目指したといいます。

また時を同じくして、瀬戸内海でクシャトリアのヤードゥ族、藤原純友が1000艘を越える

蛋民水軍を率いて反乱を起こしました。この2つの反乱は貴族たちに大きな衝撃を与え

平安朝の天皇制も危うくしました。結局、将門勢力はクシャトリア・マラ族(アーリア人とドラヴィダ

人の混血)の平貞盛と結んだツングース北倭武士団(アイヌ人)の藤原秀郷によって滅び、

そのため純友は京都に突入する寸前で兵を引き返しました。敗戦の結果、将門に従っていた

カッシート人らは関東平野や近畿地方に逃れて散居し、純友に従っていたヤードゥ族は

蛋民(水上生活者)となって瀬戸内海一帯に散居し、各地に津(港)を作りました。

やがて、鎌倉時代にこの武士たちの群れから足利氏の勢力が成長し、南北時代になると

執権北条氏の鎌倉幕府を滅ぼすことになります。後醍醐天皇による【建武の中興】のとき

足利尊氏は、南朝方の百済武士団の後裔・楠正成・新田義貞を滅ぼして

北朝系の室町幕府を樹立するのです。






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最終更新日  2011/06/18 11:15:32 AM


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