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2015/03/02
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方言注
おーっそがい=おそろしい
二ッケ=肉桂
殺されるげな=殺されるそうだ
だちゃかん=駄目だ
子供んた=子供達
こきる、こいて=言っている、言って
おし=おまえ
こっちいも=ここらへも
もんとこいょって=者の所へ寄って
いっしょにとびやんか=一緒に飛ばないのか
遊んでばっかけつがって=遊んでばかりいやがって
もうて=まわって
坊んた=坊やたち
世話なしに=何の苦労もなく


三宅武夫   1903年~1990年
岐阜県の教育家。岐阜県師範学校を卒業後、
教師になる。1943年中津町立第二中学校
初代校長に就任。以後中津川市教育長などを歴任。著書『おらあ先生になる』ほか


家族単位で山の中や川辺で漂白の生活を送るサンカは、大自然を背景に親が子に自分の生活する姿を見せて生活している。教育者である作者の三宅武夫氏はサンカの家族に教育の理想を見たのだろう。その眼差しには優しさが溢れている。
三宅武夫は明治三十六年、岐阜県に生まれ、師範学校を卒業後地元の小学校に赴任、その後愛媛県の松山に転出している。この鞦韆(ぶらんこ)はその後に、生家に近い恵那郡の団子杉近くで目にしたサンカの家族のことを書いているが、この愛媛時代にもサンカを目撃してるという。
三宅氏が出版した『おらあ先生になる』という自伝の中にもその時の事が書かれているので、引用しておく。
                ※
その一つに、松山にいた時、担任の生徒を引率して、奉仕作業のためにと、市街の南を流れている石手の川原に行ったことがありました。そこには、ずいぶん沢山の天幕が張ってあってこの川原の右岸に、穴を掘って住んでいるらしく、竹細工をしている一群に逢ったことがあります。
『先生。ここにゃ、紀元二千年前からの人間がいますけ、気ぃつけにゃいけんぞな・・・・・巣に棲み、穴に住む人間が、かなり大勢いるのじゃけんな・・・・・』高橋という生徒がそう言ってきました。
なるほど、見るとかなりの人数です。それは、
明らかに、かつて私が子どもの頃に見た、あのボンスケといった、同類の人達であることがすぐわかりました。私は、その彼らの天幕の前まで行って、昔「鳳の草」(明智在)の小屋にいた三人の暮らしを思いながら、あの時小母さんが教えてくれた彼ら独特の文字だといった、あの符牒を書いて見せたのです。(中略)。記憶をたどってみますと、これはどうやら昭和十四年の夏のことです。
その後、彼らがどうなったのか、いつどこへ消えていったのか。それは知りませんが、その時の話の中に、今はその日その日の生活に、大分困っている話。いまに日本が戦争にでも突入すれば、その時はまっさきに志願して、軍人にしてもらい、天晴れ日本人になってしまいたいが、どこにいっても一般人、一般の子供迄が、冷たい仕打ちをして、自分たちを悲しませている。先生なら、その先生になる人々に私らだって人間だということをよく解るように話して聞かせ置いてほしいと言っていました。そして今、何とかして「溶け込み」をしたいと思い、この地に「居つきたい」と、それぞれ苦心している。と言っていました。
            ※
愛媛県師範では三宅氏は校長に生徒の五年間持ち上がりを要求し、県内の生徒宅を訪問して回るなど、たいへんに教育熱心な教師であったようだ。それはおよそ四十年近くも後の、このような後日談からも窺える。再び『おらあ先生になる』からの引用
            ※
それが昭和五十一年、私は、私の手記復刻版の『鞦韆(ぶらんこ)』という一冊を印刷してもらいましたので、当時教え子だった伊予路の校長たちに送りました。ところが、その中の三人もの校長から「私の学校のPTAの役員の中にそういう人びとがいますらい・・・・」と、教えてくれました。
・・・それは、あの時、「溶け込み」を考えていた人達の子孫じゃないでしょうか。あの頃から「溶け込み」をはじめたにしても、あの全部が、あの辺りだけに落ち着いたわけでもなでしょうから、いずれ、松山近郊から西は西宇和、東は遠く香川、徳島、南は高知、北は瀬戸内の島島から、中国路にかけて、じりじりと沈潜・定着していったのではないかと思うのです。
              ※
中国・四国地方のサンカの出自を考察させる一節である。そうして三宅氏はその後を学習研究会で回ったりした時でも、日本全国いろいろとその土地土地で興味深い観察をしている。特に、京都で成長した小学校の教え子の女性達に「道楽」という料亭で竹焼料理をふるまわれた時の書いている内容が興味深い。
            ※
その「一節の竹」の上側の割り口は、和紙で貼られていて、竹の底側は、すこし焦げていました。口取りが出て、お吸い物が出て、お酒が出て、その張り紙がはがれますと、この一節の中には、一杯詰められた様々な山海珍味が納まっていました。一番上に・・・・(中略)。その「知久屋喜」は、まさに、彼らの秘法による、石焼料理、桶料理、竹筒料理と、みな同じ類型の料理だと思いました。東は秋田、西は山口、南の高知、内海の鹿島、そしてこの京都の「知久屋喜」、それに故郷明智の、鳳の草の小母さんの「手料理」も、同じ手法だったと、今も思っています。
             ※
このように三宅氏はサンカに向けて様々なアングルからのアプローチを試みているのだが、やはり
「鞦韆」においての重要なテーマという「教育の原点」を「サンカの家族」に見出したということになるだろう。三宅氏は、彼らの生活の中にあった「子どもへの教育」が徹底した「行動中心教育」であるとし、その素晴らしさを「鞦韆」によって我々に伝えてくれている。
藤つるを取ってきて、それをぶらんこに作りあげてくまでのプロセス。そしてぶらんこが、出来上がってから親子三人で遊ぶ姿を見て、七十年近い昔、若かりし三宅氏は、共感と羨望の眼差しで三人の親子を見ていたに違いない。
それは次の言葉にも明らかだ。
              ※

私の周辺にいた多くの人々の中にあって彼らぐらい、強烈に私の「教育行動」に影響した集団は、少なかったという気がしてなりません。(中略)彼らのような「生活即教育」「遊び即生活」の「共育」をすすめる、そういうものを忘れたくありません。何としても「子ども自身が自らの行動を律する力」が、自ら育つためになくてはならないことと、私は思うのです。
             ※
三宅氏の著作の中には「そっとみんなが溶け込んでいてくれますようにと願うわけです」という一節がある。サンカを好奇の眼で見る、あるいは研究の対象としてのみ見ようとする試みの氾濫する中、サンカに向けられた氏の眼差しの温かさは、その人柄を反映していることを窺わせる。
“サンカ”へのオマージュとして「鞦韆」は文句なしに至高の存在だと言える。
最後に氏がサンカへの惜別の情を吐露した一節を引用しておわりにしたい。それはまさに、平成の現在“サンカ”という存在にロマンと憧れを持ってる、我々総てに共通する心情であるといえよう。
              ※
私の記録の中には、これら「消えていった人々を惜しむ」幾つかの記録がありますが、いつもこれを見る度に思いますのは「その後どうなったか、もうわからない」という惜別の情です。それでいて、イツの日にか、 まさに私の心の底深くに食いいって離れない、それらの人々の人柄、暮らしの実態、いささかの高ぶりもない親切、独特な語り。そしてその中にあった珍しい、それでいてまことに「平凡」な何でもない、しかも、またここになくてはならない「文化」「生活」「教育」の実態等々、回想するたびに、涙のながれるほど懐かしく、切実に感じるものがあるのです。彼らが一般人社会、周辺の人々の世界に溶け込んだとしても、どこかで、あの純粋だけは残していてほしいとそう思うのです。






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最終更新日  2015/03/03 12:52:00 AM


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