カテゴリ:旅
オーストリアは、13世紀初め以来、ハプスブルグ家による王政が長く続いてきました。帝国が解体され、オーストリア共和国が成立したのは1918年で、共和制の歴史はまだ100年も経っていないことになります。1938年から45年まではナチスドイツに併合され、第二次大戦後は連合国(英米仏ソ)に10年間占領されるなど、厳しい時期を経験します。主権を回復し、国連に加盟したのは1955年です。
人口は2014年現在で約870万人。面積は北海道よりもやや大きい程度です。EUやユーロには加盟しており、いちおう西側陣営とみなされていますが、永世中立国でもあるためNATOには加盟していません(軍事同盟に加盟していない代わりに徴兵制があり、18歳以上の男子は半年間の兵役義務があるそうです)。永世中立国という立場を使ってオーストリアは、様々な国際紛争の仲介役を果たすことも多く、小国ながら存在感の大きい国です。米ソ冷戦下にはケネディ米大統領、フルシチョフソ連首相の二人が、初めて会談した舞台もウイーンでした。 さて、ウイーンでの初日、美術史博物館を見終えた僕らは、博物館の隣にある旧「王宮」を訪れました。ハプスブルグ家が600年以上も住まいとし、政務を執った場所です。この宮殿では歴代皇帝のほか、女帝と言われたマリア・テレジア、そして悲劇の皇妃と称されたエリザベートが暮らしました(写真は、王宮に入る「ブルク門」)。 王宮は18棟の建物から成り、2500以上もの部屋があります。現在そのほとんどが一般公開されていますが、全部見るととんでもない時間がかかるので、僕らはエリザベートの住まいでもあった「シシィ(エリザベートの愛称)博物館」や皇帝の部屋、銀器のコレクションルームという人気の場所だけを重点的に見ることにしました。 これが皇妃エリザベート(1837~1898)の肖像画((C)Photobusiness/Artothek )。若い頃の写真は残されているのですが、30歳以降はほとんど写真を撮らせなかったといいます。独バイエルンの貴族の娘として生まれ、16歳でオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフの元に嫁ぎ、3人の子をもうけましたが、夫婦仲は悪く、晩年は一人で国外へ旅行ばかりしていたそうです。61歳の時、滞在先のジュネーブでイタリアの無政府主義者に暗殺されるという悲劇の生涯は、宝塚歌劇でもしばしば上演されていますね。 王宮すぐそばのブルク公園には、ウイーンのモーツアルト像がありました。ウイーンは言うまでもなく、モーツアルトが後半生を暮らし、音楽家として大きく成長した重要な場所です。 モーツアルト像のすぐそばには、あの文豪ゲーテの銅像もありました。「えっ? ゲーテってドイツ人でウイーンとゆかりはあったの?」のお思いの方、貴方は正しいです。ゲーテはウイーンとは直接ゆかりはないのですが、シューベルトほか数多くの作曲家の歌曲をはじめ、多くの曲に詩を提供したことで、評価されて銅像になったとのことです。 美術館と王宮という2カ所の見学を終えて、ちょっとカフェで休憩。ウイーンはカフェの街。街なかにはカフェが至る所にあります。カプチーノやウインナ・コーヒーとかを頼むと、必ずこんな感じで水が付いて出てきます。 カフェの後、僕らは旧市街中心部のシュテファン広場を目指しました。広場には、ウイーンのランドマークでもある「シュテファン寺院」があります。12世紀半ばの創建で、現在の建物は14~16世紀に改築された、高さ137mのゴシック様式の大寺院です。モーツアルトが妻コンスタンツェ・ヴェーヴァーと結婚式を挙げた寺院としても有名です。 寺院前の、その名も「シュテファン広場」はウイーン観光のスタート拠点なので、当たり前ですが、世界中からの観光客であふれていました。寺院の地下には、ハプスブルグ家の人たちの内臓を入れた壺が安置されています。 同じ場所から180度反対側を見たら、こんな感じ。広場は結構広いです。しかも車は(馬車以外)乗り入れ禁止なので、安心して歩けます。 予想はしていましたが、広場でもやっていました! シリア難民を支援しようという募金活動。通行人はあまり関心を示していないようでしたが、オーストリアには支援団体も多いという話です。 シリア難民支援の募金活動のそばを、まったく関係ないキリスト教関連のグループが淡々と行進していました(何らかの宗教的行事みたいでしたが…)。このコントラストが、なんとも不思議な感じがしました。 <ウイーン編(3)>へ続く。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2015/11/09 10:26:12 AM
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