安陪政権の新たな内閣は、「在庫一掃セール」などとも揶揄されているが、まあ「分厚い層がある」ということも言えるだろう。
だが、総裁選、党役員人事を見ると、「党務」に長けた人材が減少しているのではないか?との疑念がある。
勿論、国会議員である以上、少なくともこれは実現させたい。という政策の一つや二つはあるだろう。だ方こそ、「政策論争」には長けた人材は、多く見受けられる。ただ、やはり綺麗事だけ、「正論」だけではなかなかうまくまとまらないのであって、そこを「束ねる」いわば、「裏方」あるいは「ダーティーワーク担当」の人材が必要となる。
労務に長けた人材というのは、「党内ににらみを利かす」という役柄もあるのだろうが、二階氏なども特徴的ではあるが、兎角世間一般では人相が悪い方が多い。
「政務」だけでよいではないか?
なぜ「党務」が必要なのか?
このように感じられる方もおられると思うが、国会議員のように、皆が皆「目立ちたがり」であり、「主張」される方々の中では、「暗黙のルール」や「落としどころ」が必要となるだけではなく、「重石」が求められるのである。そうでなければ、彼らは、一日中。いや三百六十日論争し続けるであろう。
そのような論争の中で「政策は磨かれる」のが理想。そう考えられる方々もおられよう。しかし、本当にそううまくいくのであろうか?主張の中には、「これはどうかと思う」ものが混在したり、「政策論争を重ねるごとにポピュリズム」になびきやすくなる傾向がある。これを一定程度の幅の中で、「決定」「委任される:などという作業は、困難を極めるものである。
それでも「政策」を決めなければならないのが「与党」である。
野党の論争といえば、論争すればするほど「拡散」するだけ、と言われ、「収斂しない」と言われるのは、「裏方作業」をする人材がいないからに他ならない。「無責任」という野党の甘えがそれに輪をかける。(何しろ自らの決定は、そのままでは成立しないのだから、好き勝手しゃべっているのが楽であろうが、それは単なる甘えである。)
野党の議論に欠けているのは、「現実」である。「理想」を現実としてみなし、その上に理想を重ねようとするから「妄想」でしかないのである。そして野党時代はその「妄想」が許される。とお思い込んでいる。そして一部マスコミが便乗し、煽り立てる。
議論の仕方が悪く、「ブレーンストーミング」などの技法を使えば、解決するものではなく、にらみを利かせて、途中でも「決定」する胆力、腕力が求められるのである。
しかし、話を途中で打ち切ったりするわけだから、「受け」が良いとも思われない。しかも、「表立つこと」がないために、、国会議員であれば、あまりつきたくはない役回り。ということになろうが、そのような人材あって、初めて党は機能するのである。
国会議員の年数を経ていない。私には、どうもそのようには思えないのである。
そのような役回りを避け、「自らの主張を述べたいだけ」このように思えてならないのである。皆が主役になりたくても、「役どころ」には限りがある。今は、幼稚園などでは「桃太郎」がなんにっも登場したり「桃子」なるものを登場させ、「したい役」が多くの方々に割り当てられるように配慮されているとも聞くが、今後、そのような人たちが、大人となったときに。「機能」することができるのか、憂慮するところであるが、すでに自民党は、そのような政党になりつつあるかに見える。(それでも雇うよりはよほどましであるが。。。)
幼稚性が増している。
日本全体の縮図なのかもしれないが、どうもそう思えてならないのである。
現在CMで、生産者(漁師)と消費者をつなぐようなものがあるが、ほかにも、海である以上「海上保安庁、外洋に出れば、海軍(各国の)も関連してくる。勿論、原油、精製。さらには造船、鉄鋼なども携わっているし、輸送業者も、販売業者もまたつながっているのである。またそこには、警察、道路整備なども関係するし、電力もなければ、販売できないのだから、このような業者もまた、一匹の魚を売るために、関係するのである。(行政という意味では、政治も関連する。
政治に関心を持たれなくとも、政治と無縁で生きることはわが国ではほとんど不可能なのである。だからこそ政治には少しでも関心を示したほうが、「お得」だと思うし、「興味」「関心」から「参加」したいとお模様にもなるのではないかと思う。
多くの方々が政治活動に参加することこそが、「政治が自らの主尤物」であるかのように考える「左翼」をのさばらせなくするのである。
明日からまた三連休になる方も多いだろうが、ぜひ、どれだけ多くの方々が、関係しているのかについて考えてもらいたいと思う。
そのような発想が「奥深さ」を呼び覚ますであろうし、「居丈高」を戒めるであろうし、「社会の重石」「アンカー」ともなるのではないかと思う。
「皆fが活躍する社会」とは、皆が主役になれる社会ではない。「それぞれ役どころを知る、尊重する」社会ではないだろうか。。。
「恙無く」とはそのような意味ではないだろうか???
私は、「体育の日」は東京五輪の開会式を記念したものである以上10月10日に戻すべきと思っている。それでも、月曜日には国旗を掲げ、お祝いしましょう。
文責 上田 和哉