両目ともに0.1以下と測定されている私が、1冊の本を読み、たった一日眼鏡を外して過ごし、簡単な瞑想(トレーニング)をしただけで、眼鏡なしで車の運転ができるようになった。
驚異的だ。
この本に出会えたのも、私が眼鏡(コンタクト)を外し、視野を広げる準備が出来たからに違いない。眼と心を曇らせて観ないようにしてきた人生の影に対面する時期が来たのだ。「今」「ここ」にいて、人生の過程を味わうために。
そもそも、視力が落ちるのはなぜか?大多数の人は、読書やパソコン、そして遺伝などの物理的な影響のためと思っている。もちろんそれらの影響もあるにはあるが、実は、多くの場合、視力が落ちるのは、見るに堪えないような出来事に遭遇した後だ。
恐怖や悲しみや怒りなどのストレスを感じた時、私たちのエネルギーフィールドはキュッと収縮する。それは、何かに襲われた時に身を縮めるのと似ている。
そして、その恐怖や悲しみが大きければ大きいほど、それを感じたままではいられないので、心にくもりをかける。もしくは、恐怖や悲しみを表現して排出できないような場合にも同じことが起こる。感情にフタをしてそれへの自覚を麻痺させるのだ。
その心理的な状況が視力にあらわれる。もちろん、視力以外のところにそれを表出させる人もいるが、視力が弱い人の場合、矯正レンズが必要になる1年以内くらいに大きなストレスがある場合が多いのだ。
私が眼鏡をはじめてかけたのは、高校2年生。それまで1.5だった視力がガタンと落ちた。編み物に熱中したせいだと思っていた。でも、違った。熱中して編んだセーターの持ち主に別れを告げられたのが原因だ。きっとそうだ。
その時、私は泣かなかった。私を振る男がおかしいんだと強がった。その後、摂食障害を起こしたことを考えても、その時のストレスは大きかったはずだ。でも、私はその状況が辛くて直視することが出来なかったのだ。ダイエットのために食べないんだと自分自身に言い聞かせていた。
そして眼鏡をかける。どんどん度が強くなってくる。大学に入る頃にはコンタクトの生活。その後、日常生活では基本的にコンタクトを着用してきた。
コンタクトや眼鏡は、私たちの視力を回復してくれるものか?
否!
それら矯正レンズは、私たちからより一層見る力を奪っていくだけのものだ。足を骨折したからといって、一生松葉杖をつくのと同じ状態だ。
それでも、眼鏡を外して見えるようになるとは思いもよらないし、しかも、眼鏡をかけるようになった理由が恐怖や悲しみから眼をそらすためなのだから、そう簡単に眼鏡をはずことなどできない。外したとして、恐怖感や無力感、焦りや苛立ちから、すぐに眼鏡に手を伸ばす人がほとんだという。
眼鏡を外したら、「あの時の恐怖」と向き合わなければならないのだから...。
逆に考えると、矯正用のレンズを身につけることで、その時の状況を大事に保存したままでいるということでもある。
矯正レンズは、焦点を固定し、自由にものを見ようとする目の自然な動きを制限する。しかも、限られた視野でしか焦点が合わないようになっている。レンズの外のものは見えない。
つまり、レンズをつけることで私たちの視野は制限されていることになる。広い視野で人生や世界を観てみたいなら、まずはレンズを外すことから始まる。
この話を聞いて思い出したのは、学生時代アルペンスキーヤーだった頃のことだ。
初心者でスキーを始めた私は、最初はスキーをコントロールするのもままならない。なのに、出来るだけスピードを出して旗門の間を通らねばならないという状況に対面していた。
その時、恐怖に包まれていた私の視野に在ったのは、自分のスキーの先と、辛うじて次の旗門くらいまでだった。コントロールできないスピードも恐怖だった。何がなんだかわからないうちにゴールするかコースアウトするか転ぶかのどれかだった。
それが、練習を重ねて技術が身についてきた頃、スタート地点に立って見えたものは、眼下に広がるコースの全てだった。それまでからは考えられないほどに広がった視野。旗門も先の先の先まで見える。一つ一つのターンがスローモーションのようで、自分の身体がどう動いているかが自覚できる。
感覚的には遅く感じるのだが、実際のリザルトは、経験者男子にも劣らないものだった。
「恐怖が視野を狭めている」ということは、すでに体験していたことを思い出したのだ。
恐怖が視野を狭めて、レンズがそれを固定する。恐怖を手放そうとしても、レンズがそれを邪魔しているならば、その恐怖が在ることにすら気づくことが出来ないだろう。でも、恐怖を手放す準備ができていなければ、レンズを外すこともまた恐怖になってしまう。
私の場合は、先に心理的な負荷を解放する準備が整っていた。その準備が整ったのは、ホメオパシーやフラワーエッセンス、日々の洞察などによるものだろう。だから、本を読み始めてすぐに眼鏡を外す決意をし、どうしても必要な時には度の弱い眼鏡を着用することにしてみたのだ。
レンズを外したその時に大切なことは、「見ようとしないこと」だ。焦点を合わせようとせずに、全体を捉えるようにする(それを著者はオープン・フォーカスと呼んでいる)。見ようとせずに、見えるものだけを見る。ぼけていることも気にしない。
そして、見えるものがあったなら、その輪郭を眼で追うようにしてみる。とにかく焦点を絞らずに眼を動かし続けるのだ。なぜなら、それが本来眼が持っている自然な動きだから。
「人は、自分の見たいものしか見えない。」と言われているが、そのことがよーく理解できた。大人の私たちが外界を見るとき、私たちは既に何らかの期待を持って眼を向けているということに気がついた。外界に何かを求めているのだ。
そして、その求めているものとは、既に自分の知っているものでしかありえない。知らないものは求めようがないのだから。
だから、本気で何かを知りたいのなら、何の期待もせずに外界を眺めることだ。自分が何かを見ているのではなく、外界が自分を観ている意識で眺める。オープン・フォーカスで...。
1日それで過ごしてみた。
視界がハッキリしているわけではないが、見ようとしなければさして困ることはないのだと気がついた。必要なものは、目に飛び込んでくる。
そう。私が見るのではなく、対象が私の視野に飛び込んでくるのだ。
そして、近所を散歩してみた。見慣れた風景なはずなのに、そこには見たこともない風景が広がっていた。新鮮な生き生きとした世界だ。
オープン・フォーカスで世界を眺める時、私は「今」「ここ」にいることを余儀なくされる。そうしなければ、身動きが取れないからだ。つまらないことを考えている暇などない。その瞬間への洞察を深めざるを得ないのだ。オープン・フォーカスでみることは、即ち、瞑想なのだ。
視野をオープンにする時、私たちの心もまたオープンにならざるを得ないのだ。驚異的な体験だった。
そして、夕方、雨が降っているので、子供の迎えは車になる。多少の恐怖感に襲われたが、必要な時はすぐに眼鏡をかけられるように準備し、車を発進させた。
何の問題もない!必要なものは見えている!
あぁ、なんてことだろう?20年近くの間、眼鏡なしで生活できるようになるなんて考えてもみなかった!
それ以上に素晴らしいのは、「今」「ここ」にいることができるようになることだ。全ての瞬間の煌きを捉えられるようになるのももうすぐだと確信できる。視力が上がるのは、ハートをオープンにするついでに起こるオマケのようなものだ。
このオープン・フォーカスを続けていると、一般的には目に見えないと思われているようなものも見えるようになってくるという。例えばオーラやプラーナなど。
何しろ、物理的に両目がつぶれた人でも視力を取り戻せるのだから...。
この本は、矯正レンズを身につけている人にのみならず、人生への洞察を深めたい人全てにオススメできるものだ。眼が悪くなくとも、人生の影と対峙してそれを手放すことにも役立つだろう。
この本を紹介してくださったあるく。さん、心より感謝申し上げます
本当にありがとうございます
◆近視は治る ジェイコブ・リバーマン 日本教文社
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