チャクリー王朝史チャクリー王朝は、現在まで9代続いている現王朝。 ■ラーマ1世■ ブッダ・ヨートファー・チュラーローク王(1782~1809年)1737年生―1809年没 アユタヤ王家の血を引いており、アユタヤー時代の士官、チャオプラヤー・コーサーパーンの子孫と言われる。 王位に就くと、都をトンブリーからチャオプラヤー川東岸のバーンコーク村へと遷都した。 ラーマ1世は、先代のタークシン王と同様に旧王都アユタヤーを国家の理想郷として、 政治・経済・町並みに至るまで、すべてにアユタヤー様式を模倣した。 破壊されたアユタヤーの寺院からレンガを運び込んで新都に王宮を造り、守護寺ワット・プラケオを建立。 そして周囲に堀と城壁を築いて外敵の侵入を防ぎ、全盛時のアユタヤー以上の確固たる王制を確立した。 さらに仏教法典を整理しなおして仏教国家としての基盤を固め、 これまでの王朝になかったほど手厚く仏教を保護した。 ■ラーマ2世■ ブッタ・ルートラー・ナパーライ王(1809~1824年)1767年生―1824年没 ラーマ1世の息子。 ラーマ2世は、タイの文豪の一人にも数えられる。 文学面での功績は大きいが、 ブンナーク家などの貴族に内政を任せっぱなしにしていたので、政治的にはあまり実権を持たなかった。 ■ラーマ3世■ ナンクラオ王(1824~1851年)1788年生―1851年没 ラーマ2世の息子。 ラーマ3世も、父王譲りの詩人で、叙事詩『クン・チャーン=クン・ペーン』の作詩にも関わった。 この治世には戦乱が減ったため世の中の安定によってインフラの整備を精力的に行うことができた。 また、ラーマ3世は信心深い国王としても知られる。 仏日には功徳のため貧困層の人民に食料を配給したり、動物を人間の手から解放したりした。 ラーマ2世と、2代にわたってバンコク市内に以前からあったワット・ポーなどの古い寺院を修復したり、 ワット・ラーチャナダーといった新しい寺院を建立したり、 50以上の寺院を建立・修繕して、仏教国の王都にふさわしい陣容を造りあげていった。 ※ラーマ3世は51人もの子を残したと言われている。 ■ラーマ4世■ チョームクラオ王(モンクット王)(1851~1868年)1804年生―1868年没 ラーマ2世の息子。ラーマ3世の異母弟。 元々は兄のラーマ3世よりも彼の方に王位継承権があったが、学業専念のために兄に王位を譲り、学問を続けた。 20歳から出家し、即位までの27年間ワット・ラーチャティワートで僧院生活を送っていた。 その間に学識と語学力、西洋文化に対する造詣などを深め、 乱れ始めていた仏教を正すリバイバル運動を起こしタマユットニカーイ派を生み出した。 ラーマ4世は、 1856年イギリスと通商条約(ボウリング条約)を締結して、それまでの鎖国的状況から門戸を開いた。 これは、王室による独占貿易によって行き詰まっていた経済に活を入れ、 主力生産品である米を輸出し外貨を得る方策に移行するため。 これによってタイの農業は、自給自足経済から世界経済に組み込まれ、生産性が飛躍的に拡大した。 チャオプラヤー川流域に運河網が発達し、平野部が一大水田地帯と化したのはこの時から。 そして、この後、列強諸国と次々に条約を結んで市場開放政策を推進して経済を立て直していった。 さらに、西洋文化と文明に深い関心を寄せていて、 シャム国の発展のためには西洋式学問と文化によるよりいっそうの近代化が必要と考え、 王族や貴族の子女たちに盛んに外国語と西洋文化を学ばせた。 1862年に自分の子供たちの家庭教師にとシンガポールから家庭教師を雇い入れた。 その女性が、イギリス人アンナ・レオノウェルズ(Mrs. Anna Leonowens)であった。 ★彼女の自伝は、マーガレット・ランドンの小説 「アンナとシャム王」 のモデルとなり、 この小説を舞台化したのが、ブロードウエイでロングランを続けたミュージカル「王様と私」。 その後、1999年ハリウッドがこの映画をリメイクしたのが「アンナと王様」。 ※彼女の宮廷生活を綴った自伝は、本人の身の上話からすでに嘘で塗り固めた自慢話だとか…。 ※いずれもタイ国内では上映上演禁止になっている。映画のタイ国内ロケも政府によって拒否された。 ※ラーマ4世は62人もの子を残したと言われている。 ■ラーマ5世■ チュラチョームクラオ王(チュラーロンコーン大王)(1868~1910年)1853年生―1910年没 ラーマ4世の息子。 ラーマ4世が日食を見学に地方へ行った際マラリアに感染して死去して、 ラーマ5世は、若干15歳で即位した。 現在でもタイ国民の間で敬愛され、タイ国民なら誰でもその名と功績を知っていて、まさに歴史上の英雄。 即位するとすぐに欧米に視察旅行をし、タイの立ち後れを実感して、数々の改革を行った(チャクリー改革)。 まず、司法・行政改革を断行した。ヨーロッパ諸国の制度を見習って、 1874年に議会制度の前進となる国政協議会と枢密院を創設。 1892年に近代的な行政のために省庁を設置。 1894年に地方行政組織を整備して、県政を敷き、中央集権国家を確立。 さらに、税制を見直して財政を整え、 1896年に国家予算を立て国家行政を運営。 また、国全体の近代化のためには教育の普及が不可欠と考え、 1884年に王族用・一般用の学校を創立。奨学金制度も導入した。 他には、 電信電話業務を創始。 ラーチャダムヌーン大通りを王宮からドゥシット宮殿まで通し、その周辺道路など、市内交通網を整備。 バンコクから約250km離れた東北部のナコーン・ラーチャシーマーまでの鉄道を敷設。 最も偉大な功績は、 1905年に30年もかけて達成した奴隷(不自由民)制度の廃止。 この頃、 ビルマとマレーシアはイギリスに占領され、ベトナムはフランスに占領されていた。 タイも狙われていたが、王はこれを防いだ。 ※ラーマ5世は、5人の王妃のほか、160人以上もの妾を囲っていたと言われ、子供の数は77人と歴代最高。 ワット・プラケーオに併設された宮殿だけでは事足りず、ドゥシット宮殿を建設した、だとか…。 ■ラーマ6世■ モンクットクラオ王(ワチラウット王)(1910~1925年)1880年生―1925年没 ラーマ5世の息子。 ラーマ6世は、文化と文芸の才に優れた王であった。 歴代国王を「ラーマ*世」と呼ぶことに決めたのは、実はラーマ6世である。 タイの国王として初めての海外留学をして9年間イギリスに滞在した。 1910年11月に即位すると、ラーマ5世が始めたチャクリー改革を推し進めた。 1911年にボーイスカウトを導入(世界で3番目)。 1912年に名字令を制定して国民に名字を持たせた。 1917年に国旗をエラワン白象旗から現在の赤白青の3色旗に変更し、仏暦を導入して祝祭日を制定。 1921年に小学校令を定めて教育の普及に力を注ぎ、義務教育制度も導入。 1922年に赤十字協会を設立。 他には、ラーマ5世が創立した文官養成学校を現在のチュラロンコーン大学へと発展させたり、 チャオプラヤー川にかかる最初の橋の建設に着工、ドン・ムアン空港を整備、 シャム国で初の銀行を創設などを行った。 1917年7月22日、第1次世界大戦に連合国側から参戦することに決め、 これによってシャム国は国際連盟に加盟することになり、独立国家としての国際的な地位を確立した。 ラーマ6世は、文学演劇に造詣が深く、 シェイクスピアの戯曲をタイ語に翻訳したり、日本を題材にした小説を書いたり、自ら演技もした。 また、その文才を生かして諸外国の言語から多くの新造語を作り、タイ語の語彙を増やした。 しかし、国家財政の管理は放漫で、1912年には王制打倒の反乱計画が発覚したほど。 結果的にはこの時代の放漫財政が後のチャクリー王朝の苦境を招くこととなった。 ※ラーマ6世は、西洋に倣い多妻制を廃止した。 ■ラーマ7世■ ポッククラオ王(プラチャーティポック王)(1925~1935年)1893年生―1941年没 ラーマ5世の息子で、ラーマ6世の異母弟。 ラーマ7世は、急遽国王に即位することになり、本人も王位を望んではいなかったよう。 軍事関係の仕事の方が好みで、留学後も陸軍の指揮をとっていた軍人だった。 この時代は、世界が大恐慌に襲われた最悪の時期で、シャム国も危機に瀕していた。 そのうえ、前国王による緩んだ財政のしわ寄せもきて、国家財政難は日に日に深刻化した。 ラーマ7世は、この危機を打開するためにいくつもの「合理化」改革を断行。 王室予算を最盛期の1/3に切り詰め、国家予算を節約するため官吏の大幅人員削減を行った。 しかし、これが権力者たちの不評を買い、結果的には大失敗してしまった。 1931年に眼病手術のためアメリカを訪れた時から、議会制導入を考えるようになり、そのための憲法草案を作成。 しかし、発表段階になると王族の猛烈な反対に遭い実現せずに終わった。 そして、 1932年6月24日、ラーマ7世がホアヒンの離宮で保養中に、 プリディー・パノムヨン率いる人民党による立憲革命が起こり、 同年6月27日に臨時憲法を、12月10日に新憲法を、それぞれ公布。 これにより、150年間続いてきた絶対王政に終止符が打たれ、立憲君主制国家として生まれ変わった。 王制は新国家の象徴として存続され、国王は国家元首となった。 その後しばらく王制派と民主派との争いが続いた。 革命の真の目的は権力と利権欲によって汚されていて、 ラーマ7世が理想としていた人民のための民主主義とは違っていた。 1933年に眼病の治療と称してイギリスへ赴き(逃げ?)、 1935年に自らの意思で退位。 絶望したラーマ7世はその後二度とタイの地を踏むことはなく、 1941年に異国イギリスで死去した。 遺骨となってタイへ帰還されたのは、8年後の1949年だった。 ■ラーマ8世■ アーナンタ・マヒドン王(1935~1946年)1925年生―1946年没 ラーマ5世の孫で、ラーマ7世の甥(異母兄の息子) ラーマ8世は、即位した時わずか10歳。しかもスイスで学業中。 そのため、人民党の文官派のリーダーだったプリディパノムヨンが摂政に置かれた。 1939年10月3日ルワン・ピブーンソクラーム首相によって、国名が「シャム」から「タイ」に改名された。 ※1945年に一旦「シャム」へ戻ったが、1949年に再び「タイ」に制定された。 第二次世界大戦では、タイは「中立宣言」をしたが、 1942年にピブーン首相が日本と「日泰共同作戦ニ関スル協定」を締結、米・英に宣戦布告したが、 1945年の終戦と同時に、プリディ摂政は宣戦布告を無効と公表した。 (…だからタイは敗戦国じゃないらしい。) ラーマ8世は、 1925年にスイスのハイデルベルヒで誕生。 1935年に国会の決定で即位したが、スイスで学業を続けた。 1945年に学業を終えて2度目のタイ帰国をしたが、翌年、 1946年に謎の死。 ★『ラーマ8世の死』…タイではこの問題に深入りすることが今なおタブーとなっている。 1946年6月9日午前9時頃、ボロマビマン宮殿で1発の銃声が響き、 駆けつけてみると、ラーマ8世は死んでいて、そばに拳銃が転がっていた、と言われている。 公式には「銃器取り扱い中の事故」と発表されたが、 警察が「銃弾が上腕部を貫通して頭部に達した」との報告もした。 この事件に関して、国内外で事故説、他殺説、謀略死説、暗殺説、自殺説など諸々の説が飛び交った。 当時の内閣は事故の責任をとって総辞職し、 数年後、当日王室警護にあたっていた数人が事故関係者として処刑されたが、 王室不敬罪が適応される事件なので、背後関係など全く明らかにされず、真相は未だもって不明。 ※後に、ラーマ9世の協力の下で調査したウィリアム・スティーブンソンは、 その著作『The Revolutionary King』で証拠を提示し、 旧日本軍の参謀・辻政信による犯行の可能性が高いと示唆したという。 ■ラーマ9世■ プーミポン・アドゥンラヤデート王(1946年~)1927年生 ラーマ8世の弟。 1927年12月5日、アメリカのマサチューセッツ州ケンブリッジで誕生。 1945年にスイスのローザンヌ大学での学業を一旦休学して、兄王とともにタイへ帰国。 1946年に兄王が怪死したため、兄王の死後12時間後、19歳の弟王子が電撃的に国王に即位。 すぐにスイスの大学へ復帰して、学業を終え、 1950年にタイへ帰国。 同年4月28日、17歳のモン・ラーチャウォン・シリキット嬢と長い交際の末華々しく結婚。 ※シリキット王妃は、フランス大使兼陸軍大将の娘であり、ラーマ5世の孫でもある。 フランスに滞在していて、その時にプーミポン王に見初められた。 同年5月5日、正式に王位を継承したことを示す盛大な式典を行った。 1956年に仏門に入り、一時的に俗世間を離れ、再び復帰。 その後、一男三女をもうけた。 官僚、軍部が着実に政治的力を付けた20世紀の中で、 国内が混乱するかに見えた時も、事態の収拾に見事なまでの政治的手腕を見せ、タイ国に安定をもたらしている。 また、地方視察も非常に精力的に頻繁に行い、王室行事には欠かさず立ち会う、という多忙ぶり。 そういった国王の優れた人格と知性は、国民の信頼・支持を得て敬愛されている。 プーミポン国王は、とても活動的な王である。 農作物の研究を続け、王宮内に研究用の牧場と農園を持ち(自前のブランドを持っている)、 ヨットを作ってレースに出場(東南アジア大会で優勝)、 作曲をこなしてジャズバンドで演奏(ブロードウエイのミュージカルにも使われた)、 どこへ行くにもキャノンの一眼レフを離さず(写真集も出版されている)、 油絵を描き(国立美術館に飾られている)、 映画も作る、 といった多彩な趣味を発揮。 ※王室主催のヨットレースが毎年開催されるらしいが、国王と言えども楽に勝たせてもらえない、だとか…。 ※写真を雑誌に毎月投稿されているらしいが、謝礼は一般投稿家と同じで数十年間据え置き、だとか…。 長女:ウボンラット王女(1951年生) 長男:ワチラロンコーン王子(1952年生) 次女:シリントーン王女(1955年生) 三女:チュラボーン王女(1957年生) ※王位継承権を持っているのは長男と次女。 ワチラロンコーン王子は、 1972年に皇太子としての名称を付与され、王位継承権を得た。 しかし、市民と衝突し多くの犠牲者を出した「反民主主義的」な軍隊に荷担していたことや、 結婚離婚を繰り返していることなどが、「素行が悪い」と言う評価を暗黙のうちに作り出し、 不敬罪に触れる可能性があるため公の場で議論されることはないが、一般的には印象が悪い。 シリントーン王女は、 1977年に皇太子としても名称を付与され、王位継承権を得た。 情報技術の発展に力を入れており、『情報技術の王女』とも呼ばれる。 また、1990年代以降、高齢のラーマ9世やシリキット王妃に変わって、地方視察の公務を行っている。 精力的に行う地方視察では、他の王族とちがい笑顔が多く気さくに振る舞うことから、人気が高い。 しかし、人気は高いものの、独身であり、跡継ぎが産めないことが王位継承の問題点の1つになっている。 ※長女ウボンラット王女は、 アメリカに留学中、家族の承諾なしに、アメリカ人と21歳で電撃結婚。(離婚済) 外国人と結婚したため王族籍は消滅したが、離婚したことで国王の外戚として王族扱いを受けている。 3人の子供のうち、息子のプム・ジェンセンをスマトラ島沖地震で亡くした。 |