カテゴリ:昭和いろいろ
ジーンズを日本で始めて履いた男。 今回は僕の尊敬する昭和ダンディー・OILY BOY(カーキチ)こと 「白洲 次郎/しらすじろう」にスポットを当ててみよう。 白洲次郎占領を背負った男 故白洲次郎氏をブログにしようとするだけで、この俺が緊張するぐらいイカス男である。 きっと男性からも、女性から見ても、文句なくホレてしまいそうな、 日本一美しくイカス男ではなかろうかと思う。 顔立ちだけではない、生き方、LIFEスタイル、経歴、考え方すべてにおいて 紳士の哲学“プリンシプル”を 尊ぶイギリス仕込みのダンディズムは終生変わらなかった。 僕はNHKの(その時歴史が動いた)で初めて知ったのだが、 学校の日本史で教わるような人でもないし、表舞台ではほとんど活躍していない白洲氏、 しかし、調べればしらべる程、彼の魅力に引き込まれてしまう (白洲氏のベントレー3000。公職引退後も80才過ぎまでポルシェ911を乗り回す) 1902年2月17日、兵庫県生れ。180cmを超す日本人離れした長身&ダンディな風貌。 17才でケンブリッジ大学に留学、1928年・26才まで英国で過ごし、ブガッティとベントレーを 乗り回しつつQueen's Englishと英国流のマナー・着こなし・コミュニケーションを身につける。 彼は憲法草案の段階では 「終戦連絡事務局参与」という役職であり、日本政府の要人であったことは確かだ。 次郎は数多くの伝説エピソードを残している、 ●昭和天皇からダグラス・マッカーサーに対するクリスマスプレゼントを届けた時に、 プレゼントがぞんざいに扱われたために憤激して 「仮にも天皇陛下からの贈り物をその辺に置いてくれとは何事か!」と 英語で怒鳴りつけ、持ち帰ろうとした次郎にマッカーサーを慌てさせた。 マッカーサーは当時、神と崇められるに等しい存在だったが、白洲次郎に申し訳ないと謝った。 それはGHQをして、従順ならざる唯一の日本人と言わしめたほどであった。 彼にとって、「日本は敗戦国であるが、奴隷になったのではない」という意識を 常に保ち、日本人としてのプライドとアイデンティティを捨てることなどできなかったようだ。 それを裏付けるエピソードとして、彼の堪能な英語力に感心したGHQ/SCAP民政局長の ホイットニー准将にそれを誉められると、 「あなたもしっかり勉強すればもっとうまく話せるようになる」と端然として答えたという。 このエピソード単なるジョークで返したようにも見えるが、そんな簡単なものではない。 白洲が学んだのは正統派キングス・イングリッシュ。要するにアメリカ統治者に向かって、 お前の英語は田舎臭いんだよ!。と言ったのに等しいのだ 白洲次郎の流儀 サンフランシスコ講和条約締結の全権委員団顧問として出席。同行時の服装は アメリカをあざけ笑うかのように、「カウボーイの国にはこれで良い」とTシャツ・Gパン姿 これがまた良く似合う! (ポール・ニューマンとジミーをたして2で割ったイケメンだが映画スターではない、 しかし晩年、友人、三宅一生のモデルを引き受けた経験をもつ。) 条約締結では演説原稿を英文から日本語の巻紙に改めさせ、 羽織袴姿で吉田茂に読み上げさせるなど、彼らしい武士道で負けん気の強さを遺憾なく発揮! 沖縄返還要求を急遽条文に織り込ませたのも彼のアイディア 少資源国日本が生き残る道として、産業政策を輸出主導型へ転換させようと、商工省を解体し 通産省を設立したのも白洲である。当然官僚たちの凄まじい抵抗があったが、それをなし遂げる政治力は「白洲三百人力」と言われた。 また晩年は乞われて「軽井沢ゴルフクラブ」の理事長になったのだが、 「洗面所のタオルを無断で持ち出さないでください」という理事長の張り紙を無視した、 当時の大物政治家田中角栄に 「おい、お前は日本語が読めねえのか」とやったそうである。 角栄は他にも「おい、お前はスパイクより地下足袋のほうが似合ってんじゃねえのか」 ともやられたそうで、権力を手にしたコンプレックスの強い男の一番痛い所をグサリと突く 白洲次郎の手腕には感心する。それでいて女性従業員には優しく接するジェントルメン振り。 <白州次郎年表> ・1902 (2月17日 兵庫県芦屋において出生。) ・1919 ( 神戸一中を卒業。ケンブリッジ大学クレアーカレッジに入学) (生涯の友ロバート C. ビンと出会います、 ストラッフォード伯爵家の御曹子。 車好き、英語でいう「オイリー・ボーイ」で、次郎の車熱に拍車がかかりました。 ベントレー、ブガッティを所有し、週末はレースに熱中。 ロバートとベントレーで長い旅行にも出ました。 一方、寄宿舎では英国流の紳士道を徹底的にたたきこまれます。) ・1925 (ケンブリッジ大学卒業) ・1928 (大学院で中世史を専攻。実家の「白州商店」倒産のため帰国) ・1929 (樺山正子と結婚。ジャパン・アドヴァタイザーという英字新聞の記者となる。 後、セール・フレーザー商会の取締役) ・1937 (日本食料工業の取締役に就任。吉田茂と親交を持ち、英国大使館を常宿とする。) (この年日独伊三国防共協定締結 ) ・1940 (開戦と敗戦を予見。仕事から手を引いて、鶴川村で土地を購入、農業をはじめる。 一方吉田茂の反戦グループに参加。) ・1941 (日米開戦 44年以降白州の予想通り日本は食糧難に陥る) ・1945 (終戦連絡事務局参与に就任。GHQにガツンといってやれた唯一の日本人となる。) ・1946 (日本国憲法成立に立ち会う。終戦連絡事務局次長に就任) ・1947 (終戦連絡事務局次長退任) ・1948 (初代貿易庁長官に就任。商工省を改組、通産省を成立させる。) ・1951 (電力会社の分割民営化推進。東北電力会長に就任。 サンフランシスコ講和条約締結の全権委員団に同行) ・1959 (東北電力会長退任, 荒川水力発電会長、大沢商会会長、大洋漁業、日本テレビの社外役員、 等を歴任,軽井沢のゴルフクラブの理事長) ・1985 (11月28日 有名な、たった二行の遺言書「葬式無用、戒名不用」を残し逝去、享年83才。。) 白洲流の生き様を真似ることは到底できるものではないが、アメリカ(欧米人)に弱い現代日本、 二次大戦の敗戦によって失われつつあった、誇り高き侍魂、 (北朝鮮問題に躊躇、決着できぬ、腰抜け現代日本!) 彼のMADE IN BRITAIN’武士道を今だからこそ考えるべきなのであろう ◆白洲夫妻が暮らした旧白洲邸◆ <彼は敢えて都会から離れたカントリージェントルメンLIFEを選んだ。> もっと白洲次郎を知りたい方は プリンシプルのない日本 白洲次郎的 風の男白洲次郎 白洲次郎の生き方 ☆楽しめた人はPUSH!☆ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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