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現在形の批評

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Sep 26, 2005
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カテゴリ:劇評
現在形の批評 #1(舞台)


演劇でしかできない「演劇」とは


現在の若い世代の舞台作品-とりわけ関西に限ってみても-はコメディか身の回りの小世界を扱ったものが主流である。2005年2月から7月までロクソドンタという劇場で行われた演劇フェスティバル(注)の一般審査員を終え、よりその実感を強めた。


例えば、6月4日に上演された劇団ババロワ#『よそいき。』(作・演出 高瀬和彦)も例に漏れず、昨年からの純愛ブームと笑いを織り交ぜ、同世代の観客がすんなりと作品世界に投入できるように作られている。しかし、その内容は決して質の高いものではなかった。


小説家志望の柴原修平(平中功冶)宅から、同棲相手である木下アカリ(高橋恵美子)が出て行き、お見合いパーティーに参加する。しかしそれは、木下が柴原の本当の気持ちを確かめるべく行った愛情を計る行為であったのだ。それを柴原は勘違いし、彼女を取り戻すべく自らもパーティーに参加。最後は誤解が解けハッピーエンド。


途中、柴原が執筆中の小説(恋愛物)をメイドとしてやってきた小村マキ(向田倫子)の助けを借りながら展開する場面がある。採用したアイデアとは、柴原と木下が前世からずっと運命的に繋がって、決して離れることはできないという願望を含めたものだ。これは柴原と木下の関係の伏線にもなり、ラストの復縁へと繋がるのだが、それが弱い。小説世界で前世まで遡り、柴原と小村が劇中劇まで演じたのなら、そこから時空を越えた冒険譚といった具合に破綻するほどのめり込んでゆく幻想物語にまで発展できなかっただろうか? 終始現実世界の恋愛事情を描くのなら、別に劇場へ行ってまでわざわざ観なくても「セカチュー」を読めばいい。


身の丈にあった芝居では衆目に見透かされなめられてしまう。演劇が孕む制度を援用または裏切って、観客の意識をかっさらってくれるような芝居が観たい。彼らにも日常に対する違和があるはずである。それを如何に虚構として成立させるために不審しているか。「私たち」の問題として想像力の触手を椅子に座っている者の肝を捉えるか。その格闘の様が一瞬でも垣間見られた時に、同世代の心情を代弁する集団への第一歩が始まるのだ。


(注)ロクソドンタフェスティバル
「「演劇なのに、戯曲にしか賞がないのはおかしいじゃないか!」という大疑問を解消すべく、アマチュアからプロへの橋渡しととして小空間における表現を劇場と劇団が共に探ることを目的とし、意欲的な活動を実践している劇団を応援している演劇祭」「 2003年に第一回目を開催し、それ以降毎年回を重ね」ている。「団体及び審査員は自主参加形式によって選ばれ」、2006年ロクソドンタフェスティバル4から「フェスティバルで上位入賞団体は、年末に芸術創造館で行われる大阪セレクション(主催 大阪市)へ」の再演資格が与えられている。(劇場HPより抜粋)





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Last updated  Apr 11, 2009 02:50:46 PM



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