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現在形の批評

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Nov 6, 2005
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カテゴリ:劇評
現在形の批評 #16(舞台)

劇団Φ太陽族 『晴れて風無し』

「劇団Φ太陽族」は1982年、大阪芸術大学舞台芸術学科1回生を中心に旗揚げされ、「劇団☆新感線」や「劇団そとばこまち」らと共に当時の関西演劇ブームの一役を担った劇団である。

11月6日 大阪・精華小劇場 ソワレ


イメージの共有


人は生きている限り様々な出来事に直面する。出来れば不幸には遭いたくない。日々の小さな不幸から不慮の事故に至るまで。何がきっかけで地に落ちるか分からない。しかし、時につらくともそれを引き受け、前を向いて生きなければならない。 こういう当たり前のことを含蓄を込めて伝達する際は、説教臭い押し付けにならないよう特に注意を払わなければならない。それを作・演出の岩崎正裕はイメージの連鎖を駆使し、やわらかく観客に伝える。


とある会社の一室で会社員が明日のソフトボール大会の粗品であるお菓子の袋詰めをしている。繁雑なその場所は倉庫であろうか。彼らの仕事はいわゆるショムニ。話はこの会社の社員達の身の回りの出来事-そのでも社の金を使い込みが発覚し、今にもクビが危ぶまれる大橋(森本研典)-とJR福知山線の脱線事故がシンクロしていく。


日常の社内風景があるものによって一変する。それは舞台奥の扉である。その扉をくぐれば過去や未来へ行けるというのだ。この扉は極めて現代的な性格を有している。行き先はどこでもドアやタイムマシンのように、扉をくぐる者が自由に行きたい時代を設定できないのだ。確かに、手の甲でノックをすれば過去へ、手の平でノックをすれば未来へと行くことが出来、また叩く回数に応じて日数の調節も出来る。しかし、登場人物達はノックをせずに突然扉をくぐって来たかと思えば数日過去、あるいは未来の人物に変化する。この辺りの設定はどうもあやふやである。もしかしたら、扉を使用する側の意思をよそにランダムに時世を飛ばされてしまうのかもしれない。いずれにせよ、そのことはそれほど気にならない。なぜなら、私達が生きるこの世界において、個人の自由意志などあってなきものであることを知っているからである。行き先の決定権はドアの側にある。日常生活ではその時、置かれた環境によって私達は生かされ、その条件に決定させられているに過ぎず、個人の意思や内面も容易に環境に左右されるのだ。ドアは回転式になっており、一周すれば時世が変わる劇構造になり、次の展開がスムーズに進行する。このドアは非常に効果的であった(美術・今井弘)


そんな扉を行き来する人物の一人である松尾(南勝)はもう50歳は越えているであろうこのビルの整備士である。松尾は一回りほど歳の離れた女子社員、梅永(佐々木淳子)に何やら積極的である。(この2人のおかしなやり取りは大いに笑いを生み出している)それには訳があった。松尾はJR福知山線の脱線事故で娘を亡くしており、娘の遺品を瓜二つな梅永に分けていたのである。


ある山へと全員がワープするとそこは山の頂である。この間の演出も注目に値する。長く白い布を、舞台空間に敷き詰めることで山を表現したからである。そして、白い布にうっすらと当てられた青い照明が白銀の雪景色に一気に変貌させる。岩崎の得意とする視覚に訴える照明美の真骨頂である。頂には女性がいる。その女性は梅永なのか亡くなった娘なのかはっきりしないが、しばらくすると舞台奥へ消えていく。ほどなくして登場人物自身が麓から上ってくる姿が見える。登山を通して合せ鏡のように自身を見つめ問答し、懸命に一歩一歩着実に、市井の人物として何も高望みをせず人生を生きることの大切さを痛感させる。生きるとは自らの置かれた状況を引き受けることからしか始まらないことに気付くのだ。だが、その中には梅永も、娘もいない。なぜか。その場所は脱線事故が起きた先頭車両だからである。カーブに差し掛かって暗転する。人生これからという時に起こる不慮の事故。運命の儚さを感じざるを得ない。


ストレートな主張になりかねないテーマをそう感じさせないのは冒頭に述べたように、何事にも上手くいかない人間と不慮の事故から、自分ではなんとも出来ないを因子というものを抽出して描くことで、説明的にならずまた、そのことによって誰にも起きる普遍的なものとして描いているからだ。岩崎は現実と幻想(未来・過去の世界)を絶妙なバランス感覚で描き出す。現実と幻想の往来が冒険小説風で陳腐な物にならないのは、常に現実感が両方の世界で浮遊しているからである。自分が今いる現実はもとより、幻想に夢を馳せることも人間の弱さや満たされなさが含まれている。それが最も良く表れているのが、先ほど述べた山の場面である。演劇とは舞台と観客との間に共有されるべき余白の豊饒さが全てである。余白とは、作品のテーマを押し付けることではなく、舞台と観客両方が共同作業で埋めていくパズルの謂いである。


ラストシーンはこうだ。登場人物達はソフトボール大会の応援をしている。時は冒頭のシーンの翌日。ただ、大橋は状況が変わった。会社の金の使い込み発覚、会社をクビになった挙句にコンビニ強盗とハイスピードの凋落ぶり。その絶望と自己否定に打ちひしがれている。彼とかつての仲間とは今や異なる時間帯を生きているようだ。だがそんな中、大橋はチームの危機を救うヒットを打ち、小さな希望を期待させるところで終わる。


何があっても「何となく、今年はよい事あるごとし。元日の朝、晴れて風無し。」(『悲しき玩具』)と詠んだ石川啄木のような心持で、様々な因子によって日々変わる状況に左右されながら生きるため、今日という日を向かえよう。





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Last updated  Apr 11, 2009 03:02:52 PM



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