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Oct 5, 2006
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カテゴリ:劇評
現在形の批評 #43(舞台)

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チェルフィッチュ 『体と関係のない時間』

9月22日 京都芸術センター・フリースペース ソワレ

チェルフィッチュ


イチローも来たことがある


「抽象」という言葉はあまりにも曖昧模糊としていて、一般的には「わけが分からない」事象をひっくるめてとりあえず「抽象的」と規定することで、理解の為の歩み寄りを通して不断に思想することを忌避し、何事かを分かったつもりになりがちである。こと芸術がその典型のように扱われていて、「分からない」ことが良いなどと逆説の美学のようなものを雰囲気で捉えて「通」ぶるその内実は、「分からない」=「抽象」とラベリングして思考を強制終了させ、「分かった」気でいるに過ぎないのである。そのような理解は何も進展しない理解不可能の悪しき反語でしかない。


「抽象再訪」と題された京都芸術センターの企画は、その名の通り絵画や彫刻といった様々な抽象芸術を展示して「抽象」の世界に触れることによる新奇な感覚の醸成を目指したものであり、チェルフィッチュは演劇部門としての参加である。まず印象を言ってしまえば、この公演に接した私を含めた観客はとにかく戸惑ったに違いない。事実、チラシから美術家・小山田通の『他人の家』をモチーフとしていることが示されているが、実際の舞台では天井から吊り下げられたいくつかの電灯がわずかに日本家屋を設定とした舞台空間であることが分かるのみであって、平台で作られた床平面を見ただけでは素舞台にしか見えない。


この冒頭からの戸惑いにより、正直に言って私はこの作品について語るべき言葉がなかなか見つからないでいる。そのため、以下思索しながらこの舞台について書いていく事になるだろう。3人の登場人物から語りだされる言葉は語順のばらばらな文節言語である。そして発語される分節言語と分節言語には数秒の「間」があるため、我々は頭の中でまるで連想ゲームのように言葉を反芻し、語順を入れ替えてなんとか文脈を作り出そうとする作業を強いられる。しかし、しばらくすると一連なりの台詞を構成するバラバラの分節言語を記憶することなど、とてもじゃないができないという事実に直面して断念させられてしまうのだ。分節言語から成る言葉のようなものの一例を書き出せば、「子供に/妻が/ついて考える/なぜか/時は/あたかも/想像が/子供が/もうすぐ/あるいは/すでに/」といった調子で続いていく。加えて身体の動きはと言えば腕を上げる、うずくまる等の単純動作しか行わない。


チェルフィッチュの舞台はテレビでだが『目的地』を観ている。その舞台について私はあまり関心しなかった。以下その評の一部分を引用してみよう。
演じる俳優を見て私が思ったのは、『真剣10代しゃべり場』に出てくる若者の姿である。主張したいことは山ほどあるのに、人前でうまく会話できず、ディスコミュニケーション状態から脱しきれないもどかしさに汲々するあの若者である。繰り返す動作はそれの証左ではないかと。テレビで見たために余計にそう思う。『ユリイカ』2005年7月号において岡田がなぜ「だらだらしたノイジーな身体を」舞台に上げるかについて、「日常における身体は、演劇の身体としてじゅうぶんに通用するだけの過剰さをすでに備えている」と述べている。つまり、俳優訓練を行い、観客を非日常へと誘う身体をわざわざ措定する必要性がないという訳である。日常身体そのままで十分何事かを成し得るということなのだろう。目指す目論見は、日常身体同士が織り成す日常的反応をつぶさに観察することにより、人間を表層的に把握しようというものである。しかし、私はそれでは駄目だと思う。なぜなら、舞台で何かをするということ自体、演じることから逃れられなく「つぶさ」な人間性が表れることなどないからである。創られた=表現としての身体がどう現実を照射し且つ隠された真実を露呈させるか、それこそが舞台で何事かをするということである。「言語」と「身体」の不一致を目指したと岡田は言うが、それこそ2つをバラバラにすればするほど、限りなく現代人の身体的特徴を逆証するという「表現」へ繋がっていくのではないだろうか。(現在形の批評 #20
岡田の舞台で行われることは常に、身体の単純動作、言い間違いや繰り返しをも含めた長々とした長文の言語である。これは、全てが「過剰さ」で出来た世界であり、それはパソコン上で溢れる情報過多にも似た、何事をも体現することは困難で回りくどいという「今」という時代を生きる人間関係の姿と同一である。この舞台が『目的地』と比べて一目瞭然なのは、その過剰さが消え、まるで正反対であるという点だろう。一人の台詞がひたすら長い点は同じでも長い「間」があるが為に余計に冗漫さを感じるのだが、言語の洪水のような過剰さに反作用的に働くこの「間」がある種のバランスを取っている。身体は同じ動作の繰り返しとは打って変わって一つの動作、例えばかがむという動作なら、ゆっくりとかがみ込みながら台詞を喋り、最終的にその体制を大事に保存する。そして別段『目的地』のように、プロジェクターに投影された「文字」が舞台背景を取り巻く状況について説明するといったこともない。


当日パンフの岡田によるコメントには、テーマである「抽象」をかなり意識していることが書かれており、今作はジャンルやカテゴリーとしてではない「ある高み」としての「抽象」への到達を模索した実験であることは間違いない。洪水のようにあふれ出る過剰で無思想な言葉を費やすよりも、あえてバラバラにして掴めなくした文脈や「間」という時間が喚起する余韻や情緒といったものから浮かび上がる観客個々独自の解釈を手がかりに空白を埋めることで作品へ参加し、そして何かを得ることを意図されている。しかし『目的地』の際に述べたように、舞台という異界に立つための身体ではなく、丸腰の身体そのままにこだわる点はむしろ強まっているように思う。俳優が「常識の範囲の中にある語順で書かれたせりふをしゃべるときより、ずっと『イメージ』を持たなければならなくなった」とあるが、結果として、これは舞台身体の現在形の創成というよりむしろ、舞台言語に引きずられた身体の提示でしかなかった。俳優が文節言語の「間」と「間」を強調することによって舞台全体が表したのは、「抽象」をテーマにした思想概念として大文字のテンション=「イメージ」の創造の試みではなく、与えられた長い文節言語から成る台詞を俳優自身、意味内容のある文脈に一端入れ替えて理解するという意味での「イメージ」を忘れないように、言ってしまえばバラバラになった言語=台詞を本番中に忘れないでいようとする俳優個々が台詞を召抱えているような姿である。だから俳優達は個々別々に思念していることを鬱々と吐露するのみで、他者と関係性を取らない/取れないというチェルフィッチュのディスコミュニケーションの状態をスタイルを変えて提示しただけになってしまうのである。


身体と言語それ自体は「具象」である。そんな肉感的で実感があり、意味があるものから成る人間がなぜ不可思議で時として思いもよらない行動を起こす不確かなものとしてそこに在り、その集積として不確かな社会になっているかという「具象」が作り出す「抽象」の奇妙さを追求するのが芸術であろうし、それを身体という人間そのものから思想するのが演劇である。この舞台は図らずも、文節言語であっても文脈=意味内容の確立ばかりに意識が向かう役者と、私を含めた観客がいかに文字から構成される言語にがんじがらめに捕らわれているのかを露呈することになった。だからこそ「間」は単なる次の文節言語を召喚する「間」でしかなく、全く本来無駄で「関係のない時間」に観客が付き合わされることになってしまった。もし作品からもう少し意味のある「抽象」性が舞台空間を埋めることになったならば、「分からない」けど「おもしろい」、あるいは「分からない」けど「意味がありそう」と言った感想が結果として引き出されてきたはずである。


こと言語で言えば、俳優から発せられる言葉よりも、むき出しの平台に書かれた「イチローも来たことある」というそのシュールな一文の方がはるかにインパクトを持って私の心を捕えていた。





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Last updated  Apr 30, 2009 03:03:07 PM



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