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Dec 17, 2006
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カテゴリ:劇評
現在形の批評 #51(舞台)

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ポツドール 『恋の渦』


12月9日 THEATER/TOPS ソワレ


過剰で「なにもない空間」


〔1〕
私は大学の卒業論文に以下のような記述をしたことがある。
松井周は『ユリイカ』(2005年7月号)に青年団を筆頭に、チェルフィッチュ、ポツドールといった新しい世代の演劇は、新劇的な内面重視の作品を志向することではない「人間を一度、ヒト科の動物として捉えなおし、その習慣や反応などの『外面』を観察」するような舞台を上演していると述べる。そういった演劇の代表者である平田オリザは「役者は戯曲家の設計図の中で生きる存在」であると考えた。岡田利規も「日常における身体は、演劇の身体としてじゅうぶんに通用するだけの過剰さをすでに備えている」ため、改めて虚構を生きるための身体を創る必要がないと述べる。劇作家が戯曲として用意したハコに役者たちを置いて対話させることで、人間はどういう反応をし、どういった感情示すのかをつぶさに、ありのまま観察しようといういわば動物実験場がこのような舞台の特徴ということなのだろう。
吉祥寺で青年団『ソウル市民』を観劇した後、新宿でポツドール『恋の渦』を観劇した。この2本の舞台を通して見えてくるのは、世界をより「リアル」に描くために平田オリザが提唱し実践した現代口語演劇が、『ソウル市民』初演から十数年を経た今、すっかり定着したという事実、そしてそれ故に現代演劇の保守本流にまで駆け上がっていったこの理論が瀰漫させた大いなる影響というものを直接受けたとは言えないまでも、ポツドールの舞台からは現代口語演劇が行き着くところまで来てしまったのではないかという思いである。


先に引用した私の文章は、演劇という芸術はすべからく俳優の演技と身体性によって成り立つという原則の基に書いたものだ。俳優の身体というものが劇作家の台詞を伝達する一つの役割や媒介項として存在するのではなくそれ自体が雄弁に物語るものであるはずだ。それは俳優自身が意図しない制御不能の無限運動を繰り返すことで「物語らざるをえない」次元にいかに昇華させるか、その闘いを通して舞台上に永久不変の宇宙を開示することになるということである。そういった俳優観は、所謂かつてのアングラ演劇時代の遺物のように思われる向きもあるだろう。しかし、昨今のパフォーマンス化の流れが試みる身体と言語の実験も、基底の所ではいかに虚構化した現実を生きる人間が、そこから現実を超えた実存を出来するために舞台というさらなる虚構の場に説得力と社会を穿つ視線を持って立つことができるかであるならば、決して遺物として葬りさることができないテーゼがを含まれているはずである。


従ってそういう意味においては平田と青年団に対して全面的に肯定する立場に私はない。「役者は戯曲家の設計図の中で生きる存在」と言い切る所には、平田が社会主義リアリズムを否定しながら「はっきりとそれと言い切らない」という「主義主張」を内包した台詞を俳優に語らせている点に、ヒエラルキーの存在が明確に感じられるからである。とはいえ、実際の舞台作品に接してみれば平田作品に付言されてきた「静か」という印象はなく、俳優達の声もぼそぼそと喋るというよりはむしろよく通る発声法でもって舞台空間に音を奏でるし、言葉の綾をついた笑いに観客達はよく笑う。緻密な「設計図」通りに俳優は動かされているので戯曲世界を逸脱するアドリブはないにせよ、そこには多少なりとも俳優個々の個性というものが「設計図」の中で動く中でも垣間見ることが可能である。


長男の篠崎謙一が女中を連れて家出をしてしまうが、残った者達で食事をしようとするラストシーン。準備をし、家長である篠埼宗一郎がワインのコルクを丁寧に空けている動作で暗転、不意打ちのような終わり方に平田演劇の真骨頂がある。その場面から私達は韓国併合の一年前という歴史的事実とその後の日本の行く末を、今にも空かんとするワインボトルに「地獄の釜」、あるいは「パンドラの箱」のシーニュを見る。こういう作品に慣れたのか、観客が成長したのか、「ああ、なるほど」とすんなり受け入れるくらいには我々は成熟したと言えるのかもしれない。既に劇界内外で平田の演劇論について様々な検討が既になされており、イメージを喚起して舞台と客席の「コンテクストを摺り合わせ」ることを目標とするこの「新しい演劇」は、平田自身も強調するように、海外公演での絶賛という矜持(自慢?)に如実に成果として表れている。


〔2〕
さて、ポツドールである。冒頭に引用した文章を書いた時点ではポツドールの舞台を観ていない状態であった。青年団についての「表層的印象」はいくつかの舞台に接して以来、上記に述べたような認識の変化はあったものの、ポツドールに関してはあの時に書いた印象のままの舞台が繰り広げられた。まさに「人間を一度、ヒト科の動物として捉えなおし、その習慣や反応などの『外面』を観察」するような舞台だったのである。以下、『恋の渦』について分析していき、「現代口語演劇」がどのように変化していったのかを探ってゆきたい。


演劇を観劇するということは、少なからず劇場機構により舞台と観客席とが分断された状態を余技なくされているのが現状である。であるならば、多少なりとも観劇行為に「観察」は付き物ということになってしまうだろう。それは舞台を観るという行為における、その時の観客の立ち位置を指してのことである。たとえ分断されていようとも、登場人物に感情移入させるためのスタイルが上演されている。すなわち、派手な音響・照明効果を援用して紡ぎ出される叙事詩や、あるいは限りなく切り詰められた口語体で、身振りも決して大仰でない日常的なもので成り立った想像力喚起型の舞台である。どちらもスタイルは対極にあるにしても、舞台と観客双方の内的往還が生み出す非日常空間を成立させようとする信頼関係が源基にある。しかし、ポツドールの舞台にはそのような関係はあらかじめ排除しようとする仕掛けが様々に配置されている。舞台と繋がるためには(理解しようとすれば)観客は「観る」から「見る」へ、舞台へ移入することなく「ただ見る」ことを要請する。その単純明快さが「観察」と呼ばれる所以なのだろう。物語が存在するにもかかわらず「観察」するということは、人のする事、話す事が舞台空間内にいる人間及び環境にどう作用していくのか、その堆積が最終的にどのような結末に至るかを追うということである。その情報処理的な「実験観察」が行われる舞台はやはり「動物実験場」のようである。


では、ただ「観察」させる仕掛けとは何か。それを俳優・言語・舞台装置(空間造形)の三つに求める事ができる。「だらだらしてノイジーな身体」(岡田利規)や「コドモ身体」(桜井圭介)といったおよそ劇的強度を持たない、あるいは生みださない普通の生理感覚を持った身体が重視され、舞台に上げられる理由は、「日常における身体は、演劇の身体としてじゅうぶんに通用するだけの過剰さをすでに備えている」(岡田利規)という認識に拠るためである。ポツドールの登場人物達もまた同様である。舞台には「今時の若者」が登場する。金髪は当り前、ピアスに指輪と派手派手しい。都市に溢れる情報と商品にヴィヴィッドに反応する適応力を持ち合わせ、それを同じ格好をした者同士が集まってノリとフインキを絶対コードに会話し、行動する浅薄な関係性を維持し続ける人間。だからセックスも何の衒いもなく一つの運動のように氾濫する。彼らは「だらだらとノイジー」な若者一般の中でも「チャラ男(女)」にカテゴライズされる人種である。


鬱々と自閉し懊悩する様をひたすら吐露する文学的人間の登場する舞台とはまた違った若者象として「チャラ男(女)」のみが描かれたこの青春群像劇は新鮮に映った。台詞の意味を思考することからアプローチして人物を創り、演じるという正攻法からは隔絶し、まさに今を呼吸する人間のプライベート言語が丸ごと日常生活から切り取られて持ち込まれているからであった。なにしろ演技性が全く感じられない。俗に言う「静かな劇」とは、一分一秒平等に流れる日常の時間のある一コマ、一時間~二時間をフィーチャーして描く作風であり、そうであるならば「静かな劇」とは「時間の劇」とも言えるのだ。『恋の渦』はそうではなく、異質な人間(自分達はいたって普通であると認識している)こそを日常から切り取ってくるのである。


そんな彼らの紡ぐ舞台はマンションの一室から始まる。そこには男女が数人いる。対戦型ゲーム(『ぷよぷよ』)をする者とベッドに横になっている者は覚えているので男は少なくとも三人はいたはずだ。女も何人かいた。それをはっきりと覚えていないのは、「チャラ男(女)」達の恋愛劇で、誰と誰がどうなるのかというその行方がこの舞台で語られることの全てであるにもかかわらず、さして関係性や内容は重要ではないように思えるからである。いや、重要ではないと言ってしまっては多少御幣がある。振り返ってあらすじを書き出すことにさしたる意味はないと言うべきだろう。つまり、「観察」していれば誰が誰を好きになっているのか、また誰が恋愛ゲームに抜け駆けしようとしているのかはノリとフインキで了解できるのであって、むしろそれをどのような言語で描くのか、且つ舞台に登場する人間の在り様そのものだけに三浦大輔の視線が注がれているからである。


従って、彼/彼女らによって紡ぎだされる物語らしい恋愛ゲームの結末はあってないようなものだ。新しいカップルの誕生と破局があるという点を挙げれば展開があるとも言えるが、それはノリとフインキが価値基準となっている人間の現時点での結果に過ぎず、直後にどう人間関係がシャッフルされて別のカップルが誕生するか大いにあるあやふやなものである。「チャラ男(女)」にとって関係性とはそれほどの意味しかないのだし、流れる時間が形成するあらゆることを否定しているようにさえ映る。だから彼らは何かを待つという行為にも出ることなく、たまたまそこにいる者と一緒にだべるのであり、飽きれば手元にある携帯電話で誰かと呼び出して繋がればいいのである。重要なのは時間をやり過ごすのでなく場を成り立たせる事なのだ。
(その2)へ続く





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Last updated  Jul 25, 2009 09:47:35 PM



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