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Feb 23, 2007
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カテゴリ:劇評
現在形の批評 #56(舞台)

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MONO 『地獄でございます』


2月21日 HEPHALL ソワレ


地獄でございます


通り良すぎる笑い


エメラルドグリーンの照明が美しいサウナ施設にやってきた5人の男。彼らは死者である。どうやら現世で互いに関係し合っていたらしい。それがどういうもので、また死へと繋がったのか、その顛末と右往左往が描かれる。したがって、サウナ施設も地獄だったことがほどなくして判明するだろう。よくできたウェルメイドプレイだ。一つ所に限定された空間の中、過去や未来へと時空を飛ばすことなく一方向に経過する時間と、そこに生きる日常生活で遭遇しそうな登場人物。そんな類型化された人間の関係性を通じて、取り巻く社会を分かり易く見せ、尚且つ笑いを提供するウェルメイドプレイの条件を過不足なく備えている。英国留学後の土田英生の作品は、死者が登場したりここではないどこか=抽象空間が設定されたりと演劇的手法を拡大したものに変化しているが、額縁舞台の中で環を閉じてしまう「お芝居」志向であることは変わりない。ウェルメイドプレイについては、私の中で一つの基準がある。したがって、その基準と比較すれば、どこか物足りなさを感じざるを得なかった。


その水準とは、三谷幸喜の諸作品である。元々触れるきっかけとなったのは、演劇ではなくテレビドラマがだった。振り返ってみれば、三谷幸喜が喜劇作家だということ、またそのドラマが喜劇だと思って見ていなかった。では、何に着目していたのか。それは俳優の演技と表現技法上の秀逸なレトリックの2つにあったのだろう。現在でこそ名の知れた小劇場出身の実力ある俳優の魅力、そして何より彼らの力を引き立てるキャラクター設定と、一つのズレを契機にズレが累乗的に連鎖していく脚本の秀逸さ。小さな枠内で成立するテレビの世界にあって、あらゆるものを限定すればするほど凝縮度が高まって効果的であることを知らしめた作品は、とりわけ異彩を放っていた。劇的想像力の可能性と、演劇でしかあり得ない表現方法の豊かさを知った今は、三谷幸喜にもウェルメイドプレイにもかつてほど関心を抱きはしないが、ドラマ性と笑いの手法が染み付いているため、同ジャンルの作品に出くわすと、やはり参照先となっている。


詰まるところ、今作の物足りなさは、後年観ることが出来た三谷幸喜の舞台作品との比較で立ち現れたものだ。すなわち『地獄でございます』は「通りが良すぎる」のである。基本的にこの作品は「構築―解体―再構築」(渡辺信也 「三谷幸喜論-対話なき世代への慰藉」『シアターアーツ8号』)という、三谷と同じ劇構造を持つ。俳優達も「関西現代演劇俳優賞」を受賞する面々らしく安定感のあるアンサンブルを展開して群像劇を支える。だが、その中で取り結ばれる台詞が生み出すはずの笑いが劇を駆動していかないのである。


登場人物5人が地獄へとやってきた原因が、生前のささいな行動が引き金となって起こる因果応報であったことが判明する劇半ばあたりのたたみかけは納得のいくおもしろさがあるが、それとは別種の、観客が共有することができない登場人物同士にしか分からない種類のやり取りがおもしろくない。周到に張られた台詞が後々効いてくるという前者のやり取りではなく、「こないだ面白いことがあってねぇ」的な真偽の程を確かめようのない後者の台詞のやり取りが得てして笑えないのは、日常において我々はよくよく経験していることだ。


『地獄でございます』で見られた大多数の笑いとは、舞台設定から引き起こされる問題に登場人物が「今・まさに」関わっていくというものではない。個々の記憶が吐露され反省することが台詞の主を占めるのは、作品自体が輪廻転生・因果応報が軸となっているためであるが、それだけに突飛な笑いが多い。個人的エピソードの集積が物語を進めていく「通りの良さ」、そのためにせっかくの面白い場面が霞んでしまい、全体を御都合主義的な出来にしてしまっている。あたかもつまらないコントを見せられているような融通無碍なボケには辛さを感じた。役者のアンサンブルが売りの劇団にとって、笑わせるための緻密な構築が足らないことには不満が残った。


すると他の欠点も見えてくる。5人を灼熱の地獄釜へと自発的に貶めようとする獄卒達のシーン(各人一人を担当するという理由で5人の役者が衣装を変えて演じる)が途中とラストに挿入されるが、この挿話がいかほどの意味があるのか疑問である。獄卒と、死者は正反対の人間性であるため、そのギャップがおかしいと言えなくもないが、獄卒を登場させてしまえば、見えない敵にどう対処するのかという、死者の右往左往が引き起こす密室性と緊張感が途切れてしまう。登場させるにしても、死者との絡みをもっと見せればそれなりの展開になっただろうにと思う。


獄卒の登場うするラストシーンで、全員が結局地獄釜へと落ちた事が判明する。獄卒達の企てに乗らないように改めて結束を固めた(再構築)後、仲間を裏切る形で坂上(尾方宣久)外へと逃げてしまう。しかし、地獄へ落ちるだけならまだしもその上抜け駆けしようとしてさらに酷い刑を受けることになってしまったことについて、獄卒の坂上が「地獄でございますから」と締めくくる。家庭では暴力を振るってばかりの外面だけを良く見せようとする坂上という人間性を自己批評するかのような台詞である。それは確かにシニカルなものとして効いた何とも据わりの良すぎるオチだけに、私は現実味を感じられなかった。





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Last updated  Aug 10, 2009 04:02:47 PM



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