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May 31, 2007
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カテゴリ:劇評
現在形の批評 #63(舞台)

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南河内万歳一座 『滅裂博士』

5月25 ウルトラマーケット ソワレ

滅裂博士


「演戯人間」の終焉


「魂」は存在するか。魂という字から想起されるのは、目には見ることのできない霊魂や精霊といった、人身を凌駕した超自然的な位相に慄きや敬虔さを伴って存在する、極めてアルカイックでプリミティブなものである。そこで、魂を「心」や「精神」という言葉へ置き換えるとどうか。途端に、我々に近接したものとして接近してはこないだろうか。心と精神を、五感に相当する感情とそれを制御する理性に至極簡単に峻別してしまえば、それは動物と人間とを分かつ最大要因となる。融通無碍な感情の湧出とその自制機能である理性との平衡が、我々の高度な共同幻想社会の通低路を開いてきたからのである。


だが現代では、冒頭に記したような設問を抱かせる事態が人間一般に広がっているような気がしてならない。つまり、魂の存在への疑義である。もちろん、それはあるか泣きか判然としないものである。しかし、既に見たようにそれを心と精神へと置き換えることは可能だ。したがって私が言うのは、イメージと実感ができる様に置き換えられた心と精神の疑義ということである。


<今>という閉塞した時代状況は、魂すなわち心と精神なき人間が生息することによると言っても過言ではない。その象徴を私は愛知県の立てこもり事件が示しているように思われる。二九時間という、近年稀に見る長時間に渡った立てこもり劇は、一人の若き機動隊員の死と三人の負傷者を出した。私はこの事件の一連の過程で大きな失念を抱いた。


この事件は死者を出すという悲劇の結末に至ってしまった。その原因はどこにあるかという問題については、確かに多くの者が言及するように、警察側の手際の悪さにあるだろう。だが、やはり追求されなければならないのは犯人・大林久人であろう。まるで子供をあやすかのように「あなたを助けに行くからね」と警官に言われ、両手を挙げて投降する大林容疑者の映像が流れた時をもって、人間の倫理と意志の完全な崩壊を実感させられた。人間的な心と精神の喪失はもとより、それを支えるある種の矜持の崩壊を私は感じたのだ。大きな失念とはこのことである。卑近な痴話げんかというあまりの身勝手な動機が、大事件にまで拡大するということはよくあることだし、歴史的な事件を取ってみても、程度の差こそあれ所詮この限りではないだろう。主観的な情動の激しい揺れ動きを、自制するはずの理性が機能しなかったということなのだ。ただ、この事件が奇妙なのは、犯人が犯人然としていない所にあるのだ。犯人としての矜持がないと言い換えても良い。


大林容疑者があそこまで追い込まれてしまった状況に終止符を打つためには、二つの選択肢しかなかったはずだ。すなわち、警官による射殺か自殺。テレビ報道を見た者が警察を非難したのは、起こした騒動の大きさに見合う、我々が思い抱いていた犯人像でなかったからとは言えないだろうか。このような推測を行うのは、ある人物を念頭に置いているからである。場に存在する人間関係と、それを取り巻く状況に相応しい人物をストイックなまでに追求し捏造する「演戯人間」を70年代に登場させたつかこうへいの存在である。『熱海殺人事件』『初級革命講座・飛龍伝』といった作品でつかが「演戯人間」を描いたことは周知の通りである。敵となる大きな問題が明瞭に措定できた時代においては、それに打ち勝つことを最終目標に、連帯する集団に内在する意志と倫理を保てば良かった。組織の強固な維持はそれ故、そこに参集する人間に無条件でアイデンティティを付与する。だが、80年代以降敵が不透明となる。その為、仮想敵を苦心して設定しなければならなくなった。それは、集団の成立根拠を脅かす。攻撃のベクトルは内向きになり、その果てに集団は内部崩壊を引き起こしてしまう。その過程を現実に体現したのが連合赤軍事件であった。連合赤軍事件によって、時代相が180度転換したという意味では、メルクマークとなった事件であった。その後に登場した「演戯人間」とは、強烈な個性を持った集団に託せばアイデンティティが手に入った「個」人が、集団の自己解体によって人間個々自らがそれを獲得せねばならなくなって「孤」人と化した者のことである。パフォーマティブに振舞うことでしか、それを得る可能性ができなくなった時代状況では、あらゆる関係性を「それらしく」やり過ごすという苦心惨憺しか残されなかったのだ。たとえ手に入ったとしても「捏造」されたまがい物だと知りながら。


80年代のキーワードである「ゲーム」、あるいは「レッスン」といった語が象徴するような一時の狂騒時代を通過し、もはや仮想敵すら見つけることができなくなった人間は、演戯することすら疲弊しきって「孤」同士の連帯を求めず、神経症的で視野狭窄に陥った「底流する人間」となった。愛知の立てこもり事件が突きつけたのは、そういった「演戯人間」の終焉だと規定できる。冒頭の記述に今一度立ち返れば、心・精神という意味での魂はなくなってはいないが、それを支え鼓舞する強固な意志と倫理、規律訓練すらも目に見えて欠損が知覚される時代を我々は生きている。長くなったが、以上のことを南河内万歳一座、春の新作公演『滅裂博士』を観ながら考えていた。


不動産開発の推し進めにより、周囲は何もなくなって絶海の孤島のように孤立した病院。物語の主軸となるのは、ここを死守しようとする病院経営者や様々な事情を抱える入院患者であるが、マッドサイエンティストによる現実か虚構か判然としない人体実験の模様が思わせぶりに要所で挟み込まれるという劇構造を持つ。この舞台で内藤裕敬が提示したのは、意志・倫理や規律を声高に主張し墨守することの困難さである。


雷雨の激しい夜、恐怖する何かに追い立てられて病院に迷い込んだ女が遭遇するのは、中央の手術室に横たわった人造人間が今まさに完成しようとする所であった。しかし、生命力となる魂が足らない為に頓挫してしまう。そこで、その場にいた女を解剖することにしようと捕えるまでがプロローグである。メアリー・シェリーの小説『フランケンシュタイン』に登場する怪物のように、墓場を掘り返して集めた部位の接木に電気刺激を与えるだけでは人間的生命を獲得することにはならない。ここでの魂とは、理想を矜持でもって追求し続ける烈火の如くたぎり立った生の原動力である。それがなければ、純粋物体にどんな万能化学を駆使したところで、再-駆動という幻想を可能たらしめることにはならない。


魂の欠損は、劇中の現実場面に以後引き継がれる。先祖代々の墓はただの石だから後生大事に守る必要があるのか。自由に幽体離脱することが可能と嘘をついている入院患者は魂の存在を逆手にとって、周りの者に畏怖の念を植え付けることですき放題に振る舞い、自らの病気と向き合うことから逃げている。魂とは既に有るものではなく、想い・願うという倫理の強固な根を滋養にして生成するものである。既に記したようにその倫理の設定自体をどこに、どう持てば良いかが不透明な社会では、魂に辿り着くまでの道のりは果てしない。女が追い立てられた不確かな何かとは「胸騒ぎのそよ風」という台詞が表すように、そのような不透明さの中で生きることを強要する無言の圧力=世間の風潮のことであろう。


「演戯」という対話方法すら消失したシニカルな「孤」の集積で構成される社会の中では、倫理や意思を語ることや、持続させる意志といった泥臭いものは黙殺されてしまう。演劇にしてもそうだ。芝居について熱く語ったところで、周囲の人間には無意味という洗礼を痛烈に与えられてしまう昨今、芸術というパッションとある種の高尚さは一層浮世離れしたものにならざるを得ない。魂なき人間が住まう時代で、とりわけ演劇という生身の肉体を手がかりに、宇宙の真理を開陳させんと目論む倫理性と矜持の持続は果たしてどれだけ可能なのか。それはつまり、風当たりの強さにどこまで強靭に耐えていられるか、それが内藤の今の問題意識としてはっきり提示されている。


ラスト、病院経営者は土地を手放さないことを明確にし、女も自分が今存在することの意味を意識し、墓を守ろうとする。その後、今まさに女の体が解剖されようとするあの冒頭のシーンの続きがエピローグ的に展開される。解剖しようとするマッドサイエンティスト達は女に再び宿り始めた魂の力に抵抗される。しかしその時、病院は不動産業者の放った火によって業火に見舞われる。古くなって桃尻病院の桃の字が汚れ、通称「尻病院」と呼ばれるそれに放たれた火を前に女は「尻に火がついた!」と叫び、助けを求める。内藤にとっては珍しく、ささやかな夢の手がかりすらも打ち壊した幕切れであった。


作品全体を通しても内藤の変化が見られる。南河内万歳一座の魅力であるアクロバティックな動きと、均整の取れたアンサンブルという振り幅の大きな集団力は、今作では冒頭とラストの解剖実験シーン以外目だったものはない。贓物が撒き散らされて禍々しさが全開するパワフルな猥雑さは、唐十郎の劇世界のような演劇的虚構力をしっかりと感じさせるが、大きな破綻はなく整然としている。そのため、女の迷い込んだ先は自分の脳内世界だったかもしれず、そうなると、非常に偏狭な劇世界に収斂してしまう。そういう点で小品な感は否めないが、演劇の倫理に拘泥し続けることの困難さという内藤の現在の反映として私は受け取った。開場して三年という節目を迎えたウルトラマーケットと共に、今後も南河内万歳一座には注目しなければならないだろう。





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Last updated  Aug 15, 2009 09:32:38 PM



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