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Jan 12, 2008
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カテゴリ:劇評
現在形の批評 #75(舞台)

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『LINKS 8th session 岩下徹×田中悠美子』

1月9日 UrBANGUILD ソワレ


目線の道程


京都のbar、UrBANGUILDで行われた舞踏家・岩下徹と義太夫三味線の田中悠美子による途中休憩を挟んだ1時間強の即興セッションに立ち会いは、その生成プロセスを見つめることに集約されたものであり、即興性への思考を促された一夜だった。すなわち、これは岩下徹のソロ公演だと思わされた前半部と、ようやく即興性(の萌芽)が立ち上がってくる様に触れることのできた後半部である。以下、そのことについて素描してゆく。


今ここにある身体から繰り出されるダンスと、今ここにある楽器から流される音は、どちらかを引き立たせるために奉仕することなく、双方の格闘を通過すること以外に「今-ここ」という固有の空間と時間に生きられた一つの全体性を出来させることはできないはずだ。それは、即興劇と名の付かない戯曲や振り付けを基底として創作活動が始まる演劇・舞踊にとってみても同様である。戯曲・振り付けが有機的全体性をその時・その場に生み出すための一要素であることから、起点と終点が定まった絶対的なレールとして逸脱し膨張してしまい、それに則って進む上での加減速に変化を付けることにのみ汲々となって思考経路の隘路に陥った演出家や俳優・ダンサー。即興とは今ここにある身体から繰り出されるダンスと、今ここにある楽器から流される音は、どちらかを引き立たせるために奉仕することなく、双方の格闘を通過すること以外に「今-ここ」という固有の空間と時間に生きられた一つの全体性を出来させることはできないはずだ。


それは、即興と名の付かない戯曲や振り付けを基底として創作活動が始まる演劇・ダンス作品にとってみても同様である。戯曲・振り付けが有機的全体性をその時・その場に生み出すための一要素であることから、起点と終点が定まった絶対的なレールとして逸脱し膨張してしまい、それに則って進む上での加減速に変化を付けることにのみ汲々となった演出家や俳優・ダンサー。即興とは演劇・舞踊に関わる者に固定的となったこの創造過程を瓦解し、開放を与えるためにさし返される一方策であるべきなのだ。したがって、関係性を格闘するための技術が備わっていることから即興は始まるのであり、ない基礎技術を身に付けるためではない。その意味では舞踊と音楽、各ジャンルに精通した者によるセッションでありながらこの一夜がまず岩下のソロ公演へ堕したのはまさに音楽が単なるダンスのための効果音としてレールの役割しか機能していなかったからである。これは即興と言えるものではあるまいし、ましてや生音である必要性が全く見出せないだろう。


なぜそういう事態に陥ったのか。それは田中の立ち位置にある。彼女は義太夫三味線を机の上に置き様々な音を出す。弦を紐や灰皿で擦って発される不快音、胴部分を棒で打ち鳴らした音など、趣向を凝らして音と戯れてはいるが、いかに次の音を作り出すかにのみ意識が集中している。そのことは田中の身体、今ダンスしている岩下や会場を見ずに、下を向いたままの彼女の目線が物語っている。今パートナーが何をしているのかを見、身体で敏感に感じ取ることしか、次への展開を創り出すことはできない。激しく踊り狂うダンサーをさらに高ぶらせるのか、はたまた流れを分断させるために無音、あるいは衝撃音をカットインさせるのかは。身体と音が創り出すものに会場の空気が如何様に変質しているのかを当の田中の身体で無意識の内に察知した上で三味線へパフォームされた音として変換されねばならなかった。各芸術ジャンルで卓越した活動を行っているアーティスト同士の格闘の軌跡が生み出す変性したものが全体性を持って飛翔力を孕み得る。自身の技芸を殊更に誇張し独創するのであってはならない。田中の創り出す音はそういうもので留まっている限りでソロ演奏だったのであり、その一本のレールとなって先行する音へ岩下が合わせようとしている分だけダンスが目立ったという点が、前半部がソロダンス公演となった理由である。


岩下について触れておく。彼のその目は田中の演奏を見、時に客を見る。指先の細かな動きからダイナミックに身体の関節をマリオネットよろしく自在に折りながら、カウンター席とテーブル席の間の短い通路を往復する。その周囲を冷静に見渡している岩下の目は自身の動きはもとより、周囲の状況を取り込んで一つの情景を生み出そうとする。しなかやかに女性的に座り込んだ岩下のすぐ側、椅子に座った女性客と突然目を合わせて笑いを生み出した一瞬はまさに即興的な力と言えるだろう。その後、田中の方へ手を差し出すような仕草をするが、ここにこの一夜が親和空間を形成せしめるポイントが孕まれていたと思うが、その客を取り込もうとする関係構造はすぐさま霧消し、再び岩下のソロへと移行してしまったのは、田中がその一種のエクスキューズから展開されるかもしれない山場に気が付かず、自分の音創りに懸命になっていたからに他ならないだろう。今を生きる身体一つの岩下にとっては必然的な、場の状況の読み込みと、身体を道具である楽器を通して間接的に関係させる田中が、音の生成だけに目を向いていることに大きなズレを感じずにはいられない。


ここまでなら、取るに足らない失敗に終わったこの一夜の出来事が変質するのは後半のある場面である。自由に即興ダンスを踊る岩下がスピーカー奥へ入り込み田中の視界から消えた時、田中ははじめて岩下を見たと言ってよいのではないか。厳密には消えたことがすぐさま判断できたということは、もしかしたら要所要所で見ていた、あるいは視界の端で追って空気だけは捕えていたとも言えなくはない。だが、要諦はそこにあるのではない。何度も繰り返すが、見るのは互いに即興という格闘を通して一つの空間を埋める豊穣なものの創出の為なのであり、自らの技芸を維持することのためになんとなく把握しておくくらいの見方ではとても即興の目的には到達し得ないのだ。岩下がスピーカーの背後からその上に乗り上げた時、田中は苦笑いをする。この一夜の第二のポイントはここである。この時の田中の顔は困った顔で岩下を見た。岩下の突飛な動きが想像の範囲を超えていたのかどうかは定かではないが、確実にそれまでの田中の「プラン」外の出来事であったと思われる。田中は弦を打つ。岩下は首を小刻みに横に振る。そして田中の口から発せられた詩吟。そうなのだ。この一連の2人のやり取りにはコミュニケーションから始まる即興セッションの現出が感得できる。格闘という名の即興は困った時から始まる。自らの手の内が通用せずにどういにもならない時に出る一手は、こなれた技芸を打ち破った、劇を駆動させるまさに「今-ここ」に投企されたものを生み出す。


加えてここで、終始音に岩下が合わせようとしていた為にダンスは音に主導されていたと思われたことが、実は岩下によって主導権を奪おうと常に挑発し続ける逆向きのアプローチが為されていたことが了解される。前述したエキュスキューズもそうだったろう。このシーンでは、いわば田中へのカウンターパンチよろしく仕掛けらた攻撃はようやく即興性への触媒となったということだろう。最終近く、寝そべって駄々をこねるような仕草をする岩下を泣き止ます母親のように、『夕焼け小焼け』を歌う田中、それに呼応し一緒に歌う岩下は親和空間を形成せしめるに足る場面であったが、ようやく即興性が生まれようとした時に終演となった。


barであるから、酒を飲む者がいて、食事をする者がいる。一夜の楽しみを求めてやってくる者が集う場には、余興精神も必要だろう。しかしそれだけに安易なごまかしはすぐに見透かされてしまう。





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Last updated  Apr 30, 2009 11:28:39 PM



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