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Nov 10, 2008
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カテゴリ:劇評
現在形の批評 #88(舞台)

悪い芝居 『東京はアイドル』

10月5日 ART COMPLEX 1928 ソワレ


繋留された演劇/東京の虚構性



山崎彬率いる悪い芝居は、早晩東京公演を敢行すると目していた京都の劇集団である。今公演パンフに東京公演を来年予定しているとの情報があり、来年とは思っていなかったものの、やはりと思わされた。


原色のカラフルな照明と舞台美術、キャラクター演技のようなアクの強い俳優陣による、ギャグを交えた熱情的な舞台は確かに既視感を抱かせる。おまけに昭和歌謡を多用する時代の匂いを立ち上げは、未経験なはずのノスタルジーを喚起させもする。だが、注目すべき点は楽観的にも思える表層の皮膜からありありと透けて見える、演劇を志向する自己と刹那の享楽を求めて観客席に座るような観客へのドライな視線であった。モラトリアムの延命道具に使用して戯れ、何かをやっていると勘違いする数多の同胞を、自らを含めて批評し、また、その微温的な空気に寄り添い円環構造を補完してしまう観客に観劇行為そのものを厳しく問う。舞台芸術という不合理な創造体をあえて引き受け、志向することを探求する倫理的な姿勢こそ、この集団を他の類似するものと峻別する大きな違いなのである。


『東京はアイドル』のタイトルが示す通り、東京への憧憬物語と、東京を意識せざるを得ない劇団の現状認識を<ルサンチマン>と共に表出させた。そのため、これまでの攻撃的な観客への挑発は後退し、自らの問題が舞台の俎上に上げられた結果、いささかナイーブさが強調されることになる。


舞台開始直後に映し出されたプロジェクター映像には、劇団員が各々東京についてのイメージと東京で活動することについての考えが述べられてゆく。肯定的に出世物語のコマを進めることだと語る者、地元で地に足を付けて活動を所望する者様々だ。肯定否定は別にして、集団の一人として東京という名詞とそのイメージをどう捉えるかを突き付ける冒頭から、この舞台が集団性の問題を含有した作品であることが明確になっているのだ。従ってその後、横長に使った劇場空間に四枚の板を等間隔に並べ、ある田舎(京都?)町のアパートに見立てた場所へやって来た登場人物は、俳優本人のようでもある。舞台は、東京へ行くことを夢見る時夫と妹の希、東京から出戻ってきた山辺とその娘で元アイドルの水崎杏子、東の塔に住む頭が壊れているという時夫の友達の誠、彼を看病する愛が軸となる。誠は薬を飲むにも、頭の良い人間によって作られた物で自ら矯正されたくはないと、何事にも徹底した拒否反応を起こす人物だ。


偶像崇拝は、手が届かなければ届かないほど憧憬の気持ちばかりが増大し、いつしかねじれたルサンチマンと化すが、東京への一極集中という根強い状況はそれほど引け目を生みだすのだろうか。こと演劇に限っても、京都の地は90年代以降、東京の消費市場から逃れてゆったりとした歴史的時間と歩を進めるかのように、劇場間のネットワークを重視して生み出された劇団・作品によって独自の文化地点を形成してきた代表ではなかったか。それは、東京-地方の主従関係を相対化する試みに他ならない。にもかかわらず、この舞台は、「東京はアイドルVS悪い芝居」という対決姿勢を採りながら、東京を意識せざるを得ない切実さを漂わせる。人間を取り巻く最小単位の群れとしての家族に、血縁が故の連帯意識すら成立し難くなった今、誰もが無自覚に召し抱えられ、従属すれば事たれりという意味での共同幻想を設定することはもはや困難になっている。つまり、家族の究極拡大させた国家の姿は、戦後政策の綻びが次々と露呈し、幻想を抱く余地がないのだ。となれば、東京という「中心地」をアイドルという、画面の向こう側の別世界に見立てた時点でそれは偶像でしかないはずだ。東京という大きな統治神は、化けの皮が剥がれて自活能力を失っても尚、パチンコに通いつめることは止められず、能天気な顔をして即物的な欲求を満たすため借金まみれとなったダメ親のようなものである。


だが、反省することもなく長期的な機能不全に陥った存在に、その上で尚「東京はアイドル」というかつての象徴的イメージを現代に召喚し、幻視する気持ちも確かに分かる。金と人力を集めるためにかりそめの装飾を施すことだけは余念がないその精神を重々承知していながら希望のようなものを見出して駆り立てられるのだろう。偶像に真っ向から対峙することが、いつしかその対象へ取り込まれることになる。それは両者の無意識的な共犯関係の上にあるにせよ、それでも「東京はアイドル」という憧憬を基底として作品を創ってしまった自分達を批評しようとする、幻視をそれとして看過できない差し迫った問題に捉えようとするジレンマがこの舞台に渦巻いている。


それを舞台に即して言えば、時夫のジレンマに代表される。出戻りの山辺は、不器用な人間でも許容する田舎町の暮らしにすっかり慣れ、隣の部屋に住む元木の営む清掃業のアルバイトに精を出すのに対し、時夫は電車が一時間に一本しか通らない街で地味な清掃員であることにとても満足が出来ない。東京を知る者とそうでない者との熱情の対比が明らかである。所望しながらも、電車に乗って出発するという具体的行動に出られないことの苛立ちを、「内の自分と外の自分がけんかをしている」という幾度も吐かれる台詞が示す。今作がナイーブなものに仕上がった要因は、前回公演で客席後方から走り出てきた山崎彬が観客をいきなり挑発.罵倒したような姿勢が、徹底的な自己言及性の側面に費やされているからなのである。


東京の偶像性に振り回される物語と対になるのは、これまでも常であった演劇の虚構性を明らかにする事柄であるが、こちらもより自己言及性を強めている。誠は、東の塔から下の世界を見下ろすという超越的視線から、「つまらん芝居しやがって」と悪態をつく。浮気をされた果てに泣き崩れる女性には、ブサイクが泣いても共感できないと言い放ち、その浮気した男が別の女と寝る様を見ては、およそ不釣合いな二人だと、配役のまずさをあげつらい場の流れをカットする言動を繰り返す。時夫と、この公演のチラシをビリビリに破くという行為も見られる。誠も、東の塔が単なる舞台道具で作られたものでしかなく、立つ位置もたかだか音響・照明ブースでしかないことを突かれるに至り、自らを相対化する作用の度合いは徹底される。これら物語の親和的幻想への疑義は全て彼ら自身によって仕組まれた手の内にあることは言うまでもないが、決してシニシズムではないだろう。演劇の虚構性を志向することの倫理的思考と東京の偶像性を繋留して自らの地歩を見つめるこれは彼らにとってのイニシエーションなのである。


この両者の間に張られた綱で立ち往生するのは、やはり時夫である。板が置かれているだけで四部屋あるとされる演劇的約束に忠実な登場人物に対し、その虚構性を主張してドアや壁を無視した行動に出る。だが、その世界に浸りきった(田舎で充足する)人物達によってその行為は虚しく無化されてしまう。演技という何かのフリをすることと、外部状況から切れた地点に身を置くことの安息が重ね合わされているのだ。時夫の行動は、充足して円環する地点からの脱出を演劇の問題に投射させ、演技的になってその場に居続けようとする虚構性からの覚醒に依拠したものである。


東京=国家の絶対的な信頼が失効した状況では、何かのフリをしようにも人間の内にあるモデル的支柱もまた成立しない。それに代わるのは、記号の自律的な増殖による暴力的な遊戯の世界である。記号による遊戯が形成する虚構であるが故に、己が身体を同様に記号化し、投げ打つことには踏み込みがたい恐れもまた出来するだろう。それは猛スピードで横切り続ける物体の列に飛び込んで加わることの困難と似たものだ。だから、一見自由に見える記号の遊戯ではなく、世間体や一般通念の方へ身を委ね、本来成立し得ないはずの幻想を召し抱くことに傾いてしまう。それこそが近代の残滓というものであり、目的の捏造が生み出す態度保留による保身なのである。行政から請け負った清掃業をなくさぬ様、雇い主の元木が夜な夜な自ら町にゴミを捨てて、明日の仕事を準備する保身や、時夫も結局、田舎町に嫌悪しつつも、一時間に一本は確実に来る電車に乗れば東京へ行けることを理由に、閉じられた空間をいつしか受け入れてしまう保身はそういうことであろう。作・演出の山崎が演じる誠が統治者だとすれば、頭が壊れて常人とは異なった位相からの視座に立ったにしろ、それが設定=演技である以上、円環する世界という現実から逃れることはできないのだ。


懊悩したまま前進をみせない終わり方であるが、もし、電車に飛び乗る結末にしたところで、それは演劇の虚構に従って東京の偶像へ旅立つ二重の虚構を綺麗に仕立て上げるだけである。今作はドライな視線が内向きになってナイーブになった分、十分物語性が前景化している。ただ、この終わり方は、最後まで自らが問題として抱えていることの探求を、演劇を通した作家と集団の厳しい視線でもって葛藤をそのまま乗せることを選択している点で真摯だと言えはしまいか。集団の恥部をそれとして潔く表出することが、若者の青臭さという意味での物語だとしても、あっけなく物語内で輪を閉じる無害なロマンティズムとは異なる。劇集団と我々が直截的なシンクロニシティを生み出す萌芽は、こういう所にあるはずであるから、その心意気は評価されてしかるべきだろうと思う。


ただ、元アイドル・水崎杏子の存在がいまいち効いていないこともあげておかねばならない。東京なるものの象徴となったこの元・アイドルの、アイドルという幻想を生きる者自身の視点が描かれていない。そのため、時夫が田舎町の虚構を演劇的なそれとともにあげつらうシーンで、水着姿で寝そべり、きょとんと事態の推移を見つめ続ける様は、象徴以上の役割のない一義的なものに感じられた。


ともあれ、現実には東京公演を来年予定している。何はなくとも一度実行してみたらいい。そうすれば東京なるものの視線も、幾らかは手中にすることもできよう。もちろん、それが虚構だったことの確認をも含めて。


東京公演は来年五月、サンモールスタジオである。





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Last updated  Apr 30, 2009 10:35:58 PM



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