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男子サッカー2014ブラジルW杯アジア地区最終予選が始まった。日本チームの初戦相手はオマーン(埼玉スタジアム)。観客は63,500人、同スタジアム過去最高の観客数。 試合は日本チームの好プレーで展開。 前半12分、長友の左サイドからのクロスを本田がみごとに決めて先制ゴール。 後半6分、香川からのクロスを前田がゴール・シュート。 さらに9分、香川から右サイド前田へ、前田から岡崎へ、岡崎シュート、GKこぼして再び岡崎がシュート、ゴールを割る。 オマーンは結局1度もシュートできず、3-0で日本チームが勝った。 B組10チームがホームー・アンド・アウェーの総当たり戦、上位2チームが出場権を得る。これに洩れると、オフ・プレーに懸ける。ともかく、初戦を制して幸先よいスタート。アウェーでの対オマーン戦は11月。 第2戦は8日。対ヨルダン。 第3戦は12日。対オーストラリア。(アウェー)
昨日から始まったロンドン五輪出場権をかけた男子バレーボール最終予選。昨日第1日、日本チームはセルビアにストレートで敗れた。今日第2戦は、対ベネズエラ。日本は1,2セット連取し、第3セット、先に24点のマッチポイントを取ったのは日本。しかしベネズエラはデュースに持ち込み、ここから手に汗握るシーソーゲームが展開。30-30からマッチポイントは日本。そしてついに2点をもぎとり日本チームはストレートで初勝利した。 第1セット 25-20 第2セット 25-20 第3セット 32-30 次の第3戦は対韓国。アジア勢には絶対負けられない。ガンバレ日本!
美しい本 ジェーン・オーステン『Sense and Sensibility : 分別と多感』 ヒュー・トムソン插絵入り1896年初版本。 マクミラン・アンド・コーポレイション刊。 ジェーン・オーステン『Pride and Prejudice : 高慢と偏見』 ヒュー・トムソン插絵入り1894年初版本。 ジョージ・アレン刊、ロンドン。 フランセスコ・ペトラルカ『Sonetti e Trionfi : 勝利のソネット』 アルド・マンジオ(アルダス・マニュティウス)が出版した刺繍による装丁本。Aldine Press刊、ヴェニス、1501年。 同上部分
午前中、来客が帰った後、椅子の座部の張り替えをした。 イギリス製のアンティークが2脚。座部がすり切れて来ていた。この部分は購入時にすでにオリジナルではなかった。つまり木部のみがオリジナルなので、張り替えることに抵抗はない。深いグリーン系のゴブラン織をさがしていたのだが、みつからない。しかし、すり切れたまま使用していると(私は仕事場の机でこの椅子を使用している)、中身のクッションが駄目になってしまう。それでとりあえずの厚手のウール生地を張ることにした。私が張る。 まず、いままで張られていたものについて、張り方を観察した。画用のキャンヴァスの張り方とまったく同じである。それならば、お手の物。 さっそく道具を揃え、布を裁断した。 模様の中心を合わせ、四面のうちの一方の縁をたるみがないようにしながら、まず、ど真ん中をガンタッカーで止め、その左右を交互に止める。次に今止めた反対側の縁を同様に止める。布を左手でぎゅっと引っぱりながら、右手でガンタッカーを扱う。キャンヴァスを張るときは、プラーという梃の支点があるペンチの親分のようなう引っぱり器具がある。しかし、この椅子張りには不適当だった。それで左手で引っぱった。このとき注意すべきは、表の模様が歪まないようにすること。 さて、二面が終ったら、次は他の二面を交互に止めてゆく。 最後は四隅の処理。角の頂点から布を引っぱり止める。次に、包装紙で箱をラッピングするときの要領で、左右の余分な部分を片方ずつ内側に折り畳み、止める。この部分はていねいに、角がモコモコしないようにする。でないと、あとで椅子の枠に嵌まらなくなる(私の椅子は座部をすぽっと取り外せる)。 次は、いま止めた角とは対角線にある角を同様に止める。こうして向かい側同士を交互に、対角線にある角同士を交互に止めてゆくと、たるみが出来ない。 かくして1時間ほどで椅子の張り替えが完成した。
新藤兼人監督が昨29日、老衰のため亡くなられた。享年100。先月22日が100歳の誕生日だった。それからちょうど1ヶ月と1週間後の逝去である。映画作家として現役世界最高齢、昨年99歳の監督作品『一枚のハガキ』が遺作となった。 私は子供の頃から随分その作品を見てきた。監督第一作の『愛妻物語』(1951)を見たのは後年になってからだが、第2作目の『原爆の子』(1952)は、リアルタイムで見ている。その後も、『縮図』(1953)、 『どぶ』(1954)、『銀心中』(1956)、『第五福竜丸』(1959)と見、『裸の島』(1960)、『人間』(1962)、『鬼婆』(1962) と、旺盛な製作活動を追ってきた。 大学1年のときだったと記憶するが、学園祭で『人間』を上映し、監督自身が来校して講演をされた。広島訛のある言葉とともに、「ようしに(要するに)」を連発されたのが、50年近く経った今でも耳に残っている。言葉癖だったのだろう。 新藤作品の追いかけは、『薮の中の黒猫』(1968)あたりから滅きり少なくなった。多分、私の関心が外国映画の単館上映作品のようなものに傾いていったためだろう。また、仕事をするようになって、急に多忙となり、映画館で見ることを信条としてきた私としては、なかなか足を運べなくなったのだった。 じつは遺作となった『一枚のハガキ』を、先夜、TVで見た。 私の記憶には、新藤作品の忘れられない映像が、たくさん詰まっている。ご冥福をお祈りいたします。
我が家の小庭に2本の茱萸(ぐみ)の木がある。丈は3メートルを超える。毎年、5月半ばを過ぎると真っ赤に熟した実がたわわになり、小さな祭提灯のようだ。三つ四つ口に入れることはあっても、収穫して食べるというわけでもない。甘酸っぱく美味しいことは美味しい。 その茱萸が、今年はなんだかヘンだ。実はなっても一様にヒネコビタように形がおかしい。色も冴えない。のみならず、熟さないうちにポタポタ落ちてしまう。実の数が非常に少ない。葉叢を探るように見ないと、みつからないほどである。かつてこんなことはなかった。冷たい雨が降りつづいたためであろうか。原因がわからないまま、いささか当惑気味である。
午前中の好天が、夕方から雨になり、21時半、轟音とともに落雷。我が家の近所と思われる。たまたま私の膝の上に座っていた猫がびっくりして跳びあがった。昨日の関東地方の落雷で死者が出たと報じられていたが、避けて避けられるものでもない。青天の霹靂とはこのことだ。 落雷を避けるために「桑原桑原」と唱える人は、現代ではいないと思うが、この呪文のいわれは何か。 諸説あるが、ひとつは流刑死した菅原道真が怨霊と化し雷となって京の都を荒れ狂った。ところが道真公の旧領桑原にはまったく落雷がなかったことから、「桑原桑原」が避雷の呪文になった、と。 あるいはまた、とある農家の井戸に雷神が落ちた。その家の百姓が急いで井戸に蓋をして雷神をとじこめてしまった。雷は天に帰してもらうことと引き換えに、自分は桑の木が嫌いだから「桑原桑原」と言えば其処には落ちないと教えた、と。 避雷のマジナイは他にも、蚊帳を吊ってその中に入るとか、臍(へそ)を押さえるとか、いろいろある。 平安時代の人々は、現実として怨霊に恐れおののいていた。心性が怨霊に完全に支配されていた。政治もその支配のなかに組み込まれており、呪殺・謀殺・意趣討ち、はたまたそれに対する意趣返しが日常的に横行し、怨霊はいたるところに存在した。その怨霊鎮めをする役目を担った陰陽師は、国家のれっきとした高級官僚だったのである。 こういう社会というのは、興味深いことに、必ず醒めている人間がいて恐怖を利用して生きる。陰陽師もそうである。陰陽道は元来、古代中国では科学的なものであったが、日本に入って来て性格が変わった。非科学的な巫術の側面が突出した。怨霊の恐怖に支配されていた平安時代人の心性が巫術を要求したのであろう。そしてこのような社会は、一大破滅的なカタルシスによってしか覚醒しないものである。 アンダーグラウンド・カルチャー(サブ・カルチャー)から現代日本の表社会に出て来た「占いブーム』も、実のところ平安時代社会と共通するところがある。霊感商法しかり、信仰宗教しかり。信仰宗教ばかりではない。あらゆる宗教の布教の根底に、恐怖心あおりが、システマライズされている。潜在意識に恐怖を植え付ければ一丁できあがり。飯の種、金づるに事欠かないということになる。 さて、現代のカタルシス、晴天の霹靂は、いつ、どんな形で起るか。オウム真理教の場合はサリン散布による無差別殺人だったが。クワバラ、クワバラ。
午後3時少し前、東京西部の我が家のあたりに突然の嵐が襲った。激しい雨風が叩き付けた。猫達がパニックになり、鳴きながら二階の私のもとにやってきて大騒ぎとなった。ひとりひとり頭を撫で、「だいじょうぶ、だいじょうぶ」と言いながら宥めた。こういう猫の行動はめったにあることではない。大地震のときでさへ、キッと身構え不安そうに私のそばに来たが、泣叫びはしなかった。この突然の嵐、その雨音の凄さは、よほどびっくりしたのだろう。キッチンの換気扇が電気が入っていないのに、グルグル回転していた。ものの数分で嘘のようにおさまったが、近頃の気象はなんだか異常に思われる。どうだろう?
日本女子バレーボール・チーム、最終戦の対セルビアは、2セットを取れば五輪出場が決まるのだったが、やりました、キップをもぎとった。試合はまだ続行中。この試合そのものの勝敗が決定したわけではないが、よしんば2-3で敗れても得点1が加算されるので、ただいま日本チームの出場がきまった。昨日いささか不調だった江畑が、調子をとりもどして活躍中。 (続報) 試合は結局フルセットまでもつれこんだが、2-3で日本チームは敗れた。勝ったセルビアは総合順位3位を堅守して五輪出場権を獲得。 バレーボールの世界試合の出場権獲得戦績はちょっとわかりづらい。勝ち得点は、3-0の場合、勝者のみが3点。3-1の場合も勝者のみが3点。フルセットまで行っての3-2は、勝者が2点、敗者が1点を与えられる。これに総得点とセット勝率が加味されて総合順位が決まる。また、大会全体のなかでアジア出場枠があり、今大会で日本女子チームが出場権を獲得できたのは、アジア枠の中に入ったからである。すなわちアジア勢は総合2位の韓国があるが、総合4位以下のアジア最上位1カ国がアジア枠として出場権を与えられる。今日の試合で1点追加獲得した日本が、その条件をみたした。 サッカーも同様の決め方をしているが、バレーボールよりわかりやすい。バレーボールの場合、セット率というのが加味されるからで、これはよほどメモでもとっていないとTV観戦者は忘れてしまいがちだ。 しかし、まあ、女子日本チーム苦戦を強いられながらよく頑張った。江畑が通算個人得点91をあげているのはすばらしい。 さあ、もう2ヶ月もすればロンドン・オリンピックが開催する。頑張れニッポン。
音楽評論家の吉田秀和氏が22日に逝去されたという。享年98。お年から言えば、天寿をまっとうされたと言っても失礼には当たるまい。 ただ残念なのは、あの明晰な文章を、もう読むことができないこと。 知的なすばらしい文章だった。音楽という目に見えない感覚世界を、みごとに論理的に、説得的に言語構築された。日本語というきわめて情緒的な、曖昧に陥りやすい、それだけに、油断するとだらしなくもなってしまう言語を使って。 ドイツ留学に拠る、ドイツ語に通じるような、きびきびとした、ときに切り捨てるような語尾の強い話言葉で話されたが、その文章もまた内部に激しい意志の強さをひそめるものだった。そう、私は思い、その文章を愛して来た。なんと言ったらよいか、「信用できる日本語文章」と言っておこう。このような日本語文章を書く人は、浅学を恥らわずに言うが、あまり多くはないのである。何より、そのようなきわめて論理的な文章から、吉田氏の肉声が「音」として聞える。みごとなものだ。 TVで最後の姿(私にとっては、たまたまそれが最後ということだが)を見たのは、水戸芸術劇場の館長としてプロデュースされた小沢征爾氏指揮の演奏会においてであった。 演奏途中で小澤氏の体調が突然悪化された。演奏会は中断してしまった。小澤氏はかねて闘病中であったのだが、この演奏会の指揮は是非と出演された。会場は騒然となった。小澤氏の薫陶を受けて練習を重ねて来た楽団員たちは、指揮者無しで小澤氏の音楽理念を実現したい、つまりこのまま演奏を続行したい意向をしめした。観客のなかにはそれを拒否する人たちもいた。その人たちの心情もわからないわけではない。音楽そのもを聴きたいには違いないが、世界的なスター・コンダクター小沢征爾が出演するのでやって来た人たちも多いはずだった。 会場は無言の苛立がたちこめた。ステージのオーケストラも当惑していた。 そのとき、観客席にいた吉田氏が立ち上がった。楽団員の意志を尊重してこのまま小澤氏抜きで演奏を続行してもらうけれど、聴いてやろうという人はこのまま残ってください。しかし、それは嫌だという人はここでお帰りください。料金はお返しいたします。これでいかがでしょう?・・・・このように吉田秀和氏は言った。会場に拍手が起った。 TVはこの一部始終を放映したのである。 私はこのときの吉田氏に、毅然として事態をさばく説得力とともに、誰をも非難しようとはしないで個人の意志にまかせる戸口をつくる人間的な優しさを感じた。こういうとき、人は、大勢のさまざまな感情がうずまく圧倒的な気配に押されて、言葉はつまずき、あるいは感情が露出して、説得までに時間を要するものだ。しかし、吉田氏は、ものの1,2分で会場をおさめてしまった。 ・・・これが、私が氏の姿をTVで見た最後である。私はかつて音楽会会場で直に吉田氏を見かけたこともあるが、このTVでの姿と、その文章を、私は忘れることはないだろう。吉田秀和氏のご冥福をお祈りする。 │<< 前のページへ │一覧 │ 一番上に戻る │ |
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