櫻井淳さんのサイトで、ここ数日、可愛い犬の写真を掲載している。かなりの老犬だということだが、とてもそうは見えない。まだ世慣れぬ無邪気な幼顔をしている。この写真を見ながら、私は私のカピを思い出しているのだ。小学1年生の頃の飼い犬だから、52年もの昔のことだが、街で狐色の姿のいい小型犬に出会うと、その犬のことがチラと胸をよぎる。人間のことは名前さえ思い浮かばなくなっているのに、カピのこととなると、私はいまだにこころのどこかでその姿を探しているのだ。
そのころ私たち一家は、長野県川上村に住んでいた。そこに住友金属甲武信鉱山があった。甲武信鉱山は昭和12年に露頭が発見されて稼行し、戦後、昭和24年に住友金属鉱山株式会社が所有権を取得した。父が赴任したのはその2年後で、まだ探鉱の最中だった。じつはこの鉱山はそれから更に2年後の昭和28年頃までに、埋蔵量が稼行しても採算が合わないことが判明した。そのため父は、次の赴任地、八総鉱山へ転勤することになる。我家が川上村にいたのはわずか2年ばかりの間だった。
私の愛犬カピは、父の会社の事務員をしていたアッチャンの家からもらった。私が子供用の竹編みの背負籠を背に、生まれたばかりの子犬をもらいに行った。アッチャンの家は農家だった。表口から裏口まで土間が通じていて、外光のなかから屋内に入ると、一瞬目のまえが真っ暗になった。トンネルのように裏口の向うに光がふりそそいでいた。
子犬は裏庭にいた。狐色の芝犬だった。私は子犬を背負籠にいれてもらい、驚かさないようにそっと、しかし急いで1kmほどの道のりを帰ってきた。カピという名前をつけた。当時、ラジオドラマの『家なき子』が放送されていた。エクトル・マロー原作の『家なき子』である。そこに登場する犬の名前をもらうことを、私は初めから決めていたのだ。
カピは利口な犬だった。一度、父が事務所につれて行ったことがある。それからは、夕方になるとカピは家を出て、遠い道のりをひとりで事務所まで父を迎えに行くようになった。どのくらいの距離があっただろう。1里(約4km)はあったにちがいない。父の終業時間を見計らい、自分の歩行時間を見計らって、カピは家を出るのだった。
ちなみに川上村は、川上犬として知られる純粋稀種の産地である。優秀な猟犬と定評がある。現在ではTV放送されることもあり、比較的一般に知られているようだが、当時8歳の私は川上犬のことを耳にしていてもそれにはまったく関心がなかったと思われる。父が『犬の飼い方』という青い表紙の本を買ってきて、私もそこに載っている写真を見ていたけれど、私にとって犬はカピだけだったのだ。
我家にはカピのほかに猫のチョマコがいた。これは山二本家からもらってきた。真っ白い日本猫で、名前の由来は私の赤ん坊時代の呼ばれ名チョンコである。チョンコでは可哀想だからと、すこし変えてチョマコにしたのだ。誰が可哀想だったのだろう。私だろうか、猫だろうか。どうも猫だったような気がしたものだ。
おもしろいことに、カピとチョマコはとても仲良しだった。赤ん坊の頃からともに育ったので、犬猫の区別がなかったのだろうか。ついぞ喧嘩したことがないのだ。いつも一緒に遊んでいた。
昭和28年9月末、先に書いたように、私たちは八総鉱山に移転した。カピは檻に入れて、私たちと同じ列車の貨車に乗せた。ところが会津若松を過ぎ、荒海駅に降り立ったとき、駅員がやってきた。そして、カピが東京・八王子で何かのひょうしに檻が開いて、貨車から逃げたと告げた。捜索をしてはいるが、国鉄としては大変な不手際を謝罪したいというのだった。私たちは茫然としてしまった。もう捜せはしないだろうと思った。
こうしてカピは私のもとから姿を消した。可哀想なことをしてしまったという思いが、いつまでたっても私の胸を離れない。
現在、私は八王子の近所に住んでいる。この地に家を持ったとき、「ああ、昔、ここでカピが列車からいなくなったのだ」と思ったものだ。散歩しながら狐色の犬に出会うと、ふとカピではないかと、こころのなかで「カピや!」と呼んでいる。52歳のカピに出会わないかと----。バカなはなしである。
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