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人生朝露

人生朝露

「看羊録」その3。

本日も。
おそらく、この本の中で最も引用されるのは、姜コウが大洲へ向かう途中、飢えと疲労から倒れながら連行されている場面での、

「(6歳の姪を背負って)ある川を渡る時など、水中に倒れてしまったまま、力がないものだから、起き上がることもできなかった。岸の上にいた一倭人が、(この有様を見て、)涙をこぼしながら扶けてくれ、『ああ!何とひどいことを!太閤はこの人たちを捕らえて来て、一体何をさせようというのか。どうして天道がないわけがあろうか。』と言い、急いでその家に走っていって、稷糠とお茶でわが一家をもてなしてくれた・・・倭奴の中にも、その心ばえのような人もいる。彼らが死を好しとし、殺すを喜ぶというのも、特に法令が彼らを駆り立てるのである。」

という部分かな。
まぁ、姜コウは、日本人全体を憎んでいたわけではない。

日本人の特徴として、

「大体その風俗というのは、小にさとくて大にうとく、衆の誉れとすることについては、そのあとさきもよく調べもしないでひたすらそれに従い、一度それに惑わされたが最後、死ぬまでさとりません・・」

とある。小さなことにこだわって大きなものの考えが苦手。周りが良いと言えばあまり考えずにそれに従って「付和雷同」してしまう、というのは、今でも当てはまるよな。

また、文化について、

「堀田織部(古田織部の誤り)なる者がいて、ことごとに天下一を称しております。花や竹を植えつけたり、茶室をしつらえたりすれば、必ず黄金百錠を支払って(織部に)鑑定を求めます。炭を盛る破れ瓢(やれひさご)、水くみ用の木桶でも、もし織部が誉めたとすれば、もう、その値は論じるところでもありません。」

と、日本人の骨董趣味を笑っている。逆に考えると、文化的な価値観が朝鮮と相容れなくなってきたとも見える。華道や茶道、能楽や「わび・さびの心」が形になってくる頃なので、日本文化が独立し始めた証か?

姜コウの観察眼というのはなかなかのもので、日本に鉄砲が伝来してから4、50年足らずで鉄砲が全国津々浦々に広まったことにも脅威を感じているし、朝鮮出兵の影で動く対馬の動向にも警戒をしている。それこそ、去年話題になった対馬の偽印(対馬の宗氏は文書を改ざんして朝鮮に送っていた)とかについても怒っている。今まで朝鮮の米に依存していながら、秀吉が天下を統一したらすぐさま帰順して道案内をするのは何事だ!と。

その対馬の様子について、

「その女子は、多くわが国の衣装(であり)、男子は、ほとんどがわが国の言語を理解している」

とある。対馬がいかに朝鮮に近いかを示す部分だけど、不思議なことではない。逆に、朝鮮の済州島では、朝鮮人でありながら日本語をしゃべったり、日本の衣装を着る朝鮮人が増えているというような記録が残っている。国境の島ならではのこと。特に、日本の場合には、まともな中央集権体制が整っていないまま内戦を続けているわけだから、国境は「緩く」なる。

「(対馬の島民は)、倭国を言うのに必ず日本といい、わが国をいうのに、必ず朝鮮という。いまだかつて、日本だと自らを処したことはまずない。」

結構ヤバイ?いや、もちろん対馬は日本の領土です。(ただし、沖ノ鳥島は岩だと思っています。)姜コウも日本の対馬という認識。まぁ、対馬は日本の衛星国家のような性格を有していたのは確かで、壱岐や種子島も同じような扱い。距離が距離だけにね。対馬の宗氏は、交易だけでなく、官位を朝鮮から貰ったり、朝鮮半島の沿岸の漁業権を得たり、朝鮮への島民の移住を願い出たりと、独自に(または中央の許可をもらったふりをして)いろいろやっている(裏では倭寇とも組んでいたこともあった)。「鎖国」の時でも対馬は独自に朝鮮と交易をしていたわけだし。そもそも、鎌倉時代から明治維新まで、南北朝の動乱があろうと、応仁の乱があろうと、戦国時代になろうと、江戸幕府が開けれようと、一貫して「宗氏」による支配が続いていたというのは、かなり特殊。

また、対馬の島民に「日本があてにならない」という意識があったことも対馬も独立心を煽っている。元寇のときも対馬は甚大な被害を受けたけど、幕府は事実上対馬を見放している。そのくせ、平和なときには税を取り立てる。対馬の人々が「俺たちは俺たちで」と思うのは自然なこと。国境の島というのは大事にせんとね。


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