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人生朝露

人生朝露

「火の鳥 復活編」と荘子。

前々回、手塚治虫の『火の鳥 鳳凰編』と「荘子」の関係について書きましたが、

復活編。
『復活編』のこそ、手塚治虫の荘子の理解の深さを知る作品だと思います。

すなわち、『荘子』の「機心」の解釈です。

Zhuangzi
『有機械者必有機事、有機事者必有機心。機心存於胸中、則純白不備、純白不備、則神生不定。神生不定者、道之所不載也。』
→機械がある者には、機械のための仕事ができてしまう。機械のための仕事ができると、機械の働きに捕らわれる心ができてしまう。機械の働きに捕らわれる心ができると、純白の心が失われ、純白の心が失われると、心は安らぎを失ってしまう。心が安定しなくなると、人の道を踏み外してしまう。(「荘子」天地篇)

復活編において、手塚治虫は、

「身体の大部分を機械化された人間」

「人間の心を持ったロボット」

との対比によって、生命とは何かという根本的な事柄を描いております。この作品では、「脳の一部を機械化した人間は、生物を生物として知覚できない。」という興味深い表現をしています。

『火の鳥』 復活編より。
交通事故によって死んだはずの主人公・レオナが器官のほとんどを機械化することによって蘇生された結果、人間を含めた生物の全てを「生き物」として識別できず、自分の母親ですら無機的な怪物に見えてしまうという恐ろしい話です。

これは、荘子の「胡蝶の夢」と「機心」の混血児ではないかと思うのです。

Zhuangzi
『昔者荘周夢為胡蝶、栩栩然胡蝶也、自喩適志與。不知周也。俄然覚、則遽遽然周也。
不知周之夢為胡蝶與、胡蝶之夢為周與。周與胡蝶、則必有分矣。此之謂物化。』(荘子 斉物論篇)
→昔、荘周という人が、蝶になる夢をみた。
ひらひらゆらゆらと、彼は、夢の中では当たり前のように蝶になっていた。自分が荘周という人間だなんてすっかり忘れていた。ふと目覚めると、彼は蝶の夢から現実の人間・荘周に戻っていた。まどろみの中で、自分は夢で、蝶になったのか?実は、蝶の夢が自分の現実ではないのか?そんな考えがゆらゆらとしている。自分は蝶だったのか、蝶が自分であることなんて・・自分と蝶には大きな違いがあるはずなのに・・。

荘子の「胡蝶の夢」というのは「荘子の現実」と「胡蝶の夢」とのパラドックスによって、今ある現実、言い換えると、人間が知覚している現実というものが非常にあやふやなものであって、ちょっと視点をずらしただけで、崩れ落ちてしまうほど脆いもの・・人の夢と書いて「儚い(はかない)」と読みますが・・・現実とは夢のように儚いものであるというお話ですよね。

Zhuangzi
逍遥遊篇にある「天之蒼蒼、其正色邪。其遠而無所至極邪。」
→「空が青々としているのは、本当の空の色だろうか?それとも遥かに遠く離れているからそう見えるだけではないだろうか?」

というのもそうですが、空の色を知覚することについて、「本当に空の色なのか?」と率直に問いを投げかけている荘子の態度ってのは、すごいもんなんです。あとは「知魚楽」とかなんていうのもそうですが、荘子は現在でいうところのクオリアをやっているわけですよ。

参照:Wikipedia クオリア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%82%A2
当ブログ 荘子と進化論 その3。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/diary/200904180000/


Zhuangzi
『寿陵の余子、邯鄲に行を学ぶ。未だ国能を得ざるに其の故き行を失う。直だ匍匐して帰るのみ。』(「荘子」秋水第十七)
→寿陵の田舎者の青年が、邯鄲で流行している歩き方を学びにいったことがある。しかし、その歩き方を学び終える前に、普段の歩き方すら忘れてしまって、帰るのに匍匐(四つんばい)で帰るしかなくなってしまった。

これも、単なる笑い話にも思えますが、宇宙飛行士は数ヶ月宇宙空間に滞在するだけで、地球に帰って、「歩く」という当たり前のことが困難になってしまいます。地球の重力という要素を引き抜いただけで、われわれの「当たり前の現実」というのは、瞬時に崩れ去ってしまうこともあるのです。

参照:Wikipedia 無重量状態
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E9%87%8D%E9%87%8F%E7%8A%B6%E6%85%8B

いま感じている世界というのは、あやふやなものだとすると、「自分が自分であること」ということすら、相当怪しげなもの、もしくは、自分という存在が奇跡のような偶然の要素の積み重ねとそのバランスによって成り立っている。といえると思います。

自殺を志願するロビタ。
さて、『火の鳥 復活編』においてパラレルに進行する「人の心を持ったロボット」、ロビタの話は、逆に、人間の心を持ったロボットの側からのもので、ロボットが自分は人間であるということの証明として「殺人をする」もしくは「自殺をする」という選択をするというものです。

これも、荘子や夏目漱石の『夢十夜』に描かれている「木の中の天性」もしくは「木に宿る仁王」のようなもの、すなわち「魂のこもったもの」の側から「モノ」と「ヒト」の関係を洞察しているように思えるのです。

参照:荘子と進化論 その6。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/diary/200907250000/

『火の鳥 復活編』において、手塚治虫は、「人間の脳のうち何パーセントが自前の脳であれば人間といえるのか?」「人工知能に尊厳はあるのか?」という問いを投げかけています。ヒトとモノとを分かつもの・・

草薙素子。
・・・となると、これですよね。『攻殻機動隊(GHOST IN THE SHELL)』ですよ。この作品ではヒトとモノを「ゴースト」の存在によって分けます。

特に、アニメ版の攻殻機動隊は、『火の鳥 復活編』の要素を非常に多く感じる作品です。

・機械化された人間と人間の心を持つロボットとの関係。
・人間であることの証明として、ロボットが犯罪者として扱われることを要求する。
・プログラムと人間の意識との融合。

『復活編』と同じプロットが利用されています。もちろん、「2001年宇宙の旅」のHALも似たようなものですが・・しかし、セリフには随所に荘子の胡蝶の夢が入ってますね。機械化された人間がハッキングされて、記憶のプログラムを書き換えられ、まるで夢を見ているように、現実感覚が、ちょっとしたきっかけで崩れ落ちてしまうものでもあるということを無機的な世界の中で描いています。

「疑似体験も夢も、存在する情報は全て現実であり...そして幻なんだ。どっちにせよ、一人の人間が一生のうちに触れる情報なんて、わずかなモンさ。」 (攻殻機動隊(GHOST IN THE SHELL)より、バトーのセリフ)

Zhuangzi
『吾生也有涯、而知也無涯。以有涯隨無涯、殆已。已而為知者、殆而已矣。』(「荘子」養生主第三)
→人間の一生には限りがるが、我々の知識欲は無限にある。限りある人生で得られた知覚によって、無限の知識欲を満たそうとするのは自らを危うくさせるだけだ。さらにその知の欲望に身を委ねることは、いよいよ自らを危うくさせるのみだ。

・・・まぁ、いろいろありますが、ちょっと切りましょう。

もともと、監督の押井守という人は、荘子のファンでして、
うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー。

この人の出世作『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』の着想の元は、胡蝶の夢です。

参照:YouTube うる星やつら2 ビューティフルドリーマー Part 3/10
http://www.youtube.com/watch?v=iMVmbv7eSrs&feature=related

温泉マークが「今ある現実」が実は虚構の世界ではないかと気づく重要なシーンですが、この会話が始まる前に、無意味に蝶が眠っているカットがあります。これも胡蝶の夢のオマージュです。さくらさんと、温泉マークの会話が終わった後の学園祭の設備の中に蝶(正確にはモスラ)が紛れ込んでいますよね。ビューティフルドリーマーとは誰のことか・・。

で、胡蝶の夢というのは、
マトリックス。
この作品の冒頭にも出てきます。

"You ever have that feeling where you are not sure if you're awake or still dreaming?"
→ネオ『起きてるのかまだ夢をみてるのかはっきりしない感覚って味わったことないか?』

今ある現実に疑問を抱いた主人公が、マトリックスの存在に気づくというところですが、これも、胡蝶の夢のオマージュです。押井作品との共通点が多いんですよ。無機的な世界観と現実の知覚の狭間の描写だけでなく、市場みたいなところで銃撃戦をやってスイカが吹っ飛ぶとか、背中にプラグを突っ込んだり、現実と虚構の境目として「デジャ・ヴ」を使っているのも、押井守の影響でしょう。

「マトリックス」のテーマそのものが荘子の考え方に非常に近いんですよ。途中でクンフーもやっちゃうし。マトリックスに登場する予言者「オラクル」は禅宗の言葉を使っています。あれは、予言というより、「以心伝心」や「察し」なんですよね。

・・おかしいと思われるかも知れませんが、私は、アンドロイドの見る電気羊の夢の話をしているんじゃないんです。紀元前に自分の現実を蝶の夢かもしれないと考えた人の話をしているんです。

・・胡蝶の夢のような話ってね、無いんですよ。西洋に。
コッポラの胡蝶の夢。
去年公開かれた、『コッポラの胡蝶の夢』を観て確信しました。ああいう世界観ってキリスト教圏では生まれないんですよ。荘子の言葉に対する概念も、荘子のものの見方も。

今日はこの辺で。


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