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人生朝露

人生朝露

荘子の養生と鬱。

荘子です。
荘子です。

Zhuangzi
長梧封人問子牢曰「君為政焉勿鹵莽、治民焉勿滅裂。昔予為禾、耕而鹵莽之、則其實亦鹵莽而報予。芸而滅裂之、其實亦滅裂而報予。予來年變齊、深其耕而熟憂之、其禾繁以滋、予終年厭喰。」莊子聞之曰「今人之治其形、理其心、多有似封人之所謂、遁其天、離其性、滅其情、亡其神、以衆為。故鹵莽其性者、欲惡之芽、為性崔葦蒹葭、始萌以扶吾形、尋擢吾性、並潰漏發、不擇所出、漂疽疥瘍内熱溲膏是也。」(『荘子』則陽 第二十五)
→長梧の役人が子牢に言った。「君主が政治を行うにあたって、いいかげんなことがあってはならない。民を治めるのに、ちぐはぐな施策をするべきではない。かつて、私はいいかげんに田を耕し、ちぐはぐにしか草むしりをしなかった。その年の秋の収穫の時に、そのお返しをしてくれたよ。その年の米はひどい出来だった。しかし、翌年にはその方法を改め、鍬を十分に掘り下げて、丁寧に鋤をいれ、草むしりもしっかりとしてやったら、その年の稲は私の苦労に報いてくれた。十分にお飯が食えたよ。」荘子はこの話を聞いて言った。「今の人の身体や心のあり方は、この役人の言葉から学び取ることができるね。天から逃れ、本性から離れ、感情を塞ぎ、精神を損なう。これは、多くの人為が招く結果だろう。いいかげんな者には、好悪の欲望が芽生え、葦やススキのような雑草が本性を覆い尽くしてしまう。初めはそれが自分を助けるように思えるが、そのうち、体内にはびこり、外に膿を噴き出すようになってくる。できものや熱を持った腫れ物や精が尿として漏れる病は、これだろう。」

好悪の欲と、本性から離れた結果としての「病」、「漂疽疥瘍内熱溲膏」とありまして、このうち、最後の「溲膏」というのは、今でいうところの「糖尿病」であるかと思います。何故、紀元前の荘子に糖尿が分かるのかと言いますと、同じ雑篇の「徐無鬼篇 第二十五」に

「羊肉不慕蟻、蟻慕羊肉、羊肉羶也。」
→羊の肉が蟻を好む訳はないが、蟻の方は羊の肉にたかってくる。これは、羊の肉が生臭いからだ。

とあります。

・・・糖尿病の患者の小便に蟻がたかったんじゃないですかね?そこで、「精が漏れている」と感じたのではないでしょうかね?

「漂疽」「疥瘍内熱」をガンとすることは難しいでしょうが、「糖尿」は「有り」かと。「好き嫌い」と「本性から離れた生活」、「人為」が生み出す病といえば、そうじゃないですか?日本人が運動をしなくなり、欧米型の食生活に変えてから急激に増えた病です。実際にはどうかは分かりませんが、「荘子」という書物には「文明の縁にいる」とういう視点から読むと、こいつは糖尿だろうと思えるのです。だとしたら、東洋では最古の発見だと思われます。

>遺伝、食生活の乱れ、運動不足、肥満、ストレスの蓄積などが長く続いた結果、膵臓の機能を低下させ、糖尿病を引き起こすこととなります。

参照:糖尿病の主な原因
http://www.heiz-west.com/archives/2005/08/post_60.html

というわけで、
曹洞宗 金龍寺。 貝原益軒像。
福岡市中央区今川にお墓がございます、筑前の儒者・貝原益軒先生について。

『養生訓』 貝原益軒著。
江戸時代の健康指南書にしてベストセラー『養生訓』。病を未然に防ぎ、日頃の心がけや生活態度を通して、長寿を保つ秘訣を教え諭す名著であります。まさに生活習慣からの予防です。きちんとした食生活と、適度な運動、心の安定という養生の心得。儒者である益軒先生も老荘を読んでおられます。

貝原益軒(1630-1714)。
>養生の術、荘子が所謂庖丁が牛をときしが如くなるべし。牛の骨節のつがひは間あり。刀の刃はうすし。うすき刃をもつて、ひろき骨節の間に入れば、刃のはたらく余地ありてさはらず。ここを以って、十九年牛を解きしに、刀新たにとぎたてたるが如しとなん。人の世にをる、心ゆたけくして物とあらそはず、理に随ひて行へば、世にさはりなくして、天地ひろし。かくのごとくなる人は命長し。(『養生訓』巻之二)

そもそも、「養生(ようじょう)」という言葉は、「荘子」に由来しまして、「衛生」という言葉も「荘子」からのものです。「生を養い」「生を衛る」という考え方。「養生訓」で引用されている「庖丁解牛(ほうていかいぎゅう)」の故事には、

文恵君曰「善哉、吾聞庖丁之言。得養生焉。」(文恵君は「善いかな!私は庖丁の言葉に『養生の極意』を学んだ」)という箇所があります。牛の体のつくりを知り尽くし、19年牛を解体しても刀が刃こぼれ一つしないような達人の境地。これは、天理を心で捉えて、自然の働きに逆らわないことによってなされる。長寿を保つ秘訣も同じであるという意味でしょう。

参照:当ブログ 武道と荘子。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5012

その後の、「人の世にをる、心ゆたけくして物とあらそはず、理に随ひて行へば、世にさはりなくして、天地ひろし。」は、「処世」ですね。

参照:荘子と進化論 その24。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/diary/200910260000/

貝原益軒(1630-1714)。
「人の命は我にあり、天にあらず」と老子いへり。人の命は、もとより天にうけて生れ付たれども、養生よくすれば長し。養生せざれば短かし。然れば長命ならんも、短命ならむも、我心のままなり。身つよく長命に生れ付たる人も、養生の術なければ早世す。虚弱にて短命なるべきと見ゆる人も、保養よくすれば命長し。これ皆、人のしわざなれば、「天にあらず」といへり。もしすぐれて天年みじかく生れ付たること、顔子などの如くなる人にあらずむば、わが養のちからによりて、長生する理也。

こちらは『老子』の引用。ただし、益軒先生は儒者でありますから、老荘に共鳴しながらも「易経」からの影響が多いですね。「患(うれい)を思い、かねて之を防ぐ」、益軒先生の「楽訓」とかも「易経」の「楽天知命(運命を知り、天を楽しむ)」あたりからでしょう。

参照:中村学園 貝原益軒アーカイブ
http://www.lib.nakamura-u.ac.jp/kaibara/index.html

さて、「養生訓」において、個人的に気になるのは、

貝原益軒(1630-1714)。
「忿を懲し、慾を塞ぐは易の戒なり。忿は陽に属す。火のもゆるが如し。人の心を乱し、元気をそこなふは忿なり。おさえて忍ぶべし。」(怒りや欲を抑えるのは『易経』の戒めである。怒りは陽に属し、火が燃えるようなものである。心を乱し、元気をそこなうのは怒りである。忍ばねばならない。)

というところです。益軒先生のものと表現は似ているんですが、
紀元前の『荘子』とも共通するまなざしがあります。

Zhuangzi
「木與木相摩則然、金與火相守則流。陰陽錯行、則天地大該、於是乎有雷有靂、水中有火、乃焚大槐。有甚憂兩陷而無所逃,蟄郭不得成、心若縣於天地之間、慰瞥沈屯、利害相摩、生火甚多、衆人焚和。月固不勝火、於是乎有潰然而道盡。」(「荘子」外物 第二十六)
→木と木が擦れあって火を生じ、金と火がすれ違えば、金は流れる。陰陽の気が乱れ交うと、天地は大きくゆらぎ、雷が落ちてくる。雨の中でも火が生じて、大樹を焼いてしまう。憂いがあると、内外両面から災いを招きいれ、逃れる場所がなくなる。何かにびくびくしながら、心が定まらず、天地の間に宙吊りになっているように落ち着かない。利害の心の大きな擦れ合いが、火を起こし、周りの人間をも巻き込んでしまう。月のように静かな心もこの火にはかなわず、人に備わった「道(tao)」すら、脆くも崩れ去ってしまう。

分かります?

Zhuangzi
「與物相刃相靡、其行如馳、而莫之能止。不亦悲乎。終身役役、而不見其成功。蕭然疲役、而不知其所歸。可不哀邪。人謂之不死、奚隘。其形化、其心與之然。」(斉物論 第二)
→外物にとらわれ、他人と相争って身をすり減らし、あくせくと駆け回ってばかりで止める術も知らない。悲しむべきことだ。死ぬまであたふたとして、結局成功も見ずに死んでしまう。ぐったりと疲れきっていながら、帰るべき場所もない。悲しむべきことだよ。死ぬわけではない、というかもしれないが、肉体も、そして、その心も擦り切れてしぼんでいくではないか。

Zhuangzi
「知士無思慮之変則不楽、辯士無談説之序則不楽、察士無凌誹之事則不楽、皆囿於物者也。」(徐無鬼 第二十四)
→知識のある者は、自らの才覚が発揮できる事件がなければ楽しまず、弁舌の立つ者は、議論の糸口になりそうな問題が起きなければ楽しまず、告発をする者は、他人を謗る弱点がなければ楽しまない。皆、外物にとらわれているからだ。

社会が成長していき、そんな時代になったんです。
人間が賢くなり、競争や摩擦が激しくなり、他人のあら捜しばかりに明け暮れるようになって来た時代になってきたんです。

Confucius /Kongzi(孔子・551?479 BC)。
「儒」の考えが広まり、「こうしなければならない」「こうしてはならない」「こうしなければ幸せになれない」「こうすると不幸になる」というような、価値観の固定化・一般化(たとえ、その動機が善意であろうと、悪意であろうと)が始まることによって発生した、新たな文明の病。

Zhuangzi
「堯以天下讓許由、許由不受。又讓於子州支父、子州支父曰「以為我天子、猶之可也。雖然、我適有幽憂之病、方且治之、未暇治天下也。」夫天下至重也、而不以害其生、又況他物乎。唯無以天下為者、可以託天下也。」(『荘子』譲王第二十八)

2行目にありますね。「幽憂の病」と。おそらくは鬱病です。

社会的なストレスによるものや、老い、病気、障害などによって生ずる病・・・これも文明病ですね。文明が始まることによって顕著になってきた「心」の問題です。

長いこと書いていますが、『荘子』において、ほとんど命令形が見られないということにも気づいていただきたいんです。荘子は、直接「何々をしなさい」とか、「何々をしてはならない」とは言っていません。故事はあっても、格言らしきものがないでしょ?

ここも重要なんですよ。

今日はこの辺で。


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