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人生朝露

人生朝露

インセプションと荘子とボルヘス。

『Inception』(2010)。
『インセプション』のDVDも発売、

ということで、
悪かったわね!
荘子です。

参照:荘子と進化論 その57。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/diary/201008010000/

荘子と進化論 その61。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/diary/201009040000/

『Inception』は、今年、興行的にも成功した作品として残りそうなんですが、2007年に地味に公開された、巨匠フランシス・フォード・コッポラの、

『コッポラの胡蝶の夢(Youth without youth)』(2007)。
『コッポラの胡蝶の夢(Youth without youth)』に、良く似た話なんですよ。

これは偶然ではないんです。ノーランもコッポラも、
『伝奇集』 ホルヘ・ルイス・ボルヘス (1944)。
ボルヘスの『円環の廃墟』を読んでいるんです。

参照:インセプション (映画)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%BB%E3%83%97%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3_(%E6%98%A0%E7%94%BB)

>クリストファー・ノーランが10年ほど前から構想を練っていた脚本であり、イギリス系アルゼンチン人の作家であるホルヘ・ルイス・ボルヘス著「伝奇集」の短編「The Circular Ruins(円鐶の廃墟)」や「The Secret Miracle(隠れた奇跡)」から着想を得たという。

参照:コッポラの胡蝶の夢 インタビュー
http://eiga.com/movie/53714/interview/

──脱線しますが、小津監督の墓碑に仏教用語の「無」という文字が刻まれているのをご存じでしたか?
「『コッポラの胡蝶の夢』では、インドの賢者がベロニカ(ルピニ)をこう言って起こすシーンがある。形もなく/感情もなく/選ぶこともせず/何の意識もない/すべてが消え去る/はるか遠くに跡形なく/それが悟りなり。『無』とは深い言葉だ」

──物語の大筋は、中国の古典「荘子」の「胡蝶の夢」をモチーフとしていますね。初めて「荘子」を読んだとき、率直にどう感じられましたか?
「私が荘子の『胡蝶の夢』の話を初めて聴いたのは、ホルヘ・ルイス・ボルヘス(幻想文学作家・詩人)の講義の時だった。だから、ミルチャ・エリアーデ(原作者)の小説で再びこのエピソードを目にした時、どうしてもこのアルゼンチン出身のボルヘスとルーマニア出身のエリアーデの短編における共通点に強く惹かれたよ」(コッポラの胡蝶の夢 インタビューより)

《最初、夢は混沌としていたが、間もなく、いわば弁証法的なものとなった。よそ者は、焼け落ちた神殿にどことなく似た、円形の階段教室の中央にいる自分を夢にみた。黙りこくった大勢の学生が階段席を埋めていた。後方の学生たちの顔は数世紀のかなたの星の高みに浮かんでいたが、いかしじつにはっきりしていた。男は学生たちに解剖学や宇宙形状学、魔法などを講義していた。多くの顔が熱心に聞き、理解しようと努めていた。そのうちの一人を虚しい幻影という条件から救いあげて現実の世界に置こうとする、試みの意味を察しているかのようだった。男は寝ても覚めても、幻たちの答えについて考えていた。いかさまなものにあざむかれることなく、ある困惑の中でしだいに芽生えていく知性を見抜いた。男はこの世界に参入する価値ある魂を求めていたのだ。》(ホルヘ・ルイス・ボルヘス 『円環の廃墟』岩波文庫より)

Zhuangzi
網兩問景曰。「曩子行、今子止、曩子坐、今子起。何其無特操與?」景曰「吾有待而然者邪。吾所待又有待而然者邪。吾待蛇付蜩翼邪。惡識所以然。惡識所以不然。昔者荘周夢為胡蝶、栩栩然胡蝶也、自喩適志與。不知周也。俄然覚、則遽遽然周也。不知周之夢為胡蝶與、胡蝶之夢為周與。周與胡蝶、則必有分矣。此之謂物化。(『荘子』斉物論 第二)」
→モウリョウは影に向って問うた。「おまえは、動いたかと思えば止まり、座ったかと思えば起き上がっている。なんでそんなに節操がないんだ?」影は応えた。「俺は何かにそうさせられているのさ。その何かもまた何かにそうさせられているのさ。俺は蛇であれば鱗、蝉で言えば羽みたいなものなのかもな。どうしてそうなっているのか、どうしてそうならないのかも分かっていないんだ。」
→昔、荘周という人が、蝶になる夢をみた。
ひらひらゆらゆらと、彼は、夢の中では当たり前のように蝶になっていた。自分が荘周という人間だなんてすっかり忘れていた。ふと目覚めると、彼は蝶の夢から現実の人間・荘周に戻っていた。まどろみの中で、自分は夢で、蝶になったのか?実は、蝶の夢が自分の現実ではないのか?そんな考えがゆらゆらとしている。自分は蝶だったのか、蝶が自分であることなんて・・自分と蝶には大きな違いがあるはずなのに・・これを物化という。

「南海之帝為燻、北海之帝為忽、中央之帝為渾沌。燻與忽時相與遇於渾沌之地、渾沌待之甚善。燻與忽謀報渾沌之徳。曰「人皆有七穿以視聴食息、此獨無有、嘗試鑿之。」日鑿一穿、七日而渾沌死。(「荘子」 應帝王 第七)』
→『南海にシュクという帝、北海にコツという帝、中央に渾沌(コントン)という帝がいた。
シュクとコツとは、渾沌(コントン)の領土で出会い、渾沌は南北からきた彼らを温かく歓待した。そのもてなしのお礼をしようとシュクとコツは相談した。「人間の顔にはだれにも(目に二つ、耳と鼻にも二つ、口に一つ)七つの穴があって、それで物を見たり、音を聞いたり、食べ物を食べたり、呼吸をしたりしているが、この渾沌だけにはそれがない。お返しに渾沌にその穴をあけてあげよう」ということになった。そこで二人は一日に一つずつ穴を開けてやった。しかし、七日経つと渾沌は死んでしまった。』

斉物論篇の最後「胡蝶の夢」と應帝王篇の最後「渾沌の死」の寓話を引き抜いただけでも多少は分かると思うんですが、ボルヘスに似てるでしょ?夢と現実のあわいを描くボルヘスの着想に、荘子がからんでいるのは間違いありません。『ボルヘス怪奇譚集』『夢の本』には荘子が引用されています。

ちなみに、『円環の廃墟』の冒頭は、『鏡の国のアリス』からの引用です。

参照:荘子と進化論 その53。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/diary/201006190000/

同その60。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/diary/20100828/

ボルヘス怪奇譚集(1967)。
とくに、『ボルヘス怪奇譚集』で集められた中国の説話は、まるで小泉八雲の情熱が乗り移ったかのようにタオイズムに関する話が並べられています。冒頭が呉承恩の夢の中の龍の話、荘子は「胡蝶の夢」と「西施の顰に倣う」。白蓮教徒の話、カフカから引っ張ってくるときもわざわざ「シナの長城」、さらに、ユングにタオイズムを引き合わせたリヒャルト・ヴィルヘルムのお話まであります。

参照:小泉八雲と荘子。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5046

中島敦がボルヘスと対比されることもありますが、これも老荘ですよ。

中島敦「名人伝」と荘子。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5014

ただし、ボルヘスとインセプションをつなぐのに、一番分かりやすいのは『荘子』ではなく同じ道家の『列子』の寓話なんです。列子は『荘子』にもたびたび登場しますし、列禦寇篇という篇も特別に設けられていますし、内容もカブります。『ボルヘス怪奇譚集』に収録されているものは『荘子』にはなく、『列子』の周穆王篇のみです。「胡蝶の夢」や「邯鄲の夢」に比べると知名度は低いですが、これも大事な夢のお話です。あえてボルヘスから持ってきます。

《鄭の樵が野でおびえた鹿に出会い、これを殺した。他人に見つけられないように、彼はそれを森に埋め、葉や枝で覆っていた。ほんの少したつと彼は隠し場所を忘れてしまい、全部夢で見たことだと思った。彼はこのとこを夢物語であったかのように皆に話した。話を聞いたことがある男が、隠された鹿を探しにでかけ、それを見つけた。彼はそれを家に持ち帰り、妻に言った。
 『樵のやつは鹿を殺した夢を見て、それをどこかに隠したか忘れてしまった。そこでわしが見つけてやった。あの樵はまったくもって夢想家だ。』
 『あなたはきっと、鹿を殺した樵にあった夢をみたのよ。そんな樵がいたなんてこと、本気で信じていて?でも鹿は目の前にいるからあなたの夢は間違いなく本当ね』と妻が言った。
 『夢のおかげでわしがこの鹿を見つけたとしてもだ』と夫がやり返した、『ふたりのうちどっちが夢を見ていたか、はっきりさせるまでもあるまい。』
 その夜、鹿のことをまだ頭に残しながら樵は家へ帰った。そして彼はまさしく夢を見た。夢の中で彼は鹿を隠した場所の夢を見、そこを見つけた男の夢を見た。明け方、彼はそのもう一人の男の家へ行き、鹿を見た。二人の男は言い争い、決着をつけるためについに判事の前に出頭した。判事は樵に申し渡した。
『お前は実際に鹿を殺し、それが夢だと思った。それから本当に夢を見て、それが真だと思った。もう一人の男は鹿を見つけ、いまおまえと争っているが、しかしその男の妻は彼が誰か他の者を殺した鹿を見つけた夢を見たと思っている。ようするに、誰も鹿を殺してはいない。しかし、この目の前に鹿がいるのだから、いちばんよいのはふたりで分けることだ。』
 この判決は鄭の王の耳に届いた。鄭の王はこう言った。
 『その判事じゃが、彼は鹿を等分している夢を見ているのではないか?』(列子 3世紀頃)》
(以上『ボルヘス怪奇譚集』「隠された鹿」より。)

『インセプション』そのものでしょ?

ちなみに、この『列子』の寓話は日本では『蕉鹿の夢(しょうろくのゆめ)』もしくは、獲物にちょいとおっかぶせた葉っぱから『芭蕉葉の夢』といいます。

芭蕉。
君や蝶 我や荘子が 夢心   芭蕉

芭蕉はもちろん『荘子』だけでなく、『列子』も読んでいますよ。

参照:湯川秀樹 創造的人間:東洋的思考から理論物理学へ
http://www.youtube.com/watch?v=CqNPmXouwqc

Urusei Yatsura - Movie 2 - Beautiful Dreamer - Part 3/10
http://www.youtube.com/watch?v=Pss_bXGSoUg&playnext=1&list=PLC932AE319BBA6163&index=37

今日はこの辺で。


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