素領域と李白の逆旅。今日はほとんど記録用。『山林與。奉壌與。使我欣欣然而樂與。樂未畢也、哀又継之。哀樂之來、吾不能禦、其去弗能止。悲夫。世人直為物逆旅耳。夫知遇而不知所不遇、知能能而不能所不能。無知無能者、固人之所不免也。夫務免乎人之所不免者、豈不亦悲哉!至言去言至為去為。齊知之所知、則浅矣。』(『荘子』知北遊 第二十二) →山林に入り、草原を逍遥すれば、美しい景色に心を奪われ、楽しい心持ちになるが、その気分がおさまらないうちに哀しい気分が湧き起こってくる。その変化を留める事もできない。悲しむべきことだ。世の人々は、外物の「逆旅(仮の宿)」に過ぎない。出会うことのできる範囲でしか知ることはできず、出来ることの可能性の中でしか生きることはできない。知ることができる力も、することができる力にも限界があるのは、人の免れえぬところだ。さかしらな知識や、力へのうぬぼれで、それを越えようとする人のありようは、悲しむべきことではないか。至高の言葉は言葉を捨て去り、至高の行いは行いを捨て去る。知るということを知らずして全てを知った気でいるのは、浅はかなことだ。 『荘子』におけるこの「逆旅」が李白の『春夜宴桃李園序』の前文で、 夫天地者萬物之逆旅 天地は万物の逆旅(仮の旅籠)で 光陰者百代之過客 光陰はは永遠の旅人だ 而浮生若夢 儚いこの世は夢のごとく 爲歡幾何 喜んだところでどれほどのものだろう 古人秉燭夜遊 古人が燭台の下で夜遊びしたのには 良有以也 それと良とする所以があった 況陽春召我以煙景 春は霞たなびくこの景色で誘いよせ 大塊假我以文章 大塊は私の詩情を呼び覚ます 「天地は万物の逆旅、光陰は百代の過客」と表現され、日本でも『奥の細道』や『日本永代蔵』にも引用されているものとして有名です。 参照:当ブログ 李白の逆旅と芭蕉と荘子。 http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5047 ・・・これを湯川秀樹さんが素領域理論の参考にしたという話は聞いていたんですが、「素粒子と混沌」ほどには残っていなくて、著作では見つからなかったんです。しかし、講演で李白との関係を述べていらっしゃいました。長いですが、保存しておきます。 ---------------------(以下引用)--------------------------------- 素領域と李白 さてわたし自身のことですが、私は素領域というものを何年か前に考え出しました。その話をちょとだけ申します。物理をやっておればそういうものに思いいたるだろうといわれますが、簡単に思いいたらないのです。こういうものに思いいたったのは私だけしかいないんです。その説明は、後回しにして、英語の名前をエレメンタリー・ドメイン(elementary domain)、これは私がかってにこしらえた言葉です。 それはどういうものかと言いますと、素粒子の話に深入りするつもりじゃないんですけども、普通の物というのは空間の中にあるわけです。ユークリッド空間と普通申しますけれども、その中にある。ところが、ユークリッド空間というのは、これは分割していきますと、点になるわけですね。だから、素粒子のような一番小さいもの、これに点を対応させる。もし素粒子が本当に素粒子でないなら、もっと基本になるものを点にしよう、そういう傾向は物理学の発達を見ておりますと、十八世紀くらいから非常にはっきり出てくるわけです。実は、ニュートンとか、あるいは皆さんが学校でお習いになったドルトンの原子論というのがありまして、その原子も点じゃないですね。ニュートンの原子も点じゃない。小さいけれども何か大きさのあるものである。ところが十八世紀以降、みんなが点までもっていこうとするわけです。そうでないことを考える人もありますけれども、大勢は点までいく。これはユークリッド幾何学の伝統に合致している。しかしもともとニュートンが考えたことではなかった。ニュートンはなにか広がりを持ったものを考えようとした。デカルトの考え方はちょっと違いますけれども、デカルトも物質は延長なりとかいいまして、やはり広がりをいつも問題にしているわけです。ただ、彼のは原子論であるのか、原子論でないのか、非常にわからんむつかしいことをいうているわけです。ニュートン、デカルトのころは別として、後になると、要するに分けていけば、空間というのは無限分割できるはずだから、点までいくだろう、それでずっときたわけです。それが今でも物理学の正統、素粒子の正統的な考え方になっている。たいていの人は点まで分けることしか考えない。しかしわたしはずっと前から素粒子自身が広がりをもつと考えていた。それが素領域というような概念へ飛躍したわけです。それは今から十年近く前に考えついたんですけれども、一見何の関係もないようなところからきているわけです。 ヒントは皆さんもご存じの李白という詩人の文章です。李白という詩人と素領域と、いったい何の関係があるのか。李白の非常に有名な文章に「天地は万物の逆旅にして、光陰は百代の過客なり」という言葉があります。漢文だと接続詞が入りますけれども、省略します。意味もわたし流の解釈はありますけどれども、それも面倒なので省略しますが、こういうところから始まっている文章ですね。これはわたしは若いときに読んで覚えているわけです。ついでに申しますと、芭蕉はたしか『奥の細道』の一番初めにこれを引用している。引用の仕方がわたしと芭蕉の大きく違うところなんですが、その話はやめまして、ご存じと思いますが、逆旅というのは宿屋のことです。ホテルです。天地は万物の逆旅、これで一つの概念構成になっておりますね。これはどういうことか、これば別にこれだけのことです。天地、これをかりに今の空間、宇宙と読んでもいいですね。李白は空間というふうに抽象化しておりませんけれども、これを抽象化しますと、物理に近いような空間、天地と空間といちおう同定するとします。その次に万物とは何か、万物を何に同定するのか。私は素粒子論をやっておりますので、当然素粒子で、万物というのは目に見えるものだけじゃなしに、もっとミクロの世界ということで、空間かなにかが蜂の巣みたいになっている。これすなわち素領域です。つまりホテルというのはどういうものか、ものすごく巨大なホテルがある。たくさんの部屋があって、部屋は無限に細かいのじゃなく、人間がそこに寝たりできるくらいの広さで、ベッドがあり、椅子があるというサイズに分けられている。その分けられているのが逆旅の中の部屋、これが素領域です。つまり、空間というのは無限分割できるのではなしに、適当なところで分割をやめねばならぬ。自然界というのは本来そういう性格をもっているのじゃないか。素粒子というのはつまり宿屋に泊まっているお客さんですね。万物というのは、実はこのコンテクストでいえば、それはつまり旅人、李白は過客ということばを使っていますが、まさにその過客です。万物は過客だという、そういう関係が同時にある。 なぜこういう考え方が都合がいいかというと、詳しくは申しませんけれども、つまり天地をホテルだと思ってホテルの側からみるわけです。ホテルの側から見ると、旅人というのはだれであってもいいわけや。旅人の側からみるんじゃないんですよ。ホテルの側からみるんですよ。そうしますと、たとえば一一〇号室という部屋がありますと、これは一一〇号さんであって、ここにたまたま誰が泊まっていようとも、宿賃を払うてくれたらいいわけや。あくる日になったらまた誰かがやってくる。ホテルにとってはどの部屋がどの部屋に詰まっていることが問題になる。 素粒子というのはそういうもんなんですね。なぜそういえるのか。ここでは物理学の話に立ち入るのはやめますけれども、つまり素粒子というのは、ある程度個性みたいなものは奪われていくわけですよ。入れ代わったりしても、分からない。そうちうことがいろいろありますが、とにかくそこから出発して、そこは部屋が空いているとか、詰まっているとか、詰まっているときにはそこに素粒子があるというような、そういう考え方をしようとしているわけです。 そこで重要だと思われるのは、つまり素領域という概念です。素粒子という概念はも前からあって、それには固定概念がくっついているわけです。そのもうひとつ前に素領域という概念を持ち込んだということで、それまでの素粒子論とは、非常に違う。わたし自身考えておったとしても、そのへんで少し違うことになったわけです。これはしかしある種推論をやっているわけです。とにかく推論だけれども、全然奇妙な同定から始まっているわけです。なんで李白の文章なんかを思い出して、それと素粒子と結び付けたか、それは自分ではよく分かりませんけれども、そういう同定や類推をやった。それから後ずっと発展させてきているというわけです。これ以上立ち入ることはいたしませんが、出発点には同定されるべきものの片一方があって、その相手として素領域という概念が出てきた。それから全体の構造みたいなものがもとの李白の文章の構造と同定された。概念の間の特定の関係が、アナロジーか等価変換によって、新しい概念構成を容易にしている。そういうことが、わたし自身の経験としてあるのです。(1974年10月「創造性について -同定と混沌-」湯川秀樹著作集〈4〉科学文明と創造性より) ---------------------------------(引用終わり)------------------- ・・・おそらくは、「知魚楽」のある秋水篇あたりから湯川さんが飛躍させた理論であろうと思われます。 参照:秋水篇の世界。 http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5068 >また余談になりますけれども、人間というのは非常に違う段階で同じようなことを考えている。非常に天才的な人というのは、同じようなことをずっと昔に考えているんですね。わたしはさっき李白の話をしましたけれども、李白の思想というのはだいたい荘子の思想です。その話を今日はしませんけれども、荘子というのは本の名前でもあり、人名でもあるわけですが、いろんな面白いことが書いてある。わたしは非常に好きでして、そこからいろんなヒントを得られたりする。(同講演より 湯川秀樹の言葉) 参照:当ブログ 量子力学と荘子。 http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5057 湯川秀樹と荘子 その2。 http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5009 荘子と進化論 その76。 http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/diary/201105200000/ 今日はこの辺で。 ジャンル別一覧
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