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人生朝露

人生朝露

荘子とクオリア。

荘子です。
荘子です。

エルヴィン・シュレーディンガー
今日はシュレーディンガーで。

参照:寓話と公案とシュレーディンガーの猫。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5055

≪私は以前、『道徳経』の異なった二種類のドイツ語訳を持っていた。私の記憶では、両方読み比べて初めて、それが同じ短編(Werk-lein)を翻訳したものだと分かった次第であった。(ついでながらこの〔ドイツ語の〕縮小名詞にする後綴leinは、その本を軽んじるつもりで用いたものではない。この名高い原典の簡潔さ故に、ウィットのつもりで〔私が〕、驚きの気持ちを表現したくて書いたまでのことである。老子は『道徳経』を税関の検閲を待つ間に記したといわれる)≫(『わが世界観』エルヴィン・シュレーディンガー著 現実とは何かより)

・・・シュレーディンガーも『老子道徳経』を読んでいます。むしろ、ここで重要なのが、この直後でして、

≪たとえ最高の教養をもった人同士であっても、相互の了解にとってまことに超えがたい壁が現実にある。それは感覚作用の特性だと言えよう。そのような特性が第一に重要だというわけではないし、それについては幾度も論及したので、これ以上述べる必要もなかろう。たとえば次のような疑問をよく耳にする。いわく「君が芝生の緑を私と同じように見ているというのは、本当に確かなことだろうか」と。このような疑問に答えるのは不可能であり、むしろそれが意味ある問いかどうかというと、逆に問いただしてみたくなる。二色型色覚者(彼らのことを部分的色盲あるいは赤緑混同者と、不正確に呼ぶ場合が多い)も太陽スペクトルを正常な三色型色覚者が識別する正確な色帯として見ているのである。その見え方を三色型色覚者の側から言えば、一対の補色(それをA、Bとしよう)を濃い鈍色のAから中間の灰色を経て濃い鈍色のBにいたる、全ての組み合わせで重ね合わせること(絵の具板の上に〔色を〕重ね塗ることではない)によって、スペクトル合成して見ているということになろう。
 右に述べたことは客観的に確認することができる。だが、二色型色覚者が、可視部の赤色の端と紫色の端とをどのように見るかは、正常な三色型色覚者の色感覚との比較で確かめられたことではない。これを理論的に推論すれば、【原則的に確立されていないことに対して推論を言うのは戯言だと決め付けずに、容認していただけるならば】、二色型色覚者は長波長(赤色)の端で濃い黄色を見、その濃さが中性色(灰色)の点まで減少して見え、そこから先は次第に濃くなってゆく青色を見るであろう。≫(同上)

逆転クオリア。
いわゆる「クオリア(qualia)」についてシュレーディンガーが語っている部分です。

参照:Wikipedia クオリア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%82%A2

同時に、荘子の逍遥遊篇の冒頭の「天之蒼蒼、其正色邪(天の蒼々、其れ正色か)」と秋水篇の最後の「濠上問答」そのものです。
Zhuangzi
『天之蒼蒼、其正色邪。其遠而無所至極邪、其視下也亦若是、則已矣。』(『荘子』逍遥遊 第一)
→空が青々としているのは、「本当の空の色」なのだろうか?限りなく遠いところにあるから青く見えるのではないだろうか?鵬の高みから見下ろせば、この大地は青一色なのだろう。

『連叔曰「然、盲者無以與乎文章之觀、聾者無以與乎鐘鼓之聲。豈惟形骸有聾盲哉?夫知亦有之。是其言也,猶時女也。」』(『荘子』逍遥遊 第一)
→連叔は言う。「確かに、盲者は文章を目で感じ取ることは出来ず、聾者は鐘の音を耳で感じととることはできない。ただ、それは肉体において見えないとか聞こえないなどという話だ。知者と呼ばれる人の中にも、真実を見ることや聞くことが不自由な者がいる。それは、あなただ。

『民食芻拳、麋鹿食薦,且甘帯、鴟鴉耆鼠、四者孰知正味』(『荘子』斉物論 第二)
→人間は、家畜を食べ、シカは野草を食べ、ムカデはヘビを美味いとするし、トビやカラスは鼠に舌鼓を打つが、ヒト、シカ、ムカデ、カラスのうち、本当の美味を知っている者はだれだろう?

参照:長岡半太郎と荘子。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5007

Zhuangzi
『荘子与恵子游於濠梁之上。荘子曰「魚出游従容、是魚之楽也。」恵子曰「子非魚、知魚之楽。」荘子曰「子非我、安知我不知魚之楽。」恵子曰「我非子、固不知子矣。子固非魚也。子之不知魚之楽全矣。」荘子曰「請循其本。子曰女安知魚楽云者、既已知吾知之而問我。我知之濠上也。」』(『荘子』秋水 第十七)

「濠上問答」と言うよりも、湯川秀樹さんのいう「知魚楽」つまり「魚のクオリアを知る」という表現の方が早いですね。ここは、湯川さんの随筆から引用します。

湯川秀樹(1907~1981)。
≪色紙に何か書けとか、額にする字を書けとか頼んでくる人が、あとを絶たない。色紙なら自作の和歌でもすむが、額の場合には文句に困る。このごろ時々「知魚楽」と書いてわたす。すると必ず、どういう意味かと聞かれる。これは「荘子」の第十七篇「秋水」の最後の一節からとった文句である。原文の正確な訳は私にはできないが、おおよそ次のような意味だろうと思う。
 ある時、荘子が恵子といっしょに川のほとりを散歩していた。恵子はものしりで、議論が好きな人だった〔編者注:恵子は荘子と同時代の思想家で名家(論理学派)の代表者だが著作は伝わっていない。おちゃめな役で『荘子』によく登場する〕。

 二人が橋の上に来かかった時に、荘子が言った。「魚が水面にでて、ゆうゆうとおよいでいる。あれが魚の楽しみというものだ」
 すると恵子は、たちまち反論した。「君は魚じゃない。魚の楽しみがわかるはずがないじゃないか」
 荘子が言うには、「君は僕じゃない。僕に魚の楽しみが分からないということが、どうしてわかるのか」
 恵子はここぞと言った。「僕は君でない。だから、もちろん君のことはわからない。君は魚ではない。だから君には魚の楽しみがわからない。どうだ、僕の論法は完全無欠だろう」
 そこで荘子は答えた。
 「ひとつ、議論の根元にたちもどって見ようじゃないか。君が僕に『君にどうして魚の楽しみがわかるか』ときいた時には、すでに君は僕に魚の楽しみがわかるかどうかを知っていた。僕は橋の上で魚の楽しみがわかったのだ」

 この話は禅問答に似ているが、実は大分違っている。禅はいつも科学のとどかぬところ話をもってゆくが、荘子と恵子の問答は、科学の合理性と実証性に、かかわりをもっているという見方もできる。恵子の論法の方が荘子のよりはるかに理路整然としているように見える。また魚の楽しみというような、はっきり定義もできず、実証も不可能なものを認めないという方が、科学の伝統的な立場に近いように思われる。しかし、私自身は科学者の一人であるにもかかわらず、荘子の言わんとするところの方に、より強く同感したくなるのである。
 大ざっぱにいって、科学者のものの考え方は、次の両極端の間のどこかにある。一方の極端は「実証されていない物事は一切、信じない」という考え方であり、他の極端歯「存在しないことが実証されていないもの、起り得ないことが証明されていないことは、どれも排除しない」という考え方である。
 もしも科学者の全部が、この両極端のどちらかを固執していたとするならば、今日の科学はあり得なかったであろう。デモクリトスの昔はおろか、十九世紀になっても、原子の存在の直接的証明はなかった。それにもかかわらず原子から出発した科学者たちの方が、原子抜きで自然現象を理解しようとした科学者たちより、はるかに深くかつ広い自然認識に到達し得たのである。「実証されていない物事は一切、信じない」という考え方が窮屈すぎることは、科学の歴史に照らせば、明々白々なのである。
 さればといって、実証的あるいは論理的な完全に否定し得ない事物は、どれも排除しないという立場が、あまりにも寛容すぎることも明らかである。科学者は思考や実験の過程において、きびしい選択をしなければならない。いいかえれば、意識的・無意識的に、あらゆる可能性の中の大多数を排除するか、あるいは少なくとも一時、わすれなければならない。
 実際、科学者の誰ひとりとして、どちらかの極端の考え方を固守しているわけではない。問題はむしろ、両極端のどちらに近い態度をとるかにある。≫(「知魚楽」『湯川秀樹著作集6』より)

Zhuangzi
『無窮、無止、言之無也、與物同理、或使、莫為、言之本也、與物終始。道不可有、有不可無。道之為名、所假而行。或使莫為、在物一曲、夫胡為於大方?言而足、則終日言而盡道。言而不足、則終日言而盡物。道、物之極、言、默不足以載。非言非默。議其有極。』(『荘子』則陽 第二十五)
→無限の止めなき世界は言葉で言い表すことはできず、ただ物の理と一になるしかない。有為であるとする説と、無為であるという説は、議論のきっかけにはなるが、結局のところ、物にとらわれたままで、終始するだけだろう。「道(tao)」とは、有るということもできず、無いということもできない。「道」という名前すら仮のものに過ぎない。有為の説も、無為の説も、物の一部分について語っているのであって、天の大いなる働きには、何の関係もない。もし言葉が真実を説明するのに十分な道具あったとしたら、一日中話し続けてその全てが道について表現できるということになるが、言葉が不十分な道具であるとすると、一日中話し続けても、全て物を語っているにすぎない。道いうのは物の究極であり、言葉と沈黙のみでは把握することはできない。言葉と沈黙にもよらずして、その極まりあるところを議論せよ。

エルヴィン・シュレーディンガー
「西洋科学の構造に東洋の同一化の教理を同化させることによって解き明かされるでしょう。一切の精神は一つだと言うべきでしょう。私はあえて、それは不滅だと言いたいのです。私は西洋の言葉でこれを表現するのは適さないということを認めるものです。」(エルヴィン・シュレーディンガー)

参照:量子力学と荘子。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5057

荘子の造化とラプラスの悪魔。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5087

秋水篇の世界。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5068

今日はこの辺で。


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