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人生朝露

人生朝露

カフカのリアリティ。

荘子です。
荘子です。

フランツ・カフカ(1883~1924)。
フランツ・カフカ(Franz Kafka(1883~1924)と荘子をやっています。

参照:Wikipedia フランツ・カフカ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%84%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%95%E3%82%AB

参照:カフカと荘子。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5106

カフカと荘子 その2。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5108

参照:井の中のカフカ。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5109
 
前回も書きましたが、カフカの『巣穴』という作品は、『荘子』の穴にまつわる箇所を引き抜いているものが多く見られます。

『カフカ寓話集』 池内紀編訳 岩波文庫。
≪なにしろ巣穴が気にかかる。入り口から一目散に走り去ったが、まもなくもどっていって、近くにぴったりの隠れ場所を見つけ、我が家の入り口を-今度は外から-昼と夜となく見張っている。
 人はこれを愚かしいというのだろうが、私にはいうかいもなくうれしいし、それ以上に落ち着きを与えてくれる。自分自身の住居を前にしているというより、自分自身を前にしているようで、眠っているとき、それも幸運にもぐっすり眠りこけているとき、眠りながら我が身を見張っている。私には並はずれたところがあって、夜の亡霊どもを、よるべなくまた無心に眠りこけた中で見るだけでなく、目覚めている時も同時に、はっきりとした判断力のもとに目の当たりにすることができる。そしてそれは自分が思っているほどに、また巣穴に降りていけばきっとまた思うように奇妙なことながら、さして悪い状態ではないと信じている。この点で、-まあ他の点もそうだが-巣穴から出てみるのは必要なことだ。(カフカ『巣穴』より)≫

Zhuangzi
『故出而不反、見其鬼。出而得,是謂得死。滅而有實、鬼之一也。以有形者象無形者而定矣。
出無本、入無竅。有實而無乎處、有長而無乎本剽、有所出而無竅者有實。有實而無乎處者、宇也。有長而無本剽者、宙也。有乎生、有乎死、有乎出、有乎入、入出而無見其形、是謂天門。『荘子』(庚桑楚 第二十三) 』
→故に、出ることばかりをして帰ることがなければ、その【鬼】を見る。外に出て是を得るというのは、死を得るという。滅してもその実体があるのは、鬼と一となったものだ。形あるものが形なき世界に象られている時に心が定まる。出現すれどその源はなく、無に帰すれども入るべき【穴】もない。無限に広がりながらどこにあるかもわからず、時の長短があれども始まりも終わりもない。無限に広がりながらどこにあるかもわからないものを「宇」といい、時の長短があれども始まりも終わりもないものを「宙」という。あるいは生、あるいは死、あるいは出、あるいは入。出入りしながらもその形がみえないもの、これを天門という。

・・・白文と対比した方がイメージが重なりやすいですね。この場合の【鬼】は、幽霊と呼ぶ方がふさわしいものでしょう。

参照:Yoda Dagobah
http://www.youtube.com/watch?v=u9Md7i6lUAM

芥川龍之介(1892~1927)。
芥川龍之介の『歯車(1927)』も、「レエン・コオトを着た幽霊」から始まります。

参照:芥川龍之介と荘子。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5048

フランツ・カフカ(1883~1924)。
・・・前掲の『荘子』の文章は「宇宙」という言葉の出典の元なんですが、カフカも読んでいます。ま、外篇のラスト、知北遊篇を熟読しているくらいなので、カフカが雑篇のしょっぱな、庚桑楚篇を読んでいてもおかしくはないですね。"Inner space"と"Outer space"をはっきりと指し示している点において、『荘子』の思想のみならず道教的世界観を知る手がかりとなる箇所でもあります。同時に、「穴」というキーワードは、荘子が「無」を示すときに多用するもので、カフカが『荘子』の要所を何度も突いているところに、執着すら感じます。

ちなみに、この庚桑楚篇の「穴」の直前には、
Zhuangzi
『若是者、禍亦不至、福亦不來。禍福無有、惡有人災也?』
→かくの如き者は災禍にあうこともなく、幸福になることもない。禍福もあるところがない者が、人災に遭うだろうか?いや、遭うはずもないのだ。

なんていうのもあります。日本に残っている古い風習の中でも、道教の影響の濃い「節分」のネタ元でもあります。「内と外」「禍と福」そして「鬼」。

参照:節分
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AF%80%E5%88%86

荘子がいるらしき場所。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5071

『カフカ寓話集』 池内紀編訳 岩波文庫。
≪ずいぶん永く眠ったらしい。眠気がおのずと消え失せた状態にもどっていて、それで眠りが浅くなっていたのだろう。かすかな音を聞きつけて目が覚めた。(中略)こちらの留守中、そやつが新しい穴を掘ったのだ。通路のどこかでつながって空気が流れるものだから、変な音がする。(中略)穴にもどったとき、すでに音はしていたはずだが、まるきり耳にしなかった。一眠りして落ち着いたとき、初めて気がついた。巣穴の住人としての耳が初めて聞き取ったのである。(中略)穴掘りも大変だが、掘ったあと穴を埋めるのがもっと大変で、一切が無駄であって、音の出所にいきつかず、いぜんとして一定の間をおいて聞こえてくる。シューシューといった音でもあれば、ピーピーといったぐあいにも聞こえる。しばらく放置しておくことにしよう。たしかに耳ざわりだが、こちらがつけた見当に狂いはあるまい。強まったりしない。反対に、いつ不意に-それを密かに待ち受けているのだが-止むかもしれないのだ。(カフカ『巣穴』より)≫

Zhuangzi
→今、私は無になったのだよ。いやいや、お前は人籟(じんらい)が聴こえても、地籟(ちらい)は聴こえないだろう。地籟が聴こえても天籟(てんらい)は聴こえないのだな。」「なんです、その天・地・人の声というのは」。子?は答えた「大地の吐く息、それを風という。ただ吹いているのではない、ひとたび大地の息が駆け抜けると、地上のあらゆる【穴】がいっせいに鳴り響く。お前も聞いたことがあるだろう。風が山林に吹いてざわざわと鳴り出す様を。巨木にあいた数百の【あな】、鼻のような、口のような、耳のような、枡のような、杯のような、臼のような、井戸のような、水溜りのような、形も深さもさまざまな【穴】を通して、いろんな声を出す。ごうごう、ざわざわ、ひゅうしゅう、しゅうしゅう、さらさら、ちりちり、きいきい。前の風がひゅうと鳴って、後の風はごおっと去る。大地の呼吸が止むと、【ただの空っぽの穴ぼこだ。】お前は木が大きく揺れた、小さく揺れたとしか見ていないだろう。しかし、そこには大いなる大地の呼吸の音がある。」「地籟は風が【あらゆる穴】から通り抜ける音、人籟は人の息が空っぽの木の管に息を吹く音、笛や笙のようなものですね。ならば天籟とは何ですか?」「天籟はこの世界のあらゆるもの。万物が鳴るに任せて鳴らせている音さ。おのおのが、おのおのの、おもむくままに鳴り響く。はたして、この世にあふれる音はいったい誰がならせているのかね?」(『荘子』斉物論 第二)

カフカの『巣穴』で何度も出てくる音ですが、これまた『荘子』の「穴」と一致します。音から何かの存在を探るということですね。

参照:The Tao of Kung Fu #1 - "Fear is the only darkness."
http://www.youtube.com/watch?v=J5kBqrHphjo

・・・ここまで書くと分かっていただけると思うんですが、カフカの『巣穴』は、意図的に、読者に五感をはたらかせることを促す表現を使っています。おそらく、狙っているのは、『荘子』のこの【穴】。

Zhuangzi
『南海之帝為?、北海之帝為忽、中央之帝為渾沌。?與忽時相與遇於渾沌之地、渾沌待之甚善。?與忽謀報渾沌之徳、曰「人皆有七竅、以視聽食息、此獨無有、嘗試鑿之。」日鑿一竅、七日而渾沌死。』(『荘子』応帝王 第七)
→南海にシュクという帝、北海にコツという帝、中央に渾沌(コントン)という帝がいた。
シュクとコツとは、渾沌(コントン)の領土で出会い、渾沌は南北からきた彼らを温かく歓待した。そのもてなしのお礼をしようとシュクとコツは相談した。「人間の顔にはだれにも(目に二つ、耳と鼻にも二つ、口に一つ)七つの穴があって、それで物を見たり、音を聞いたり、食べ物を食べたり、呼吸をしたりしているが、この渾沌だけにはそれがない。お返しに渾沌にその穴をあけてあげよう」ということになった。そこで二人は一日に一つずつ穴を開けてやった。しかし、七日経つと渾沌は死んでしまった。

人のかたち、渾沌のかたち。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5089

荘子とゴースト。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5066

フランツ・カフカ(1883~1924)。
≪「真のリアリティはつねに非リアリスティックです。」とフランツ・カフカは語っている。「支那の色彩版画の明澄さ、清純さ、真実さをご覧なさい。あのように語ることができるということ-確かにそれは何ものかです。」(G.ヤノーホ著 『カフカとの対話』より)≫

参照:03 What is Real
http://www.youtube.com/watch?v=ON9yQpR0y30&feature=related

今日はこの辺で。


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