荘子とカフカと中島敦。荘子です。 カフカの『巣穴』にこだわっています。 参照:井の中のカフカ。 http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5109 カフカのリアリティ。 http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5110 カフカの『巣穴』は、得体の知れない動物(全て『荘子』からの着想だとすると、狐のはず)が、五感を働かせて穴を掘り続けているという話です。これ、普通にイメージするなら、ニーチェの『ツァラトゥストラ』になっちゃうと思います。 ≪不意にツァラトゥストラの耳は、恐怖を感じた。いままで騒ぎと哄笑にあふれていた洞穴が、急に死の静寂に変わったためである--そしてツァラトゥストラの鼻は松の実でも焦げるようなかんばしい香煙を嗅いだ。「どうしたのだろう、かれらは何をしているのだろう」と彼は怪しみ、入り口近くににじりよって、中の客人たちの様子をそっと伺った。奇怪!奇怪!(『ツァラトゥストラはこう言った』岩波文庫 氷上英廣訳より)≫ 参照:人間万事、ツァラトゥストラの偶然。 http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5090 ??の剣の偶然、??の剣の運命。 http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5091 ≪あわれ!時間はどこへ行ってしまったのか?私は深い井戸の中に沈んだのではなかろうか?世界は眠っている--ああ!ああ!犬が吠える。わたしの真夜中のこころがいま考えることをあなたがたに伝えるよりは、いっそわたしは死にたい、死にたい。(中略)鐘よ、甘い竪琴よ!甘い竪琴よ!わたしはおまえの響きが好きだ。おまえの酔いしれた蟇(ひきがえる)のような声が好きだ!--なんと遠い昔から、なんとはるかなところから、お前の声は伝わってくることか!(同上)「ましな人間」たちよ、あなたがたはどう思うのだ?このわたしは預言者なのか?夢見る者なのか?酔える者なのか?夢を解く者なのか?真夜中の鐘なのか?(中略)苦痛はまた喜びであり、呪いはまた祝福であり、夜はまた太陽なのだ--去る者は去るがいい!そうでない者は学ぶがいい、賢者はまた愚者であることを。あなたがたは一つのよろこびに対して、「然り」と肯定したことがあるか?ああ、わが友人たちよ、もしそうだったら、あなたがたはまた全ての嘆きに対しても「然り」と言ったわけだ。万物は鎖でつなぎ合わされ、糸でつなぎ合わされ、深く愛し合っているのだ。(中略)すべてのよろこびは万物の永遠を願う。蜜を願う。滓を願う。陶酔の真夜中を願う。墓を願う。墓にそそぐ涙のなぐさめを願う。金色に染まった夕映えを願う--およそよろこびが欲しないものがあろうか?よろこびはすべての嘆きにまさって、渇いている。切実である。飢えている。すさまじい。秘やかだ。よろこびは自分自身を欲する。自分自身を噛む。円環の意志が身もだえする。(同上「酔歌」より)≫ ラストの部分の「円環の意志」というのがウロボロスですね。『荘子』と一致する箇所がやたら多いんですけど、とりあえず、 諸葛亮曰く「夫學須靜也(それ学はすべからく静なるべし)。」 なんでこう、ニーチェって五月蠅いの? 東洋の思想というのは、お釈迦様にしろ、老子・荘子にしろ、達磨さんにしろ『瞑想の哲学』なわけでして、もちろん、その系譜の中にマスター・ヨーダもいるわけです。「天籟・地籟・人籟」を説く南郭子?(なんかくしき)も達磨さんやツァラトゥストラと同じように洞窟の中で一つの境地に達した人なんですよ。ショーペンハウアーもそうですし、ニーチェも東洋思想との一致点は多いです。カフカの場合にも重要なキーワードとしてある「夢」や「目覚め」に東洋的、というか、老荘思想の本質的な理解が見られます。 他にも、 ≪「昨夜お告げがありました。わたくしどもはぐっすり熟睡しておりました。真夜中ごろでしたか、女房が呼んだのです、<ほら、サルヴァドーレ>って-つまり、わたくしの名前でございますが<窓のところの鳩をごらん>と申すのでございますよ。実際鳩がおりました。にわとりのように大きなやつが、わたくしの耳もとに飛んできてこう言いました。<明日死んだ狩人のグラフスがやってくる。町の名代でお迎えしろ>と。こうですよ」 (中略) 「ところで、あの世とのかかわりはいかがなもので」 「むやみに大きな階段があるようなものさ」 と、狩人は言った。 「とてつもなく大きな階段を上ったり下ったりしている。右へいったり、左へいったり、のべつ動いている。【狩人が蝶々になった具合だね】。笑いなさんな」 「笑ってなどいませんよ」 市長が口をとがらせた。 「つまりがそうなんだ」 狩人は言葉を続けた。 「のべつ動いているのさ。おりおり思いっきり飛び上がってみたりする。あの世の門から光が漏れているところまでいくのだが、【とたんに目が覚める】。」(カフカ『狩人グラフス』)≫ ・・・「彼岸」を思わせる東洋的な主題のカフカの「狩人グラフス」には、『胡蝶の夢』や夢の中で死者と対話する『髑髏問答』の寓話に似た部分があります。そもそもグラフスは「死んでいるのか生きているのかわからない」シュレーディンガーの猫状態で、そこも興味深い。 参照:量子力学と荘子。 http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5057 ≪友幸友幸、生年不明。生地不明。世界を転々とし、現在のところ生死不明。(円城塔『道化師の蝶』より)≫ ・・・『道化師の蝶」もそんな話です。 参照:『道化師の蝶』と荘子。 http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5111 で、この『巣穴』や『狩人グラフス』『シナの長城』など、カフカが生存中に発表するのを欲しなかった作品や、未完の作品が“The Great Wall of China and other pieces”として1933年にイギリスで発刊されています。カフカが『荘子』や『聊斎志異(りょうさいしい)』に触れたのが1910年初頭でしょうから、時間差があり、さらにまだ英訳の段階ですが、カフカの作品が日本人の手にも渡るようになります。その中でも、最も早くカフカに興味を持ったのが、この人。 当然の荘子読み、中島敦であります。この人、英文で読んで、カフカの翻訳もしています。 ≪今彼の読んでいるのは、フランツ・カフカという男の「窖(あな)」という小説である。小説とはいったが、しかし、何という奇妙な小説であろう。その主人公の俺というのが、土竜か鼬か、とにかくそういう類のものには違いないが、それが結局最後まで明らかにされてはいない。その俺が地下に、ありったけの智能を絞って自己の棲処――窖を営む。想像され得る限りのあらゆる敵や災害に対して細心周到な注意が払われ安全が計られるのだが、しかもなお常に小心翼々として防備の不完全を惧れていなければならない。殊に俺を取囲む大きな「未知」の恐ろしさと、その前に立つ時の俺自身の無力さとが、俺を絶えざる脅迫観念に陥らせる。「俺が脅されているのは、外からの敵ばかりではない。大地の底にも敵がいるのだ。俺はその敵を見たことはないが、伝説はそれについて語っており、俺も確かにその存在を信じる。彼らは土地の内部に深く棲むものである。伝説でさえも彼らの形状を画くことができない。彼らの犠牲に供せられるものたちも、ほとんど彼らを見ることなしに斃れるのだ。彼らは来る。彼らの爪の音を(その爪の音こそ彼らの本体なのだ)、君は、君の真下の大地の中に聞く。そしてその時には既に君は失われているのだ。自分の家にいるからとて安心している訳に行かない。むしろ、君は彼らの棲家にいるようなものだ。」ほとんど宿命論的な恐怖に俺は追込まれている。熱病患者を襲う夢魔のようなものが、この窖に棲む小動物の恐怖不安を通してもやもやと漂っている。この作者はいつもこんな奇体な小説ばかり書く。読んで行くうちに、夢の中で正体の分らないもののために脅されているような気持がどうしても附纏ってくるのである。(中島敦『狼疾記』より)≫ 参照:中島敦「名人伝」と荘子。 http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5014 『狼疾記』と同じ年に出版された『かめれおん日記』では、韓非子のウロボロス「蟲有?者、一身兩口、爭食相?也。遂相殺、因自殺。」と、こんな言葉も記されています。 参照:共時性と老荘思想。 http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5093 ≪全くの所、私のものの見方といったって、どれだけ自分のほんものがあろうか、いそっぷの話に出てくるお洒落鴉。レオパルディの羽を少し。ショーペンハウエルの羽を少し。ルクレティウスの羽を少し。荘子や列子の羽を少し。モンテエニュの羽を少し。何という醜怪な鳥だ。(中島敦『かめれおん日記』)≫ 日本人が漢籍の書物を読もうともせず、また読めもせず、くだらない戦争が始まって古典に対する敬意も感じられなくなる時代に、カフカを見いだした中島敦。ほとんど無形のミンメイアタックくらっとるようなもんですよ(笑)。 参照:SDF Macross - Do You Remember Love? [HD] http://www.youtube.com/watch?v=wckZcVFLU24&feature=related エヌマ・エリシュと老荘思想。 http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5051 今日はこの辺で。 ジャンル別一覧
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