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人生朝露

人生朝露

『雨月物語』と荘子。

荘子です。
荘子です。

フランツ・カフカ(1883~1924)。
フランツ・カフカ(Franz Kafka(1883~1924)と荘子の途中です。

参照:カフカと荘子。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5106

「怪」を綴るひとびと。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5107

カフカのリアリティ。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5110

・・・なんでこうもカフカにこだわるかというと、西洋人の中で老荘思想を読む人は『易経』であったり、禅仏教に流れたり、浄土や他の仏教と関連づけたりすることが多いんですが、カフカはほとんど、『老子』『荘子』『列子』と、リヒャルト・ヴィルヘルムが翻訳した『中国の民話』、マルティン・ブーバーが紹介した『聊斎志異』の範囲に集中していまして、近代化する前の東アジアの読み物に近い、格好の素材だからです。

ま、日本でいうと享保12年(1727)に書かれた佚斎樗山(いっさいちょざん)の『田舎荘子』の冒頭、
『田舎荘子』佚斎樗山(いっさいちょざん)著。
≪雀蝶に謂って云。「汝俗姓をみれば菜虫也。汝むかしは畠にまろび、自由にかけまはる事もならず、やうやう菜の葉にとり付て、蠢々(うごうご)とありつらん。」≫
→雀が蝶に向かって云った。「あなたは元を正せば芋虫ではないか、あなたは畑で暮らし、自由に飛び回ることもできず、ようやく菜の葉にとりついて、蠢いていただけではないか。」(『田舎荘子』「雀蝶の変化」より)

この直球ど真ん中から『変身』に持っていったっていいんですが(笑)、

参照:武道と田舎荘子。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5013

せっかくなので、次なる荘子読み。
上田秋成(1734~1809)。
上田秋成(1734~1809)に参ります。上田秋成というと、なんといっても『雨月物語』。彼のペンネーム「剪枝畸人(せんしきじん)」は『荘子』に由来します。

Zhuangzi
『孔子曰「丘、天之戮民也。雖然、吾與汝共之。」子貢曰「敢問其方。」孔子曰「魚相造乎水、人相造乎道。相造乎水者、穿池而養給。相造乎道者、無事而生定。故曰「魚相忘乎江湖、人相忘乎道術。」子貢曰「敢問畸人。」曰「畸人者、畸於人而牟於天。故曰「天之小人、人之君子。人之君子、天之小人也。」」』(『荘子』大宗師 第六)
→孔子曰く「礼を重んじる私は、礼節に縛られた天の罪人だよ。しかし、私とお前も彼らと共にできる道もある。」子貢曰「それはどの道なのですか?」孔子曰「魚は水に生き、人は道に生きる。水に生きるものは池を掘り下げると滋養にありつけ、道に生きるものは、平穏な生活に安定を取り戻す。故にこんな言葉がある「魚は江湖に水を忘れ、人は道術に道(Tao)を忘れる。」子貢曰く「敢えて【畸人】についてお伺いします。」曰く「畸人とは、天においてはそうでなくとも、人の世にあっては変わり者の連中だ。故にこんな言葉かある。「天の小人は人の君子、人の君子は天の小人」と。」

参照:Wikipedia 上田秋成
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E7%94%B0%E7%A7%8B%E6%88%90

01 禅説/Zen speaks (何謂禅)
http://www.youtube.com/watch?v=wyth7snJJ6g

上田秋成(1734~1809)。
もうひとつの「剪枝」という言葉は、『荘子』そのものにあるものではありませんが、人間世篇で大工の夢の中に現れた巨木の語る「無用の用」からの連想でしょうね。上田秋成は、幼いころに天然痘で手に障害を持ちまして、荘子に格別の思い入れがあったのは自然なことでしょう。彼の別号「鶉居(うずらい)」も『荘子』天地篇の「夫聖人鶉居而?食、鳥行而無彰。(聖人はうずらのように一所にとどまらず、少食で満ち、鳥のように無心である。)」からです。

Zhuangzi
『匠石帰,櫟社見夢曰「女將惡乎比予哉?若將比予於文木邪?夫柤、梨、橘、柚、果、租之屬属實熟則、実熟則辱、大枝折、小枝泄。此以其能苦其生者也、故不終其天年而中道夭,自培撃於世俗者也。物莫不若是。且予求無所可用久矣、幾死、乃今得之、為予大用。使予也而有用、且得有此大也邪?且也、若與予也皆物也、奈何哉其相物也?而幾死之散人、又惡知散木!』
→匠石が帰り着いたその夜、例の社のご神木が匠の夢に現れた。巨木は言った「お前はいったい、ワシを何と比べたがっているのか?役に立つとかいうナシやタチバナやユズのような、実をつけた途端、枝ごと切り取られる木と比べるのか?役に立つがゆえに、腕をもぎ取られるような目に遭い、天寿を全うできないような木と。人にたとえるならば、才能があるが故に世間から批判される、そんなところだな。木も人も変わらぬ「物」なのだ。ワシは、ずっと役に立たないように努めてきた。今まで何度も切り倒されそうになったが、無用であることによって、今の、巨木としての営みという大用を得たのだ。仮にワシが役に立つ木であったとしたら、今の大きさは考えられないだろう。それに、ワシはお前と同じ「物」なのだよ。お前は、ワシを散木と言ったな。やがては死ぬ【散人】よ、お前に「散木」の何が分かるのだ?」(『荘子』人間世 第四)

参照:アバター(AVATAR)と荘子 その2。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5040

人のかたち、渾沌のかたち。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5089

芭蕉。
ちなみに、芭蕉の別号「蕉散人」も上記『荘子』の人間世篇の夢の中の巨木の言葉「散人」に由来します。上田秋成の「剪枝」と「畸人」、「鶉居」が共に『荘子』の中でも「脱俗を志向する箇所」から引いているところも興味深い。

鷺の足 雉脛長く 継添て  芭蕉

参照:Wikipedia 雨月物語
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%A8%E6%9C%88%E7%89%A9%E8%AA%9E

で、
『雨月物語』より「夢応の鯉魚」。
夢とうつつを繰り返す『雨月物語』は、日本の古典の中でも、特に異彩を放つ怪奇小説ですが、舞台としては日本でありながら、原典は明代以降の中国の白話小説に重心の置かれた作品です。この『雨月物語』のお話のうち、最も有名な「夢応の鯉魚(むおうのりぎょ)」の元ネタは、明代の『醒世恒言』の「薛録事魚服仙証」や、陸楫(りくしゅう)編の『古今説海』の中の「魚服記」だという研究が進んでいます。後の太宰治の『魚服記』もここからです。

参照;夢応の鯉魚
http://mouryou.ifdef.jp/ugetsu/muou-no-rigyo.htm

ただし、元ネタが明代の白話小説であろうとも、根底にあるのはテーマは『荘子』のものです。

まず、「夢応の鯉魚」には、夢と現実、生と死という対比の構図があるだけでなく、主人公の「興義(こうぎ)」が絵描きであり、彼が七日目に死ぬという設定に「渾沌、七竅に死す」の裏地が見えます。『薛録事魚服仙証』や『魚服記』の根源である『荘子』の寓話から、上田秋成が意識的に引き抜いた部分があります。

Zhuangzi
『「(中略)吾特與汝其夢未始覺者邪!且彼有駭形而無損心、有旦宅而無情死、孟孫氏特覺、人哭亦哭、是自其所以乃、且也、相與吾之耳矣、庸?知吾所謂吾之乎?且汝夢為鳥而萬乎天、夢為魚而沒於淵、不識今之言者、其覺者乎、夢者乎?造適不及笑、獻笑不及排、安排而去化、乃入於寥天一。」』(『荘子』大宗師 第六)
→「(中略)私とお前だけが、まだ夢から覚めないでいるのだろうか?それに孟孫氏は、事象の変化に興味を示すが、それによって動かされることはなく、命は仮のものとしながら生死に振り回されることもない。彼は大いなる夢から目覚めたので、世間の礼節にこだわらず、人が泣けば、自ずと涙を流す人になっている。世間ではそれぞれが自分のことを指さして「これが私だ」と思っているが、その私なるものが一体いかなるものなのか、理解しているのだろうか?例えば、お前が鳥になった夢をみて天を駆け上ったり、魚になった夢をみて深い水底に身を潜めたりするとき、その夢のなかでの「私」は「自分は夢見ている」と感じているのだろうか?それとも「自分は目覚めている」と感じているのだろうか?どんな世界でもその場を楽しめばよいし、それぞれが自適していればそれを誹られるいわれもない。どう他人に誹られようとも気にとめず、変化に身を任せれば、のびやかに、天と人とが一となる境地に至れるだろう。」

・・・ここは、「畸人」の説明の直後にある大宗師篇の「鳥の夢、魚の夢」についての部分。

もう一つが外物篇のこれ、
Zhuangzi
『宋元君夜半而夢人、被髮?阿門、曰「予自宰路之淵、予為清江使河伯之所、漁者余且得予。」元君覺、使人占之、曰「此神龜也。」君曰「漁者有余且乎?」左右曰「有。」君曰「令余且會朝。」明日、余且朝。君曰「漁何得?」對曰「且之網、得白龜焉、其圓五尺。』(『荘子』外物 第二十六)
→宋の元君が夜中に夢を見た。髪を振り乱した男が門の外から覗き込むようにして「私は宰路の淵というところから参りました。清江の使いとして河伯のところへ向かう途中、余且という名の漁師に捕らえられてしまいまったのです。」と訴えていた。元君はそこで目が覚めた。家来に夢占いをさせると、「それは神亀です」という。元君は「漁師の中に余且という名の者はおるか?」と尋ねると、左右の家臣が「おります」という。元君は「明日、その余且なるものを連れて参れ」と命じた。翌朝、余且に「漁をして何を獲った?」と尋ねると、余且は言った「私の網に白い亀がかかりまして、その大きさは五尺にもなります・・・・

長くなるので続きます。

今日はこの辺で。


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