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人生朝露

人生朝露

ミヒャエル・エンデと荘子。

荘子です。
荘子です。

今日はついでに、

ミヒャエル・エンデ(Michael Ende(1929~1995))と荘子です。

参照:「怪」を綴るひとびと。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5107

「怪」を綴るひとびと その2。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5114

ミヒャエル・エンデと亀。
エンデと亀つながりでもう一つ。

Zhuangzi
『莊子釣於濮水、楚王使大夫二人往先焉。曰「願以境?累矣」莊子持竿不顧、曰「吾聞楚有神龜、死已三千?矣、王巾笥而藏之廟堂之上。此龜者、寧其死為留骨而貴乎、寧其生而曳尾於塗中乎?」二大夫曰「寧生而曳尾塗中。」莊子曰「往矣、吾將曳尾於塗中。」』(『荘子』秋水 第十七)
→荘子が濮水のほとりで釣りをしていたところ、楚王の二人の使者がやってきて「あなたに楚の国の政をお願いしたい」と言ってきた。荘子は釣竿を持って、釣り糸を見つめながらこう言った。「楚の国には神龜という亀がいるそうですね。死んでからすでに三千年も経っていて、楚王はこれを大事にして、廟堂に祀っていると聞きます。その亀の身にすれば、死んで骨を大事に祀られていることを望んだのでしょうか?それとも、泥の中で尻尾を振ってでも生きていくことを望んだでしょうか?」使者は「泥の中でも生きていたいと望んだでしょうな」と答えた。すると荘子はこう言った「お行きなさい。私も泥の中で生きていたい。」

・・・エンデ作品には亀がよく登場します。荘子の影響というのは、亀だけを見つめても見て取れます。

太古の媼 モーラ。
エンデの代表作『はてしない物語』に太古の媼モーラという泥の中の亀が登場します。

≪こうしてアートレイユは、一週間近くもあちこち迷い歩いたのち、七日目の昼と夜に、二つの全く異なった体験をした。この二つのことは、彼の内と外の状況を根本的に変えることとなった。老カイロンから聞いた、ファンタージエンの各地で起こっているという恐ろしいできごとについての話は、アートレイユに深い印象を与えはしたが、やはりまだ聞いた話にすぎなかった。ところが七日目のその日、自分の目でそれを見たのだ。(『はてしない物語』(3 太古の媼モーラ)より)≫

ここは、アートレイユが「虚無」の存在を初めて知るシーン。「夢応の鯉魚」と同じく、七日目に何かが起きています。その後、アートレイユは「大きな緋おどし野牛の夢」を見ます。ユングが夢の中で見た「フィレモン」のイメージに非常によく似たものです。

ジョージ・ルーカスと東洋思想。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5097

で、アートレイユは太古の媼モーラと対話するんですが、その亀のセリフを読んでみると、

≪「よいかな、小さいの、」モーラはごろごろとつづけた。「わしらは年よりじゃ。年よりも、年よりも、もうたっぷり生きた。たっぷり見てきた。たっぷり知ってしまったわい。こうなりゃぁ、大事なことなどもう何もないわい。何もかもが永遠にくりかえされるのじゃ。昼と夜、夏と冬。世界は空虚で無意味なのじゃ。何もかも環になってぐるぐるめぐっておる。生じたものはまた消えうせ、生まれたものは死なねばならぬ。善と悪、愚と賢、美と醜、すべてはたがいに帳消ししあっておる。むなしいのじゃ、すべては。ほんとうのものは一つもない。大事なことは一つもない。」(同上)。≫

・・・これは露骨に老荘思想です。

心理と物理の“対立する対”。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5094

共時性と老荘思想。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5093
ちなみに、『はてしない物語』でのウロボロスはアウリンといいます。

荘子でいうと、この辺。
Zhuangzi
『「毛?、麗姫、人之所美也、魚見之深入、鳥見之高飛、麋鹿見之決驟。四者孰知天下之正色哉?自我觀之、仁義之端、是非之塗、樊然?亂、吾惡能知其辯。」』(『荘子』(斉物論 第二))
→毛娼、麗姫といった絶世の美女は「人にとっての美」であり、彼女たちを見れば、魚は深みへと潜り、鳥はより高い空へと飛び、鹿はすぐさま逃げ出してしまう。この四者のうち、天下の正色を知るのは誰だろう?「私」という立場に立って見ていても仁義や是非の価値判断はぐちゃぐちゃに入り乱れている。その区別を知ることはできない。

「逍遙遊篇」にあった「正色」が登場します。斉物論篇でのクオリアについての記述です。

Dr.スランプ 第3巻より。
ま、美醜の感覚というのは、絶対的な基準というのはないですよね。たとえ人間がその基準を定めたとしても、人間以外のそれとは異なります。

参照:Julia Roberts and Orangutan
http://www.youtube.com/watch?v=oV_BC05vkYc&feature=relmfu

ミヒャエル・エンデ(Michael Ende(1929~1995)。
≪エンデ 読み手が本当によくよく聞き耳を立てるならば、著者が言わんとしていることは、聞き取れるものです。例えば、私が老子の『道徳経』を読んだとき、4種類の翻訳を手にして思いました。なんでそれぞれ違うんだ、これは4冊別々の本ではないか?それでも4つの訳本を並べてどの訳にもあまり思考を固めずに、ゆるやかな気持ちで読んでいくと、すーっと感じ取れていくものです。ああ、彼の言いたい本質はこれだな、と。(子安美知子『エンデと語る』より)≫

参照:荘子とクオリア。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5098

・・・『老子』に関して、エンデは4冊、シュレーディンガーは2冊読んで同じような感想をもらしています。ちなみに、ミヒャエル・エンデは、かつて「アインシュタイン・ロマン」というNHKの番組のプレゼンテーターを務めた人でもあります。

ミヒャエル・エンデ(Michael Ende(1929~1995)。
≪エンデ そう、だから「鏡のなかの鏡」なんですよ。このタイトルは、禅の公案からもらいました。「鏡のなかの鏡には何が映っているか」と問う公案があるでしょう。答えは「何も映らない」となりそうですね。でも、そうでしょうか?ちがいます。ほんとうは、ここでひとつのプロセスが始まります。こちらからあちらに映し、あちらからこちらに映し返される無限の映し返しのプロセス-二枚の鏡が向き合うと、こうして何ごとかが発生するのです。(同上『エンデと語る』より」)≫

マトリョーシカと七福神。
『はてしない物語』もそうですが、同じ入れ子構造である『鏡の中の鏡』について、エンデははっきりと禅仏教から着想を得たと証言しています。

参照:井の中のカフカ。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5109

『はてしない物語』 フッフールにのるアートレイユ。
・・・本来、西洋の龍というのは、忌むべき敵であり凶悪な存在として描かれることが多いですが、ミヒャエル・エンデが描く龍はそれとは異なります。畏敬の対象であると同時に、大変な賢者です。『はてしない物語』のフッフール(映画版ではファルコン)のモデルは中国の龍である蓋然性は充分にあります。

Wikipedia:白龍
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E7%AB%9C

Zhuangzi
『肩吾問於連叔曰「吾聞言於接輿、大而無當、往而不反。吾驚怖其言、猶河漢而無極也、大有逕庭、不近人情焉。」連叔曰「其言謂何哉?」曰「藐姑射之山、有神人居焉、肌膚若冰雪、?約若處子、不食五穀、吸風飲露。乘雲氣、御飛龍、而遊乎四海之外。其神凝、使物不疵癘而年穀熟。吾以是狂而不信也。」』(『荘子』逍遙遊 第一)
→肩吾は連叔にこう訊いた「私が接輿から聞いた話はあまりにも大きすぎてつかみどころがなく、戻ったまま帰ってこられんよ。まるで天空の銀河のように極まりなく、普段の考えとはかけ離れた話だ。」連叔「その話はどんな話だね?」「藐姑射(はこや)の山に神人が住んでいて、その肌は雪のように純白で、まるで少女のように柔弱なのだそうな。五穀を口にせず、風を吸い、露を飲むという。雲に乗り、飛龍を御し、四海の外に遊ぶ。その神がまとまると、人々は病気や怪我の心配もせず、実りも豊かになるという。私は、その狂った話をにわかには信じられなかったよ。」

「雲気に乗り、飛龍を御し、四海の外を遊ぶ。」壮大な寓話が続く『荘子』の真骨頂ともいえる表現です。

参照:ネバーエンディング・ストーリー テーマ曲 The Neverending Story - Limahl
http://www.youtube.com/watch?v=zeRoEBvBL4Y

Dragon Ball Z: Ultimate Tenkaichi - Opening Video [German/Deutsch]
http://www.youtube.com/watch?v=C-9V8LRxF80

この二つのお話は同根です。

「龍珠」も当然、『荘子』に登場します。ある川の淵で子供が拾います。黒龍のあごの下にあるそうです。ただし、黒龍が起きている時に取ろうとすると、龍の逆鱗に触れて食われてしまうらしいのでお気をつけ下さい(笑)。

参照:「元気」の由来と日本書紀。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5082

・・・ちなみに、映画版の「ネバー・エンディング・ストーリー」をエンデは認めず、監督のウォルフガング・ペーターゼンと、相当もめたそうです(原作を読むと当然)。そのペーターゼンが日本の今敏監督の『パプリカ』のリメイクして『マトリックス』超えを狙っているという話を聞いていたんですが、どうやら、原作者の筒井康隆に断られたようです(笑)。

参照:インセプションと胡蝶の夢。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5062

The Dreams of Paprika (HQ)
http://www.youtube.com/watch?v=rO7HkHy9hd4&feature=related

今日はこの辺で。


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