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人生朝露

人生朝露

一休さんと荘子。

え~、先ほど一本分飛んでしまいまして、やる気が激減しております。

悔しいので、
荘子だってば。
荘子を。

日本人の構成要素として「神・仏・儒」というのがありますね。
中国でいうと「道・仏・儒」という関係になるわけですが、荘子は、「道教」「道家」のナンバー2に位置づけられるのが普通です。

道教は神道に影響を与えたことで知られています。しかし、インドから渡ってきた仏教が中国化していく過程で、お釈迦様や達磨さんの教えと「荘子」が混和していって禅宗という考えができちゃったんだと実感しているんですよ。道教の人が、神道じゃなくて仏教と繋がるって、おかしな話なんですけど、荘子の影響を受けまくっている人が、禅宗のお坊さんにいっぱいいるなぁ、と荘子を読んでいて改めて感じたわけです。

というわけで、今日は、
一休宗純。
一休さんで。

一休さんといえばとんち話とアニメで有名な方。実際の一休さんは室町時代の臨済宗のお坊さんです。アニメのイメージとはかけ離れたとんでもない人で、肉は食うわ、酒は浴びるように飲むわ、女は抱くわ、男も抱くわで、彼の詩の中にはスカト○までありますよ。彼の奇行は、争いが絶えず、民衆が苦しい生活を強いられていた当時の世相と、対立を続ける仏教界への失望と、彼の独自の禅の解釈によるところが大きいのでしょうけどね。もちろん、お坊さんとしての徳も立派な方なわけですが、理解するのは難しい人だと思います。

で、アニメにもあるシーンなんですが(まさかネットで拾えるとは思ってもいませんでした)、
一休さんと髑髏。
一休さんというと、髑髏です。

ある年のお正月に、一休さんは髑髏を杖の先につけて、

「この世に、この髑髏ほどめでたいものはない。ご用心、ご用心」

と、言いながら街中を練り歩いたという有名な逸話があります。今だったら確実に逮捕されている話です(笑)。この一休さんの行動を連想する記述が、「荘子」の中にあるんですよ。

荘子 Zhuangzi。
「莊子之楚、見空髑髏。昂然有形。檄以馬捶、因而問之曰、「夫子貪生失理、而爲此乎。將子有亡國之事・斧鉞之誅、而爲此乎。將子有不善之行、愧遺父母妻子之醜、而爲此乎。將子有凍餒之患、而爲此乎。將子之春秋故及此乎。」於是語卒、援髑髏、枕而臥。夜半、髑髏見夢曰、「子之談者似弁士、視子所言、皆生人之累也。死則無此矣。子欲聞死之説乎。」莊子曰、「然。」髑髏曰、「死、無君於上、無臣於下。亦無四時之事、従然以天地為春秋。雖南面王樂、不能過也。」莊子不信曰、「吾使司命復生子形、為子骨肉肌膚、反子父母・妻子・間里知識、子欲之乎。」髑髏深顰蹙曰、「吾安能棄南面王樂而復爲人間之勞乎。」(『荘子』至楽篇)

荘子が楚の国に行った時、空髑髏を見つけるんです。そこで荘子は鞭で髑髏を打ちながら「あなたは生に執着して人の道を外してしまってこんな姿になったのか!?それとも国を滅ぼして処刑されたのか!?不善をなして、自ら命を断ったのか!?衣食が足りずに飢え死にしたのか!?寿命が尽きて死んだのか!?」と、質問を浴びせたかと思うと、おもむろにそのドクロ抱き上げて、ドクロを枕に荘子は眠ります。

・・・すると、その夢の中でドクロが現れて荘子にこう告げるんです。「お前の言っていることは、全て生きている人間だからこその悩みで、死んだ私にはすでに関わりのないことだ。死後の世界についてお前は知りたいか?」荘子「知りたいです。」ドクロ「死後の世界には、上下の身分もない。四季の移り変わりもない。天地と時を共にするのみだ。この喜びは人の世の天子ですら味わえない至楽なのだ。」荘子は信じられないという表情で再び「私がもし何らかの手段であなたの肉体を蘇生し、魂を呼び戻し、あなたの家族やあなたの故郷へ送り届けるとしたら、あなたはそれを望みますか?」と尋ねると、ドクロは応えます。「どうしてこの至楽の世界を捨ててまで、ふたたび人の世の苦労など味わうだろうか」。

荘子の「至楽篇」は、世界観を野ざらしの髑髏にしゃべらせるという手段で表現しています。『荘子』の中で進化論類似の「ヨウケイ(草の一種)は、筍せざる久竹に比して(筍ができない竹と交配して)青寧(竹根虫)を生ず。青寧(竹根虫)は、程(豹)を生じ、程(豹)は馬を生じ、馬は人を生ず。人は又た反りて機に入る。万物は皆機より出でて、機に入る」という箇所を喋っているのも、野ざらしの髑髏なんですよね。

参照:当ブログ 紀元前の進化論。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5003/

「よしあしハ目口鼻から出るものか」 頭蓋骨(The Skull) せんがい。

「野ざらしを 心に風の しむ身かな」 芭蕉 

・・・髑髏を見ることで、人間はその向こうにある「死」を見ます。

一休さんが、おめでたいお正月にわざわざ見たくもない髑髏を掲げて街中を練り歩くのも、みんなが生きる喜びを謳歌している時だからこそ「死を思え」という警句であると思います。ただ生きているだけでは、人間は生きていることを実感しないんですよね。というか、見失うんですよ。生きていることの意味を。これは「健康」と言い換えても同じでしょ?病気になることを意識しないと人間は健康を実感できないわけだし。「平和」もそうですよね。どれも本来は当たり前のことなんだけども、対の概念を意識していないとその大切さに気付かない。

一休さんが髑髏を掲げなくとも、日本人は、8月15日にそれを思うでしょう。

(ちなみに、この一休さんの髑髏の話も、荘子の話も伍子胥(ごししょ)のエピソードを意識していると思われます。一休さんは髑髏がめでたいというのを「髑髏は目玉が飛び出たから目出たい」と説明しますので。多分、一休さんの詩にも伍子胥の詩があったはずです。)

一休さんと荘子というと、もう一つが「古人の糟魄(そうはく)」ですね。

荘子 Zhuangzi。
桓公讀書於堂上、輪扁?輪於堂下、釋椎鑿而上、問桓公曰。「敢問公之所讀者何言邪?」公曰「聖人之言也。」曰「聖人在乎?」公曰「已死矣。」曰「然則君之所讀者、古人之糟魄已夫!」桓公曰「寡人讀書、輪人安得議乎!有説則可、無説則死。」輪扁曰「臣也、以臣之事觀之。断輪、徐則甘而不固、疾則苦而不入。不徐不疾、得之於手而應於心、口不能言、有數存焉於其間。臣不能以?臣之子、臣之子亦不能受之於臣、是以行年七十而老断輪。古之人與其不可傳也死矣、然則君之所讀者、古人之糟魄已矣。」(『荘子』天道 第十三)
→桓公が書物を読んでいると、輪扁なる車輪を作る職人が「何を読んでいるんですか?」と聞いてきた。桓公は「聖人の言葉だよ」と答えた。すると職人は「その聖人様は生きているんですか?」桓公「いや、亡くなっておられる」職人「なんだ、あなたさまは死んだ人の残りかすみたいなものを読んでいるだけじゃないですか」桓公が怒って「お前なんぞの身分でわしの学問をバカにするのか、答え次第によっては命はないぞ!」というと、輪扁なる職人は「車輪を作るときに、ぴたりとはめ合わせる技は、言葉で伝えることも出来ませんし、私の息子にも教えることができませんでした。自分の経験と勘を継がせる事ができませんで、私を越える者もおらず、七十の今になっても車輪を作る仕事をしています。さて、今でも働いて報酬をもらっている私に言わせてもらえば、お殿様の読んでいる本は、今を生きていない死んだ人の書いたもの。いわば、古人の糟魄ではありませんか?」

この「古人の糟魄(そうはく)」というのは、言葉では伝わらないことがあるということだけでなくて、「ドグマ」を笑うというような意図を感じます。学問全般に言えるだけでなく、宗教もまたそうであるでしょう。

一休さんはこういうことを言ってます。

「釈迦といふ いたづらものが世にいでて おほくの人を迷はすかな」

一休さんは立派なお坊さんなんですけどね。
そこまで言ってしまうんですよね。この世の苦しみから逃れるための仏教のドグマが、いつの間にやら人を惑わすこともある、という矛盾を感じているんでしょう。いろんな要素によって、仏教そのものが人を苦しめる局面が出てくるわけです。

一休さんは、当時の仏教界の無意味な宗派争いを嘆くこともしばしばありまして、これも一つですね。あとは、身分の高い者が高僧になっていくという、下らない身分差別も怒っている人です。

正伝傍出妄相争
隙功無明人我情
人我招来担子重
空看蚊蝶一身軽

私の方が正系だ、お前が傍系だなどと、バカな争いをする奴らがいる。
無明のためだ。己に囚われているからだ。
己で己を担いでいて、さぞ、己が重かろう。
空を見ろよ。アゲハチョウが、軽やかに空を飛んでいる。(『狂雲集』一休宗純)

君はだれ?
ここにも蝶が。

今日はこの辺で。


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