3272483 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

人生朝露

人生朝露

フィリップ・K・ディックのリアリティ。

荘子です。
荘子です。

『フィリップ・K・ディックのすべて』という本に、こんな論評が載っています。

フィリップ・K・ディック(Philip Kindred Dick 1928~1982)。
≪フィリップ・K・ディック(一九二八~八二)は長編小説と短編集を合せて五十点以上の著作を持ち、その死後、他に例を見ないほど文学的評価を集中的に得た。けばけばしいSF雑誌の安っぽいおかかえ作家から、いまやアメリカ文学史上最もユニークで、最も想像力に富んだ才能の持ち主の一人として姿を現したのである。
 この驚くべき評価の転換をもたらしたのは、彼への賞讃のすさまじさと、そこに含まれる多様な人々の声である。『マウス』の作者でイラストレーターのアート・スピーゲルマンは「二〇世紀前半におけるフランツ・カフカと、二〇世紀後半におけるフィリップ・K・ディックは、同じように重要である」と書いている。アーシュラ・ル・グインは、自分のSFにはディックからの影響が大きいことを認め、かれを「わが国のボルヘス」と呼んでいる。ティモシー・リアリーは、ディックを「二十一世紀の大作家、量子時代の創作的哲学者」とほめたたえている。(『フィリップ・K・ディックのすべて』 ローレンス・スーチンによる序文より)

カフカ、ボルヘス、グウィン、量子力学、ティモシー・リアリー・・・老荘思想にまつわる人の多いこと多いこと。

参照:カフカと荘子。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5106/

参照:インセプションと荘子とボルヘス。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5074

量子力学と荘子。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5057

ディックと禅とLSD。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5144/

おかしなもんで、「現実とは何か」というテーマについて、深い洞察のできる人というのを見ていくと、洋の東西を問わず、だいたい禅か老荘思想のどちらかに触れるんです。

フランツ・カフカ(1883~1924)。
≪「真のリアリティはつねに非リアリスティックです。」とフランツ・カフカは語っている。「支那の色彩版画の明澄さ、清純さ、真実さをご覧なさい。あのように語ることができるということ-確かにそれは何ものかです。」(G.ヤノーホ著 『カフカとの対話』より)≫

参照:フィリップ・K・ディックと荘子。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5143/

フィリップ・K・ディック(Philip Kindred Dick 1928~1982)。
で、PKDを語る上で、避けては通れないのが「2-3-74」です。1974年の2月から3月にかけて彼に起こった不思議な体験で、その記録を「釈義(Exegesis)」とも言うそうです。いろんなパターンがあるんですが、後の「ヴァリス三部作」と呼ばれる哲学的、神学的、形而上学的な作品群は、1974年のこの体験を元に描かれるようになります。

≪失われたものを回復するもの、壊れたものを修復するものについて語る。
 一九七四年三月十六日、そのものが--輝く色と釣合いのとれたパターンを備えた鮮やかな炎の中に--あらわれ、内面及び外部の束縛のすべてからわたしを解放してくれた。
 一九七四年三月十八日、そのものがわたしの内側からながめ、世界が進行しておらず、わたし--そしてそのもの--が欺かれていると見た。現実、力、世界が本物であることを否定して、「こんなものがあってはならない、存在してはならない」と告げた。
 一九七四年三月二十日、そのものがわたしを完全に捕らえ、わたしを時空の基盤(Matrix)の制限から解き放った。そのものに支配されるや、まわりの世界が安っぽい偽物であるとわかった。わたしはそのものの力によって、にわかに宇宙をあるがままに見た。そのものの知覚力でもって、なにが実際に存在するかを目にし、思考とは無縁の決断力でもって、自分を自由にすべく行動した。そのものは捕らわれている人間の霊のすべての擁護者として、あらゆる邪悪、すなわち鉄の牢獄をつくりだすあらゆるものと戦った。
 一九七四年三月二〇日から七月末、そのものは信号を受けとって、われわれの自由な世界、われわれの至純の世界に徐々に入り込んでいる暴政を打破すべく、不断の戦いを開始する方法を知った。彼らのすべてと戦い、倦むことなく滅ぼして、彼らを嫌悪の念をもって直視した。そのものの愛は何にもまして正義と真実のためのものだった。(『フィリップ・K・ディック 我が生涯の弁明』)より≫

ネオから見える世界。
これが、『Matrix』での、ネオの覚醒シーンの元ネタです。

参照:Did Philip K. Dick disclose the real Matrix in 1977?
http://www.youtube.com/watch?v=jXeVgEs4sOo

Matrix He is the one
http://www.youtube.com/watch?v=zYwdzYC3uUc

ちなみに、PKDが仏教の基礎を学んだのは1980年に入ってからです。
フィリップ・K・ディック(Philip Kindred Dick 1928~1982)。
≪私の内部に巣食っていて、さまざまに形を変えて現われる怒りを分析してみれば、それをかきたてるのは、たぶん無意味なものを見ているからだろう。混沌、すなわちエントロピーの力をなしているもの、つまり私に理解できないものに代償的価値はない。私の書いたものは私の人生であり、私が見たもの行ったことを素材にして、意味を持つ作品に造り上げた、私なりの試みなのだ。成功の確信は持てない。第一、自分が見たものを裏切って表現することはできない。私は混沌や悲しみを見てきたから、それを書かずにはいられないのだ。勇気やユーモアを見てきたからそれについても書く。しかしそうしたからといって作品全体がどうなるものでもあるまい?その全体に意味を与えてくれるような展望とはどういうものか?
 私にとって救いがあるとするなら、それは恐ろしいもの、不毛なものの中心にある、カラシの種のような滑稽さを見つけ出すことだ。私はもう五年もの間、執筆中の長編のために重大で厳粛な神学的問題を追求している。世界の叡智が、印刷されたページを離れて私の脳に侵入し、言葉という形になって処理され、保存される。言葉が出入りするその狭間で、脳は面倒くさげに言葉の意味を見定めようとする。私は先日の夜、『哲学百科事典』の「インド哲学」の項目を読みはじめた。この事典は私が重宝している八巻の参考文献だ。時間は午前四時で、私は疲れ切っていた。この小説のために、こんな調べものをいつまでもつづけている。この重々しい項目にはこう記述されている。
 「仏教の観念論者はいろいろな論証を用いて、知覚するものとはことなる外部の事物についての知識を知覚は授けてくれないと説いている。…外部の世界は多くの様々な事物から成り立っていると思われるが、事物の相違が分るのは、事物に<関する>様々な種類の経験があるからである。されど、この諸々の経験を区別することが可能だとするなら、外部の事物について余計な仮説を立てる必要はない…」
 言葉を換えれば、「現実とは何か?」という認識論の根本的な疑問にオッカムのかみそり(無用な複雑化を避け、最も簡単な理論をとるべきだという原理)を当てることによって、仏教の観念論者はこんな結論に達した。すなわち外部の世界への信仰は無用な仮説であり、すべての西洋科学に通底するオッカムのかみそり、つまり節減の原理に違反することになると。かくして外部の世界は忘れ去られ、われわれはもっと大切な仕事に取り組むことができる――それが何であろうと。
 その夜、私は笑いながら床に入った。笑いは一時間ほど止まらなかった。いまだって笑っているほどだ。哲学と神学を極限まで追求すると(仏教の観念論者は、この双方の極限なのだろう)、最後にはどこへ行きつくのか。無である。何も存在しない(仏教の観念論者は自己もまた存在しないことを証明した)。前述したように、脱出口は一つしかない。すべてに滑稽さを見出すことだ。(『ゴールデン・マン』の序文(1980)より『フィリップ・K・ディックのすべて』飯田隆昭訳)≫

『火の鳥 鳳凰編』より。
なぜか笑っちゃうんですよ。

Zhuangzi
『「古之人、其知有所至矣。惡乎至?有以為未始有物者、至矣盡矣、不可以加矣。其次以為有物矣、而未始有封也。其次以為有封焉、而未始有是非也。是非之彰也、道之所以虧也。道之所以虧、愛之所以成。果且有成與虧乎哉?果且無成與虧乎哉?』(『荘子』斉物論 第二)
→昔の人の知恵は行き着くところまで行ったものがある。どこにまで至ったのか?最初から存在などない「無」であり、至れり尽くせり、なにものを加えることもできない境地に達していた。それに次ぐ知恵は、物が存在するとしながらも、それを人間の知のはたらきの枠にはめることはできないとした。さらに、それに次ぐ知恵は、物は人間の知のはたらきの枠にはめることができるとしながらも、そこに是非の判断を加えない境地にあった。是非の判断が入ると、道(tao)は破壊されていき、道が破壊されていくところから愛憎の情念が湧き上がる。果たして道に完成や破壊があるのか?完成も破壊も無いのか?

『夢飲酒者、旦而哭泣。夢哭泣者、旦而田獵。方其夢也、不知其夢也。夢之中又占其夢焉、覺而後知其夢也。且有大覺而後知此其大夢也、而愚者自以為覺、竊竊然知之。君乎、牧乎、固哉。丘也與女、皆夢也、予謂女夢、亦夢也。是其言也,其名為弔詭。萬世之後,而一遇大聖知其解者,是旦暮遇之也。』(『荘子』斉物論 第二)
→夢の中で酒を飲んでいた者が、目覚めてから「あれは夢だったのか」と泣いた。夢の中で泣いていた者が、夢のことを忘れてさっさと狩りに行ってしまった。夢の中ではそれが夢であることはわからず、夢の中で夢占いをする人すらある。目が覚めてから、ああ、あれは夢だったのかと気付くものだ。大いなる目覚めがあってこそ、大いなる夢の存在に気付く。愚か者は自ら目覚めたとは大はしゃぎして、あの人は立派だ、あの人はつまらないなどとまくし立てているが、孔子だって、あなただって、皆、夢の中にいるのだ。そういう私ですら、また、夢の中にいるのだがね。こういう奇妙な話が分かる大聖人に会えることは本当に希で、千年に一人でもいたら幸運だろうよ。

参照:『マトリックス』と胡蝶の夢。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5102/

今日はこの辺で。


© Rakuten Group, Inc.